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  • 2011-04-06 - 風信2011

    戦前は羽田書店*に入り、1945年みすず書房の設立に携わり、45年間編集責任者をつとめた小尾俊人は、戦後を体現する代表的編集者のひとりである。小尾の『出版と社会』(幻戯書房、2007年、654頁、税込9975円)は、関東大震災後から日中戦争頃までの出版世界を活写した好著である。このなかに、関東大震災後の吉野作造が登場する。( * 羽田書店は、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』で著名な出版社であり、創業した羽田武嗣郎は元首相の羽田孜の父である。)それは「『明治文化全集』(日評論社)の出版」という章である。 1923年9月に起きた関東大震災の翌1924年に吉野作造が中心となり、石井研堂・尾佐竹猛・宮武外骨などとともに明治文化研究会をつくった。吉野は研究会を運営し機関誌の刊行に努めるとともに、折からの円ブームもあって、日評論社から依頼のあった『明治文化全集』の編集と刊行にまさに心血を注いだ。そ

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    haruhiwai18 2018/04/19
    "陸軍には甘粕正彦のような男はいくらもおる。甘粕がやらなければ外の誰かがやったのだ。子供が一緒でなければ大杉事件はまるで知られずに済んだのだ。そして吉野博士もやられたかも知れない" →陸軍やべえな(こなみ
  • クリスチャン(?)上杉慎吉 - 風信2011

    世田谷区上北沢の賀川豊彦記念松沢資料館で、昨年吉野作造記念館で開催された「吉野作造と賀川豊彦」の移動展「賀川豊彦と吉野作造」が6月27日まで開かれている。キリスト者としての二人は《貧しき者、弱き者のために》様々な社会事業に取り組んだ。二人の背景および接点を描き出したこの展示は、貧困が深化拡大しつつある今日こそ、多くの人に見ていただきたい。 この展示で驚いたこと。天皇主権論者となる上杉慎吉が東大学生基督教青年会の会員名簿(1902年)に、のちに民主義を訴える吉野作造とともに名を連ねていたのは目を引く。後に首相となる片山哲の回想によれば、上杉慎吉と吉野作造はよく連れ立って青年会の寄宿舎に来て、学生たちと語らっていたという。

    クリスチャン(?)上杉慎吉 - 風信2011
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    haruhiwai18 2015/12/27
    ”2上杉慎吉が東大学生基督教青年会の会員名簿(1902年)に、のちに民本主義を訴える吉野作造とともに名を連ねていたのは目を引く" →ヨーロッパ留学までは、師・穂積八束を批判してたhttp://urx.red/q7Ydくらいだから(小波
  • コンベルソ(ユダヤ教徒からの改宗キリスト教者)をめぐる岡美穂子の二つの論考 - 風信2011

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    haruhiwai18 2014/10/07
    "16世紀にアジアにやってきた布教者のかなりの人数が コンベルソ(ユダヤ教からの改宗キリスト教者)""改宗しても本国で差別されつづけた彼らが「意識の二重性」を" →(内容) 「ぼくらが旅(アジア)に出る理由」
  • 表記の問題:京極純一先生 - 風信2011

    30年近く前、京極純一『日人と政治』を作る際、著者の楷書体の手書き原稿に「五穀豊饒」という表現があった。私は相当に悩み調べ、京極先生に「私が調べた辞典では、五穀に続くのは豊穣であって豊饒はありませんでしたが」とおうかがいをたてた。 京極純一先生は「私の小さいころの神社のお祭りの幟には、五穀豊饒とあり、偏であったのを記憶しているんだがねえ」とおっしゃいつつも、禾偏に変えて下さった。その時はそれで済んだが、以来、白川静の辞典にあたってもよく分からないまま、今日まで、私のうかがいは正しかったのかどうか、自信がないままである。 たまたま『日中文化交流』№815(2014.4.1)の巻頭の大野玄妙(法隆寺管主)「平和への祈り」を読んでいたら、「五穀の豊饒」という言葉が出てきた。う〜ん。 画一主義は避けて、五穀豊穣と五穀豊饒の二つがあったほうがいいんだろうな。 京極純一先生からは万年筆による楷書体

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    haruhiwai18 2014/04/11
    "「シナ」という表記の歴史的根拠、宣戦布告なしの戦闘であるがゆえに「日中戦争」と表記することは不可であること、について詳しい説明をされた" →ド、、独ソ戦・・(震え声/なお 西園寺公望の意見:http://p.tl/-u7y
  • 坂本太郎の自伝『古代史の道:考証史学60年』:南原繁、矢内原忠雄、東京大学出版会 - 風信2011

    Y社のY氏より、歴史学者の坂太郎の自伝『古代史の道:考証史学60年』(読売新聞社、1980)[『坂太郎著作集第12巻 わが青春』収載]の一部分、戦後、東大史料編纂所が文学部から独立し、史料の再刊に至る箇所を送っていただく。 読んでみると、史料編纂所長に就任した坂太郎は、予算面・人事面で、時の総長南原繁の冷たい態度に遭遇。坂が社会科学研究所の宇野弘蔵(著名なマルクス経済学者)にぼやいたところ、宇野は「南原さんは歴史がわからんから同情がないのだよ」と事もなげに言われたという。 東大史料編纂所に対して南原が冷たかった頃、1951年3月、南原の発意で東京大学出版会が創設され営業を開始した。そして、昭和19年を最後として7年間出版不能となっていた同所の復活の狼煙である『大日史料』『大日古文書』『大日近世史料』『史料綜覧』について、その発売を東大出版会が担うこととなった。 その発売は19

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    haruhiwai18 2014/04/11
    "坂本が社会科学研究所の宇野弘蔵(著名なマルクス経済学者)にぼやいたところ、宇野は「南原さんは歴史がわからんから同情がないのだよ」と事もなげに言われたという" →"歴史学"なき歴史哲学の姿w
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