身近な人で「そのときは気がつかなかったけど、後になってみてその人の価値というか魅力というか大きさというかそういうことにハッとした人」は居ますか。勝ち負けではないのですが、あーあの人にはかなわない、そう思う人です。できればエピソードといっしょに聞かせてください。いつものようにコメントはいれませんけど大切に読みます。この質問もいつもよりも広めに回答数を設定します。よろしくお願いします。
「段落の書き出しを一字下げるか下げないか」という話題は、不定期に浮上してくるテキストサイト定番ネタだと思うんだけど、僕の考えをメモ。 関連 BLOG STATION:一字下げについて考える エロケンの酔いどれ日記~富山市桜木町周辺スナック放浪記?~:段落の先頭の一字下げについて Voice of Stone #1383 段落は 1行空けか、1字下げか。 ブログは簡単に文章をアップできるのが魅力なのか、段落タグ<P>を使わないで記述されることが多いようです。 ブログサービスの編集エリアには「改行を<BR>タグに置き換える」がデフォルトでオンになっているものも多く、HTMLタグを意識することなく日記を綴ることが出来るというのは、ブログが爆発的に普及した要因の一つであると思います。 僕自身、マークアップにはあまり拘りがなく、自分の理解している範囲内で使っているだけ。覚えていなくても、使用している
心を書く人は,心を削って書いているような気がします。 (Mugi2.0.1 - 削って削って)良い文章を書く人は、言葉を削って書いているような気がします。 どんどん言葉を削って行くと、三十一文字の短歌のようになってしまうのかもしれません。 短いけれども、言葉足らずではなく、言いたいことがきっちりと書き込まれている。 そんな文章に憧れます。 僕の叔母は、若い頃、短歌を習っていました。 子供の頃の話なので、短歌なんかさっぱりわからなかったのですが、それでも、すごいなあ、あんな百人一首みたいなものがよく書けるなあと思ったものです。 あるとき、叔母が1冊のノートを見せてくれました。 そのノートには、彼女が綴った自作の短歌がぎっしりと書き込まれていたのです。 短歌を詠むひとは、一度に十首も二十首も詠み、それを何日も繰り返してから、出来の良いものだけを発表するのだそうです。 学校の作文の時間に、1枚の
なぜ「結婚しなくてはいけない」(と多くの人は漠然と感じている)のか? (by「で、みちアキはどうするの?(9/6)」) http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20060906#1157553760 僕も20代までは「まあ、結婚なんてする必要ないんじゃない?束縛されるの苦手だし、子供が生まれたらいろいろと面倒なことも多そうだしさ。そもそも、子供ってあんまり好きじゃないんだよね」と思っていました。いやまあ、今だってそういう気持ちが皆無ではないのですけど。 しかし、30歳を過ぎたくらいから、少しずつ考え方が変わってきたのです。 「ある30代女性医師の『結婚願望』」 http://www5f.biglobe.ne.jp/~iyatsue/makeinunanokana.htm ↑では女性のことを書いているのですが、僕も最近「結婚したい!」というより「結婚しなくていいのか?」
飲み会でした。なにふつうの人みたいな生活してるんだか。 つーかDMCと逆パターンのような気がします。ふつうの人たちってマジメな話とかいつするんだろう? シロクマの屑籠(汎適所属) : オタク趣味を捨てずに結婚する方法の模索 これを読んだのでなんとなく。ちょう勝手に書きます。 趣味が近い必要がある。理解がない、はダメだし、関心がない、もダメ。趣味のために一緒に出かけられるくらいがよい。 つーわけで、サブカル好きな腐女子のひととかがいいですね。 読む本のジャンルが重なってると、掛けるお金が半分で済まないか? こちらの収入の多寡には無関係に、自分一人を食べさせられる程度の定収入があるひとが良い。 「この婚姻関係は、いついかなる時でも無条件に、夫と妻のどちらからでも、まったくペナルティなしに破棄することができる」というような内容の証書を作って2人で印鑑を押す。 ところでこれって、法律に優先させるこ
2024/02 | 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 | 2024/04 「郊外の美の悦楽は、慎重に、あたかも『煎じたように』消化され、散歩者自身が長い時間をかけて見出すものなのである」。(エッセイ「給水塔へ」から) 高速道路の高架付近や崩れかけた工場跡、丘の中腹を走る高圧線の鉄塔の下に小さな家々が「埋もれるようにたっている」パリ郊外の《魅力的》な眺めについて、堀江敏幸はそう述べる。「パリ郊外」についてはなにも知らなくとも、《散歩者のまなざし》をもって「都市計画における美醜の明確な区別」とはまったく次元を異にする「郊外の美」の存在を説くかれの意見にはまったく同感である。 個人的には、都市計画における「ランドスケープ」という概念には、なにやら胡散臭さをかんじずにはいられない。それは、人間が、人間の価値判断にもとづいて自
■ シベリウスの管弦楽曲は傑作揃いなのですが、残念ながら殆ど聴かれていませんね。かく言う私も最近まで全然知らなかったわけで、偉そうなことを言えないのですが、これは隠れた宝庫です。その中に「交響詩『大洋の女神』op.73」という曲がありまして、交響曲第5番と同じ時期に作られました。もっとも、交響曲第5番は1919年まで改訂が続けられています。 ■ この『大洋の女神』には3つの版が残されていて、これらは全てオスモ・ヴァンスカ指揮/ラハティ交響楽団(BIS)のCDで聴けます。まずは最終版の『大洋の女神』の紹介から。アメリカの音楽後援者カール・ステッケル(Carl Stoeckel)はコネチカット州(当時)ノーフォークでの音楽祭にシベリウスを招きました。この機会に、シベリウスはニューヨーク・フィルとメトロポリタン管弦楽団、それにボストン交響楽団の選抜メンバーからなるオーケストラを指揮して自作をいく
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