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ブックマーク / bushoojapan.com (772)

  • 家康に“江戸”を託された伊奈忠次~街づくりの基本は大規模な治水事業にあった

    忠勝のように最強と畏怖されるでもなく。 政信のように知略を称えられるわけでもない。 されど徳川家康が江戸で武家政権を運営してゆくにあたり、絶対に欠かせなかった人物がいます。 伊奈忠次です。 この忠次、実に二度も徳川家から離れておきながら、三度目の正直で才能を開花させ、家康の政権運営を支えたとも言える重要な人物。 だからこそ大河ドラマ『どうする家康』にも登場した……かと思ったら一瞬で終わってしまい、『どんな実績があるのか?』と気になった方もいらっしゃるでしょう。 1610年8月1日(慶長15年6月13日)はその命日。 いったい伊奈忠次とは何者なのか、振り返ってみましょう。 三河に生まれて出奔伊奈忠次は天文19年(1550年)、三河国幡豆郡小島城主・伊奈忠家の嫡男として生まれました。 家康が天文11年(1543年)生まれですので、年代的にはほぼ一回り下。 しかし永禄6年(1563年)の三河一向

    家康に“江戸”を託された伊奈忠次~街づくりの基本は大規模な治水事業にあった
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    gui1 2024/07/31
  • 1918年米騒動が富山の主婦から勃発~内閣解散に追い込むまで全国へ拡大した理由

    大正八年(1918年)7月22日は、現在【1918年米騒動】と呼ばれている一連の暴動事件が始まった日です。 一体何がどうしてこんなことになったのか。 まずは「当時の日人にとってお米がどんなものだったのか」をざっくりつかむところから始めましょう。 最近はあまりお米が好きではないという人も増えてきましたしね。 エンゲル係数が今の2倍以上で60%当時の肉体労働者は、一日に米を一升=十合べるのも珍しいことではありませんでした。 ここから半世紀ほど前の幕末には「西洋人に勧められて肉をべたら、かえって疲れてしまった」という話もあるぐらいです。 米、特に玄米は炭水化物だけでなく物繊維やビタミンなどの栄養素が豊富に含まれていますし、国内でたくさん採れるということでいいことづくしですから、理想的な主といっても過言ではありません。 ただし白米の場合はかなり栄養が減ってしまうので、白米だけで完璧な

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    gui1 2024/07/27
  • 大野治長は大坂に散るしかなかった?乳母子の淀殿と命運共にした生涯

    大河ドラマ『どうする家康』で玉山鉄二さんが演じる大野治長は、史実でどんな人物だったのか? 噂話の類でよく囁かれるのがこれ。 いかにもゴシップ的な話であり、今となってはその真偽の確認は難しいですが、そんな風に語られるのにも理由があります。 治長は、常に淀殿の側にいて、大坂の陣で最期を迎えるそのときまで、付き添うようにして亡くなっているのです。 いったい何がどうしてそうなってしまったのか。 大野治長の生涯を振り返ってみましょう。 ※以下は淀殿の生涯まとめ記事となります

    大野治長は大坂に散るしかなかった?乳母子の淀殿と命運共にした生涯
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    gui1 2023/12/08
  • なんでこんなヤツが将軍なんだ!史実の慶喜はどこまで嫌われていた?

    江戸幕府最後の将軍は、ご存知、第15代の徳川慶喜――。 存在感がある。 ゆえに多くの幕末フィクションにも登場する。 ならば実際の慶喜も魅力的だったのかどうか? というと、いま話題のドラマ10『大奥』を見ていると、とんでもなく嫌味ったらしい人物であり、そのキャラに驚かれた方も少なくないかもしれません。 フィクションだからって、いくらなんでも誇張しすぎではないか? そう疑問を感じた方もいたでしょう。しかし……。 恐ろしいことにドラマ10『大奥』の慶喜像は、かなり的確に人物像を捉えているかもしれません。 要所要所の描写が、関係者や幕臣たちから嫌われ指摘されていたことと重なるのです。 特に劇中でも描かれた徳川家茂や孝明天皇、島津久光らが絡んでのシーンは、慇懃無礼な慶喜の真骨頂! というわけで、記事では「史実の慶喜がどんな政治活動をしてきたか?」に注目、将軍になる前後の時期を中心に政治家としての慶

    なんでこんなヤツが将軍なんだ!史実の慶喜はどこまで嫌われていた?
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    gui1 2023/12/07
  • 豊臣秀頼は滅びの道を歩むしかなかった?秀吉と淀殿の息子23年の生涯

    低い身分の出自であり、体格も貧相だったとされる豊臣秀吉。 それに対し、生まれながらのプリンスであり、恵まれた体躯を持っていたとされる豊臣秀頼とは一体どんな人物だったのか? 2023年の大河ドラマ『どうする家康』では作間龍斗さんが演じ、2016年『真田丸』では中川大志さんの凛々しい姿が大きな話題にもなりました。 同時に彼は、母の淀殿と共に大坂の陣に散る、悲劇の母子としても知られます。 ご存知の通り、徳川家康に追い込まれて最期を迎えるわけですが、実際問題、秀頼にはそれ以外の生きる道は残されていなかったのでしょうか。 生き残る可能性があるならば、どうすればよかったのか。 豊臣秀頼の生涯を振り返りながら、その散り際を考察してみましょう。

    豊臣秀頼は滅びの道を歩むしかなかった?秀吉と淀殿の息子23年の生涯
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    gui1 2023/12/01
  • 豊臣五奉行・増田長盛~内政外交に通じた武将が迎えた意外な最期とは

    増田」という地名に住んでいる人物として、天正元年(1573年)、当時28歳のときに羽柴秀吉に見出されました。 累代の家臣がいない秀吉は、目端の利く者を積極的に登用していたのです。 当時の秀吉は長浜城主であり、長盛には200石が与えられました。 有能な家臣であれば200石は少ないのでは? と思われるかもしれませんが、長盛の能力が低いわけではありません。 彼の活躍はあくまで武功に属さない、いわば縁の下の地味な働き。 秀吉の戦術は、大軍を運用するための兵站の確保や、優れた外交手腕に定評がありますが、そうした長所を担ってきたのが長盛のような人材でした。 豊臣政権の外交・内政を担う秀吉の躍進は、天正10年(1582年)に勃発した【能寺の変】から急加速。 それに伴い、この年に奏者とされた増田長盛の活躍も見えてきます。 長盛が重用されていた証拠に、越後上杉家との外交担当という重要な役割がありました。

    豊臣五奉行・増田長盛~内政外交に通じた武将が迎えた意外な最期とは
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    gui1 2023/11/22
  • なぜ秀吉は将軍ではなく関白になったのか?源氏じゃないから諦めた?

    織田がつき 羽柴がこねし 天下 すわりしままに うは徳川 織田信長と豊臣秀吉のやり方を、徳川は真似ただけじゃないか つまり「徳川は織田と豊臣が作り上げたものを、真似て政権にしただけだろうが!」と皮肉られているわけですが、もしも家康が聞いたら「天下取りの手は別にあるんだって……」と苦笑したかもしれません。 『鎌倉殿の13人』の最終回を覚えていらっしゃるでしょうか。 『吾鏡』を読み耽る徳川家康の場面がありましたが、あれは単なるサービスではなく、実際に家康が鎌倉幕府をロールモデルとして据えていたことを表しています。 家康の場合、秀吉とは異なり朝廷との一体化は進めず、東国政権として西とは距離を置いていました。 公家の頂点ではなく、あくまで源頼朝と同じ征夷大将軍としての地位を選んだのです。 拠地も関東からは移しません。 たしかに孫の和子(秀忠の娘)は後水尾天皇へ入内させましたが、姻戚関係で

    なぜ秀吉は将軍ではなく関白になったのか?源氏じゃないから諦めた?
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    gui1 2023/10/27
  • なぜ秀吉は将軍ではなく関白になったのか?源氏じゃないから諦めた?

    源頼朝にせよ、足利尊氏にせよ、徳川家康にせよ。 武家政権を築いた者たちはみな「征夷大将軍」となり、自身の子孫へ継承してゆきました。 たしかに鎌倉幕府は三代で源氏将軍が途絶えましたが、いずれにせよ武士政治を担うならば という印象がありませんか? そこで不思議になってくるのが豊臣秀吉です。 九州から東北まで平定し、天下統一を果たした秀吉は、その後、征夷大将軍にはならず関白として武士の頂点に君臨しました。 公家の称号ではたしかに最高位とも言える関白。 もしかして豊臣政権が一代で崩壊してしまったのは「将軍」ではなく「関白」だったから? 「将軍」になっていたら長続きしていた? ということで、考えれば考えるほど不思議な秀吉の関白就任を振り返ってみましょう。

    なぜ秀吉は将軍ではなく関白になったのか?源氏じゃないから諦めた?
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    gui1 2023/10/20
  • 大友義統は愚将か凡将か?秀吉に救われた名門大友家を結局滅亡させる

    1605年9月2日(慶長10年7月19日)は、九州の戦国大名だった大友義統(よしむね)の命日です。 九州の大友家と言えば、鎌倉時代から続く超名門。 同じく九州の島津家とは同等の歴史があると言えますが、江戸時代を通じ、大名としての大友家の名前は聞きませんよね。 なぜなら関ヶ原の前に滅亡へ追い込まれてしまったから。 その原因は、この大友義統が「愚将」だったから――と、そんな評価が広がっていますが、果たして義統は当にダメな武将だったのか? 生涯を振り返ってみましょう。 傾き始めた大友家の家督を継承永禄元年(1558年)、大友義統は大友家当主・大友宗麟の長男として生まれました。 母は大友家臣・奈多鑑基(なだ あきもと)の娘。 凡将として知られる義統ですが、幼少期や青年期にそれを示すようなエピソードは残されていません。 家督継承も特に問題なかったようで、天正4年(1576年)になると、嫡男として第

    大友義統は愚将か凡将か?秀吉に救われた名門大友家を結局滅亡させる
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    gui1 2023/09/28
  • 秀吉が心血注いだ大坂城~徳川が潰すも潰しきれなかった歴史を振り返る

    皆さんは「大坂城」と聞いて、どんなイメージを抱かれるでしょう? 反り返った石垣の上に、白とエメラルドと黄金に彩られた天守閣が建つ――上掲画像のように荘厳な姿を頭に描くと同時に、少し間を置いて、豊臣秀吉の顔も浮かんできませんか? 足軽から関白へ。 日史上でも他に類を見ない出世を果たした秀吉は、これまた前例のない規模で贅沢な大坂城を築きました。 ともすれば「えらいぎょうさんカネかけたのに、大坂の陣で徳川の狸にアレされてもうて……」とため息まじりに語られてしまうかもしれない。 しかし、天下人が精魂込めて築いただけに、結局、同城を物理的に支配した徳川もその影響力から逃れることができてはおりません。 単にデカいだけじゃなく、政治的にも特別な存在と言ってもいいでしょう。 では、そんな大坂城は如何にして建てられたのか? そもそも秀吉が最初に作ったのか? 記事で「秀吉の大坂城」を振り返ってみたいと思い

    秀吉が心血注いだ大坂城~徳川が潰すも潰しきれなかった歴史を振り返る
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    gui1 2023/09/28
  • 秀吉が京都を守るために築いた「御土居」は日本最大かつ異例の取組

    というような意味で記されています。 一般的に城や館は壁に囲まれ、さらにその周囲に堀が掘られますが、掘り出した土で作られた防御壁(盛り土)というのが土居のイメージに近いでしょうか。 秀吉の御土居が他の土居と一線を画するのは、京都という都市全体を囲んだことにあります。 そのサイズが途方もない。 ◆東は鴨川、西は紙屋川、北は鷹峯・上賀茂、南は九条を囲む ◆囲いの総長約23km ◆その外周では幅4~18mの堀が掘られ ◆掘り出した土で土手を築き、その大きさは基底部幅9m×高さ3mとなった ◆土の上には竹が植えられ ◆七箇所の出入口が設置された(それに準ずる出入口も十箇所設置) 【参照】京都市情報館(→link) いかがでしょう。 御土居については確かな史料が無く不確実な部分もありますが、京都という都市全体を囲んでいるだけあって、規模は日最大。 やはり太閤はん、やることが派手どすわ~。 と思ったら

    秀吉が京都を守るために築いた「御土居」は日本最大かつ異例の取組
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    gui1 2023/09/28
  • 秀吉を天下人にした圧倒的な財力~巨額の金銀はどこから来たのか?

    明智光秀が能寺で織田信長を討ち。 その光秀を倒した豊臣秀吉が天下人になったことは今さら説明するまでもないでしょうが、では、その快進撃を支えたのは一体何だったのか? 「人たらし」とされる当人のキャラや「調略」に長けた弁舌能力などを脇に置き、今回考えてみたいのが財力、早い話が“カネ”です。 戦争の遂行には莫大な費用がかかる。 光秀の後は柴田勝家や徳川家康と戦い、さらには四国、九州、関東、東北と次々に平定していった――大量の軍隊を動かすために必要なカネを秀吉はどう調達していたのか? 何が豊臣政権の礎となったのか? 最初に結論を申しますと、その答えの一つが“銀”となります。 戦国時代と言えば“金”というイメージが強いかもしれませんが、今回は、銀が如何にして重宝されるようになり、ひいては秀吉の天下を支えるに至ったか、その歴史を振り返ってみたいと思います。 ※以下は秀吉の人たらしに注目した記事です

    秀吉を天下人にした圧倒的な財力~巨額の金銀はどこから来たのか?
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    gui1 2023/09/24
  • 大の女好きだった秀吉には何人の側室がいた? 正室とは不仲だった?

    成り上がりの金持ちが、美女をとっかえひっかえ自分のものにする――。 聞けば誰しも不快感を覚えてしまうであろう、この行状を堂々やってのけた人物がいます。 太閤殿下こと豊臣秀吉です。 側室にした女性は数知れず。当時から「アイツやり過ぎじゃね?」と指摘された行為は、なんとも節操なき相手にまで及んでいます。 現代で言えば、上司や同僚の身内に手を出しまくったわけですよね。 ここまで来ると、女癖が悪すぎて明治天皇に叱られた伊藤博文をも彷彿とさせますが、同時に豊臣秀吉は創作エピソードが多い人物としても知られます。 いったい秀吉には何人のや側室がいたのか? どんな女性たちだったのか? 稿で秀吉の女性遍歴を振り返ってみましょう。 ※以下は伊藤博文の関連記事となります

    大の女好きだった秀吉には何人の側室がいた? 正室とは不仲だった?
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    gui1 2023/09/23
  • 息子に射殺された伊達輝宗(政宗の父)は凡将どころか外交名人なり

    「政宗の父である伊達輝宗をご存知でしょうか?」 こんな質問を投げかけると、多くの戦国ファンの頭に浮かんでくる印象的な場面があります。 あまりに衝撃的な展開のせいか、伊達輝宗に関しては 「敵もろとも撃たれる人ね」 という認識で終わってしまっているようで、実にもったいない……。 息子の政宗があまりにキャラ立ちしているせいか。 父の輝宗が注目されるケースは少ないですが、実際のところ、彼の功績無しに政宗の成功はあり得ませんでした。 では、伊達輝宗とは一体どんな武将だったのか?振り返ってみましょう。

    息子に射殺された伊達輝宗(政宗の父)は凡将どころか外交名人なり
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    gui1 2023/09/20
  • 北条から今川へ嫁いだお姫様・早川殿~今川滅亡後はどうしていたのか

    慶長18年(1613年)2月15日は早川殿の命日。 今川氏真の正であり、実父は北条氏康というお姫様でもあります。 大河ドラマ『どうする家康』で志田未来さんが演じていた「糸」を思い出す方もいらっしゃるかもしれません。 あの作品では、夫の氏真から「足手まといめ!」と罵られるシーンが印象的でしたが、史実の早川殿も酷い扱いを受けていたのか?というと、そんなことはないでしょう。 彼女は血筋的にも今川・北条の間でトップクラスであり、劇中であんな理不尽な扱いをされたのが不思議なほど。 では史実では一体どんな生涯だったのか? 夫の今川氏真と共に長寿をまっとうした、早川殿の軌跡を振り返ってみます。

    北条から今川へ嫁いだお姫様・早川殿~今川滅亡後はどうしていたのか
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    gui1 2023/09/18
  • まんが戦国ブギウギ武田三代記第28話 武田と上杉による上野原の戦い

    天文24年(1555年)、200日もの長きに渡って睨み合いを続けた【第二次川中島の戦い】。 両軍共に疲弊が激しく和睦――かと思ったら、年明け弘治2年(1556年)から信玄は早くも動き始め、そして迎えた弘治3年(1557年)。 信玄は再び謙信と対峙し【第三次川中島の戦い】へ向かいます。 別名「上野原の戦い」と呼ばれる激突、マンガ『戦国ブギウギ武田三代記』vol.28の始まりです! ◆前27話をご覧になりたい方は以下のリンクからご覧ください ↓

    まんが戦国ブギウギ武田三代記第28話 武田と上杉による上野原の戦い
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    gui1 2023/09/17
  • まんが戦国ブギウギ武田三代記第27話 大熊朝秀の挙兵で越後を崩せ!

    天文24年(1555年)4月、信濃・善光寺の栗田鶴寿が武田信玄の味方に。 北信濃の趨勢が一気に片付いてしまうこの出来事に驚いた長尾景虎が急遽出陣を決め、善光寺に布陣すると、武田軍も甲府から出て、両軍対峙。 いわゆる【第二次川中島の戦い】は、異常なまでに戦線が膠着し、向かい合ったまま200日を超え、ついには今川義元の仲介で和睦となります。 和睦の条件として、最前線にあった旭山城を破却して甲斐へ戻る信玄ですが……当然ながら野望を捨てるはずはない! 虎視眈々と次の機会を狙え……ということでマンガ『戦国ブギウギ武田三代記』vol.27の始まりです! ◆前26話を読みたい方は以下のリンクからご覧ください ↓

    まんが戦国ブギウギ武田三代記第27話 大熊朝秀の挙兵で越後を崩せ!
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    gui1 2023/09/17
  • まんが戦国ブギウギ武田三代記第26話 犀川の戦いで謙信と激突じゃ!

    足利義輝から「義」の字をもらい、武田義信となった信玄の嫡男・太郎。 天文23年(1554年)8月6日に初陣を果たすと、今度は娘の黄梅院が北条氏政に嫁ぐことになり、武田家では祝い事が続く。 と、喜んでばかりもいられなかった。 信濃の制圧と引き換えに、越後の龍こと上杉謙信との対決が始まり、北信濃での争いは激化していくばかり。 そこで信玄は一歩踏み込む。 天文24年(1555年)4月に信濃の重要拠点・善光寺を味方に取り入れ……ということで今週もマンガ『戦国ブギウギ武田三代記』vol.26の始まりです! ◆前25話を読みたい!という方は以下のリンクからご覧ください ↓

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    gui1 2023/09/17
  • まんが戦国ブギウギ武田三代記第25話 嫡男出陣で信濃平定は進むよ

    天文21年(1552年)11月から12月にかけて、武田義信と今川義元娘の婚礼儀式が実施されました。 休む間もなく、年明けすぐには北条から使いがやってきて、今度は信玄の娘・黄梅院と北条氏政の婚礼の打ち合わせ。 甲相駿三国同盟は一気に進み、後顧の憂いが無くなった武田は信濃への圧力を強めていきます。 砥石崩れからの雪辱を果たし、天文22年(1553年)第一次川中島の戦いで謙信との鍔迫り合いを経て、再び北信濃へ! いよいよ武田家の嫡男・義信も初陣……ということで『戦国ブギウギ武田三代記』vol.25の始まり! ◆前24話を読みたい!という方は以下のリンクからご覧ください ↓

    まんが戦国ブギウギ武田三代記第25話 嫡男出陣で信濃平定は進むよ
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    gui1 2023/09/17
  • 島左近が関ヶ原に散る~三成にはもったいない勇将とされたのは本当?

    慶長5年(1600年)9月15日は島左近の命日です。 諱は清興(きよおき)。 あるいは勝猛(かつたけ)とも伝わりますが、この島左近が多くの戦国ファンに支持されるのは、石田三成との主従コンビが劇的だったからでしょう。 とにかく有名すぎる唄がこちらですね。 「石田三成に持たせるにはもったいないものが2つあって、それが島左近と佐和山城だよ」という内容。 こうした高い評価に支えられてなのか。 今なお島左近の人気は高く、漫画ゲーム、あるいはゆるキャラなどでも大活躍しています。 そこで気になってくるのが史実の姿でしょう。 漫画ゲームから離れた、島左近とはどんな人物だったのか。 当に石田三成にはもったいないほど有能な武将だったのか。 生涯を振り返ってみましょう。 ※「嶋」という表記もありますが、稿では「島」で統一します

    島左近が関ヶ原に散る~三成にはもったいない勇将とされたのは本当?
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    gui1 2023/09/17