大河が良い ◆「細かいところを見れば史実との整合性に無理がある」というツッコミも聞こえる本作ですが……問題はドラマとして面白いか否か? いや、いいっすよね! 花山天皇を世に送り出した功績だけでも熱い。 平安京(街中)については、よろしければ以下の考察記事もご覧ください!

大河が良い ◆「細かいところを見れば史実との整合性に無理がある」というツッコミも聞こえる本作ですが……問題はドラマとして面白いか否か? いや、いいっすよね! 花山天皇を世に送り出した功績だけでも熱い。 平安京(街中)については、よろしければ以下の考察記事もご覧ください!
大河ドラマ『光る君へ』の第3話は、三郎こと藤原道長が放免(ほうめん・検非違使の下級役人)に捕縛されてしまうシーンからスタート! 追手に追われていた謎の男を救うため、まひろ(紫式部)がわざと逆の方向を指さしたところ、姿かたちが似通っていた三郎が誤認逮捕されてしまったのですね。 本当は、兼家の息子である三郎の正体を知らず、安否を案じるまひろ。 そこへ「あの男は大丈夫だ」と謎の男が告げにきます。 ジリジリと二人の関係が近づきつつあるその頃、道長の父・藤原兼家は権力簒奪に余念がありません。 兼家の息子・道兼が女房に盛らせた毒により、体調不良で苛まされる円融天皇。 天皇の姿を案じる藤原実資は毒を疑い、陪膳の女房たちを取り調べ、食事の検分を実施することに……と、第3話も目が離せない『大河ブギウギ~光る君へ編vol.3』のスタートです!
大河ドラマ『光る君へ』第2話は、まひろ(紫式部)が成人の儀「裳着」を迎えるところからスタート。 「人はなぜこうも儀式が好きなのか?」 幼い頃から利発だった彼女は、納得できないことがあると黙ってはいられないようで、6年前に母を刺殺した“みちかね”のことを藤原宣孝に尋ねている。 その“みちかね”の父である藤原兼家は、今週も権力掌握に向けて悪事全開。 安倍晴明を呼び出して呪詛を依頼したかと思ったら、息子のみちかね(藤原道兼)には「毒盛り」を命じる。しかも相手は帝! 兼家に操られているのは、まひるの父・藤原為時も同じである。 こちらは、家庭教師スパイとして師貞親王(花山天皇)のもとへ送り込まれ、ある意味、平和な下ネタトークに付き合わされ……と、第2話もエキサイティングだった2024年大河を漫画で楽しむ『大河ブギウギ~光る君へ編vol.2』、スタートです! とある呪術坂東巳之助が演じる円融天皇。 藤
急遽、新連載のスタート! 弊サイトで戦国ブギウギや日本史ブギウギを手掛けていたアニィたかはしの新作『大河ブギウギ 光る君へ編』が本日から始まります。 2話が終わってから――と、中途半端なタイミングでサーセン。 「この平安、最高じゃん!」という意見が合致しまして。 今回はまだボリュームも少ないですが、随時、コンテンツが揃い次第、投下させていただきますので、皆さま何卒よろしくお願いします! ひか君 ◆「ブギウギ」というのはアニィたかはしの漫画シリーズの定番タイトルとなっています。 戦国ブギウギ(→link) 日本史ブギウギ(→link) 以降、お見知りおきを~。 覚醒 ◆『今年はスイーツ大河だろw』とか思いながら視聴し始めた人は度肝を抜かれたことでしょう。 「当時の社会システムは穢れの概念に基づいているから、高貴な人間が自ら刺殺するなんてありえない」というご指摘もあったようですが、その辺のから
忠勝のように最強と畏怖されるでもなく。 政信のように知略を称えられるわけでもない。 されど徳川家康が江戸で武家政権を運営してゆくにあたり、絶対に欠かせなかった人物がいます。 伊奈忠次です。 この忠次、実に二度も徳川家から離れておきながら、三度目の正直で才能を開花させ、家康の政権運営を支えたとも言える重要な人物。 だからこそ大河ドラマ『どうする家康』にも登場した……かと思ったら一瞬で終わってしまい、『どんな実績があるのか?』と気になった方もいらっしゃるでしょう。 1610年8月1日(慶長15年6月13日)はその命日。 いったい伊奈忠次とは何者なのか、振り返ってみましょう。 三河に生まれて出奔伊奈忠次は天文19年(1550年)、三河国幡豆郡小島城主・伊奈忠家の嫡男として生まれました。 家康が天文11年(1543年)生まれですので、年代的にはほぼ一回り下。 しかし永禄6年(1563年)の三河一向
大正八年(1918年)7月22日は、現在【1918年米騒動】と呼ばれている一連の暴動事件が始まった日です。 一体何がどうしてこんなことになったのか。 まずは「当時の日本人にとってお米がどんなものだったのか」をざっくりつかむところから始めましょう。 最近はあまりお米が好きではないという人も増えてきましたしね。 エンゲル係数が今の2倍以上で60%当時の肉体労働者は、一日に米を一升=十合食べるのも珍しいことではありませんでした。 ここから半世紀ほど前の幕末には「西洋人に勧められて肉を食べたら、かえって疲れてしまった」という話もあるぐらいです。 米、特に玄米は炭水化物だけでなく食物繊維やビタミンなどの栄養素が豊富に含まれていますし、国内でたくさん採れるということでいいことづくしですから、理想的な主食といっても過言ではありません。 ただし白米の場合はかなり栄養が減ってしまうので、白米だけで完璧な食事
江戸幕府最後の将軍は、ご存知、第15代の徳川慶喜――。 存在感がある。 ゆえに多くの幕末フィクションにも登場する。 ならば実際の慶喜も魅力的だったのかどうか? というと、昨年話題になったNHKドラマ10『大奥』では、とんでもなく嫌味ったらしい人物に描かれており、そのキャラに驚かれた方も少なくないでしょう。 フィクションだからって、いくらなんでも誇張しすぎではないか? そう疑問を感じた方もいたはずです。 が、しかし……。 恐ろしいことにドラマ10『大奥』の慶喜像は、かなり的確に人物像を捉えているかもしれません。 要所要所の描写が、関係者や幕臣たちから嫌われ指摘されていたことと重なるのです。 特に劇中でも描かれた徳川家茂や孝明天皇、島津久光らが絡んでのシーンは、慇懃無礼な慶喜の真骨頂! というわけで、本記事では「史実の慶喜がどんな政治活動をしてきたか?」に注目し、将軍になる前後の時期を中心に政
低い身分の出自であり、体格も貧相だったとされる豊臣秀吉。 それに対し、生まれながらのプリンスであり、恵まれた体躯を持っていたとされる豊臣秀頼とは一体どんな人物だったのか? 2023年の大河ドラマ『どうする家康』では作間龍斗さんが演じ、2016年『真田丸』では中川大志さんの凛々しい姿が大きな話題にもなりました。 同時に彼は、母の淀殿と共に大坂の陣に散る、悲劇の母子としても知られます。 ご存知の通り、徳川家康に追い込まれて最期を迎えるわけですが、実際問題、秀頼にはそれ以外の生きる道は残されていなかったのでしょうか。 生き残る可能性があるならば、どうすればよかったのか。 慶長20年(1615年)5月8日はその命日。 豊臣秀頼の生涯を振り返りながら、散り際を考察してみましょう。
源頼朝にせよ、足利尊氏にせよ、徳川家康にせよ。 武家政権を築いた者たちはみな「征夷大将軍」となり、自身の子孫へ継承してゆきました。 たしかに鎌倉幕府は三代で源氏将軍が途絶えましたが、いずれにせよ武士が政治を担うならば という印象がありませんか? そこで不思議になってくるのが豊臣秀吉です。 九州から東北まで平定し、天下統一を果たした秀吉は、その後、征夷大将軍にはならず関白として武士の頂点に君臨しました。 公家の称号ではたしかに最高位とも言える関白。 もしかして豊臣政権が一代で崩壊してしまったのは「将軍」ではなく「関白」だったから? 「将軍」になっていたら長続きしていた? ということで、考えれば考えるほど不思議な秀吉の関白就任を振り返ってみましょう。
慶長10年(1605年)7月19日は、九州の戦国大名だった大友義統(よしむね)の命日です。 九州の大友家と言えば、鎌倉時代から続く超名門。 同じく九州の島津家とは同等の歴史があると言えますが、江戸時代を通じ、大名としての大友家の名前は聞きませんよね。 なぜなら関ヶ原の前に滅亡へ追い込まれてしまったから。 その原因は、この大友義統が「愚将」だったから――と、そんな評価が広がっていますが、果たして義統は本当にダメな武将だったのか? 生涯を振り返ってみましょう。 傾き始めた大友家の家督を継承永禄元年(1558年)、大友義統は大友家当主・大友宗麟の長男として生まれました。 母は大友家臣・奈多鑑基(なだ あきもと)の娘。 凡将として知られる義統ですが、幼少期や青年期にそれを示すようなエピソードは残されていません。 家督継承も特に問題なかったようで、天正4年(1576年)になると、嫡男として第22代・
皆さんは「大坂城」と聞いて、どんなイメージを抱かれるでしょう? 反り返った石垣の上に、白とエメラルドと黄金に彩られた天守閣が建つ――上掲画像のように荘厳な姿を頭に描くと同時に、少し間を置いて、豊臣秀吉の顔も浮かんできませんか? 足軽から関白へ。 日本史上でも他に類を見ない出世を果たした秀吉は、これまた前例のない規模で贅沢な大坂城を築きました。 ともすれば「えらいぎょうさんカネかけたのに、大坂の陣で徳川の狸にアレされてもうて……」とため息まじりに語られてしまうかもしれない。 しかし、天下人が精魂込めて築いただけに、結局、同城を物理的に支配した徳川もその影響力から逃れることができてはおりません。 単にデカいだけじゃなく、政治的にも特別な存在と言ってもいいでしょう。 では、そんな大坂城は如何にして建てられたのか? そもそも秀吉が最初に作ったのか? 本記事で「秀吉の大坂城」を振り返ってみたいと思い
というような意味で記されています。 一般的に城や館は壁に囲まれ、さらにその周囲に堀が掘られますが、掘り出した土で作られた防御壁(盛り土)というのが土居のイメージに近いでしょうか。 秀吉の御土居が他の土居と一線を画するのは、京都という都市全体を囲んだことにあります。 そのサイズが途方もない。 ◆東は鴨川、西は紙屋川、北は鷹峯・上賀茂、南は九条を囲む ◆囲いの総長約23km ◆その外周では幅4~18mの堀が掘られ ◆掘り出した土で土手を築き、その大きさは基底部幅9m×高さ3mとなった ◆土の上には竹が植えられ ◆七箇所の出入口が設置された(それに準ずる出入口も十箇所設置) 【参照】京都市情報館(→link) いかがでしょう。 御土居については確かな史料が無く不確実な部分もありますが、京都という都市全体を囲んでいるだけあって、規模は日本最大。 やはり太閤はん、やることが派手どすわ~。 と思ったら
明智光秀が本能寺で織田信長を討ち、その光秀を倒した豊臣秀吉が天下人になる――。 なにを今さら説明してんのか?と思われるでしょうが、では、秀吉の快進撃を支えたのは一体何だったのか? 「人たらし」とされる当人のキャラクターや「調略」に長けた弁舌能力などを脇に置き、今回、考えてみたいのが財力。 早い話、“カネ”です。 戦争の遂行には莫大な費用がかかる。 光秀の後は柴田勝家や徳川家康と戦い、さらには四国、九州、関東、東北と次々に平定していった――大量の軍隊を動かすために必要なカネを秀吉はどう調達していたのか? 何が豊臣政権の礎となったのか? 最初に結論を申しますと、その答えの一つが“銀”となります。 戦国時代と言えば“金”というイメージが強いかもしれませんが、今回は、銀が如何にして重宝されるようになり、ひいては秀吉の天下を支えるに至ったか、その歴史を振り返ってみたいと思います。 ※以下は秀吉の人た
成り上がりの金持ちが、美女をとっかえひっかえ自分のものにする――。 聞けば誰しも不快感を覚えてしまうであろう、この行状を堂々やってのけた人物がいます。 太閤殿下こと豊臣秀吉です。 側室にした女性は数知れず。当時から「アイツやり過ぎじゃね?」と指摘された行為は、なんとも節操なき相手にまで及んでいます。 現代で言えば、上司や同僚の身内に手を出しまくったわけですよね。 ここまで来ると、女癖が悪すぎて明治天皇に叱られた伊藤博文をも彷彿とさせますが、同時に豊臣秀吉は創作エピソードが多い人物としても知られます。 実際のところ、秀吉には何人の妻や側室がいたのか? それは、どんな女性たちだったのか? 本稿で秀吉の女性遍歴を振り返ってみましょう。 ※以下は伊藤博文の関連記事となります
伊達家は奥州のちっぽけな家……ではない伊達輝宗が大きく注目されたと言えば、やはり1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』でしょう。 渡辺謙さんが主役の政宗を演じ、北大路欣也さんが父の輝宗役。 いかにも豪華なキャスティングであり、大河の代表的な名作とされますが、問題がないわけでもありません。 劇中では、誤解を招く描写も少なくなく、例えば といった大きな誤誘導がありました。 実際の伊達家は、ちっぽけな家などではありません。 鎌倉時代から奥羽に睨みを利かせる存在であり、同エリアでは格上の大きな家でした。 そんな歴史の長い伊達家には、「婚姻政策に強い」という特徴があります。 なぜか多産に恵まれ、子供が多数生まれたため、各地の大名に輿入れさせたり、養子を送り込むなどして、影響力を拡大させることができたのです。 ヨーロッパで言えばハプスブルク家のような状態ですね。 しかし、それは奥羽特有の事象でもあり、豊
慶長18年(1613年)2月15日は早川殿の命日。 今川氏真の正妻であり、実父は北条氏康というお姫様でもあります。 大河ドラマ『どうする家康』で志田未来さんが演じていた「糸」を思い出す方もいらっしゃるかもしれません。 あの作品では、夫の氏真から「足手まといめ!」と罵られるシーンが印象的でしたが、史実の早川殿も酷い扱いを受けていたのか?というと、そんなことはないでしょう。 彼女は血筋的にも今川・北条の間でトップクラスであり、劇中であんな理不尽な扱いをされたのが不思議なほど。 では史実では一体どんな生涯だったのか? 夫の今川氏真と共に長寿をまっとうした、早川殿の軌跡を振り返ってみます。
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