ブックマーク / www.tapthepop.net (14)

  • ロビー・ロバートソンとロニー・ホーキンスの出会い、そして始まるザ・バンドの物語|TAP the CHANGE|TAP the POP

    アメリカのロック史を語る上で欠かせない存在のひとつ、ザ・バンド。 1968年にリリースした1stアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』は、メンバーの卓越した演奏技術、そしてロックンロールとアメリカン・ルーツ・ミュージックを見事に融合させたサウンドが高く評価され、続く2ndアルバム『ザ・バンド』では全米アルバム・チャート2位を記録、瞬く間にアメリカを代表するバンドへと登りつめた。 彼らの存在とその完成された音楽は、今なお多くのミュージシャンから敬意を集め、多くの人たちに愛されている。 そのザ・バンドで、主にリード・ギターとソングライティングを担当していたのがロビー・ロバートソンだ。 1943年にカナダのトロントで生まれたロビーが、初めてロックンロールを聴いたのは1956年夏の終わり、13歳の頃だった。 アメリカではエルヴィス・プレスリーが「ハートブレイク・ホテル」「冷たくしないで」

    ロビー・ロバートソンとロニー・ホーキンスの出会い、そして始まるザ・バンドの物語|TAP the CHANGE|TAP the POP
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2018/11/09
    "ロニーだが、才能あるミュージシャンを見抜く目、そして彼らを惹きつけるカリスマ性は本物""ホークスには…リヴォン・ヘルムがいた。""ロビー・ロバートソンの才能も見逃さなかった" →見る目はあったのか(こなみ
  • フランク・シナトラのように歌いたかったジム・モリソン

    1960年代後半のアメリカにおけるロック・シーンで、セックスシンボルとなったドアーズのジム・モリソン。 その最期は27歳の若さで不慮の死を遂げるという、破滅的なロック・スターの典型ともいうべき生涯だった。 しかしジム自身はというと、その生い立ちにおいてロックからそれほど影響を受けてこなかったようである。 少年時代から家にこもってを読んでばかりいたというジムは、ウィリアム・バロウズやジャック・ケルアックといったビート・ジェネレーションの文学にのめり込み、その影響は彼の詩にあらわれている。 一方で歌い方はというと、ときおり激しくシャウトすることもあるが、普段はなめらかな歌声で、バリトン・ボイスをソフトに響かせる。 これは1930~40年代に流行したクルーナー唱法という歌い方に近く、ロック・シンガーが用いる歌い方ではない。 ジム・モリソンは、あるときインタビューでレッド・ツェッペリンについて訊

    フランク・シナトラのように歌いたかったジム・モリソン
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2018/07/04
    "当のフランク・シナトラはというと、ラジオなどでドアーズの音楽を耳にすると苛立ちを露わにしたという。それは自分の歌い方を盗まれたという理由からだった。" →シナトラを完コピできたジム・モリソン
  • GLIM SPANKY~はっぴいえんどの幻影が立ちのぼってくる「ガラスの林檎」

    ロックとブルースを基調にした男女二人組のロック・ユニット、GLIM SPANKY(グリムスパンキー)がNHKホールで10月12日に開催された「The Covers’ Fes 2017」で、松田聖子のヒット曲として知られる「ガラスの林檎」をカヴァーした。 その歌と演奏を聴いた観客のなかからは、「なぜか、はっぴいえんどの幻影が立ちのぼってきた」という感想もあったという。 はっぴいえんどのドラムんだった松隆が作詞した「ガラスの林檎たち」は、朋友の細野晴臣が作曲と編曲を手がけて1983年に発表された作品である。 デビューから3年半、トップアイドルだった松田聖子の14枚目のシングルとして発売された「ガラスの林檎」は、8月15日付のオリコンでシングルチャート1位を獲得した。 そして12曲連続で1位になったこのシングルのB面だったのが、後に名曲と呼ばれる「SWEET MEMORIES」だった。 それが

    GLIM SPANKY~はっぴいえんどの幻影が立ちのぼってくる「ガラスの林檎」
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2017/11/28
    "テレビの人気番組『欽ちゃんのドンといってみよう!』のビデオと彼らの歌声の資料を参考にして、細野はわずか30分余りで「ハイスクールララバイ」をつくってしまった" →さすが細野晴臣(こなみ
  • 『ラスト・ワルツ』のハイライトと讃えられるマディ・ウォーターズの名唱が記録された背景

    ザ・バンドが残した伝説のコンサート『ラスト・ワルツ』は、1976年11月25日にカリフォルニア州サンフランシスコのウインター・ランドで開催された。 厳しいツアー生活に終止符を打つために企画されたこのコンサートには、ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、ニール・ヤングなど、ザ・バンドと縁のあるミュージシャンがたくさん集まっていた。 その中にはブルースの生きる伝説、マディ・ウォーターズの姿もあった。 その日から遡ること1年前、ザ・バンドのリヴォン・ヘルムは友人のヘンリー・グローヴァーとともに自身のレーベルRCOを設立すると、その第1弾として幼少時代から憧れの存在だったマディ・ウォーターズをウッドストックに招き、アルバムをプロデュースしている。 ポール・バターフィールドやザ・バンドのメンバーも何人か参加した『マディ・ウォーターズ・ウッドストック・アルバム』は、グラミー賞のベスト・ブルース・レコー

    『ラスト・ワルツ』のハイライトと讃えられるマディ・ウォーターズの名唱が記録された背景
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2017/11/28
    "そのカメラマンは撮影クルーに指示を出すスコセッシの叫び声にうんざりして、ヘッドフォンを外していたためにフィルム・チェンジのタイミングを知らなかったからだ。" →マディーの画がちゃんと取れた背景
  • ボブ・ディラン~グラミーの舞台で歌った「戦争の親玉」

    1991年2月20日、ボブ・ディランはグラミー賞で音楽への功績を称えられて「特別功労賞」を受賞した。 俳優ジャック・ニコルソンの紹介で舞台に登場したボブ・ディランが歌ったのは、「Masters Of War」(「戦争の親玉」)だった。 アメリカを中心とする多国籍軍がイラクに侵攻したのは約1ヶ月前の1月17日。クウェート解放という大義名分のもとに始まった湾岸戦争は、多国籍軍による一方的な展開となる。 アメリカではメディアを通じてその正当性が訴えられ、テレビでは空爆を中心として血の流れない現実感に欠けた映像が流された。そうしたメディア戦略の効果もあり、アメリカの世論は概ねイラクへの侵攻を支持していた。 しかし、ディランはグラミー賞という舞台でそれを真っ向から否定し、この戦争で人の命と引き換えに私腹を肥やしている人たちを糾弾する。 いつか気づくことになるだろう 君たちに死が訪れた時 今まで稼いだ

    ボブ・ディラン~グラミーの舞台で歌った「戦争の親玉」
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    haruhiwai18 2017/06/30
    "アメリカの世論は概ねイラクへの侵攻を支持""しかし、ディランはグラミー賞という舞台でそれを真っ向から否定し、この戦争で人の命と引き換えに私腹を肥やしている人たちを糾弾" →空気を読まない男の偉大さ
  • クロスロード〜ロバート・ジョンソンの“幻の30曲目”を探して

    『クロスロード』(CROSSROADS/1986) アメリカ南部ミシシッピ州の田舎町で2道が交差して、一の寂しげな木が立っている場所。人はそれを「クロスロード」と呼ぶ。例えば、クラークスデールのハイウェイ61号線と49号線が交差するあたり。 そこで野望を持った若きギタリストは、テクニックと作曲、名声と富を手にすることができる。だが忘れてはいけない。それは夜の零時の少し前だ。間違いなくそこにいること。そして手にしたギターを弾いてみろ。黒い大男がやって来て、ギターを取り上げてチューニングをし始める。大男はギターを一通り弾き終えると、黙ったまま返してくる。するともう、何だって好きなように弾けるようになる。ただし、悪魔と取引しなければならない。自分の魂と引き換えに。 1936年11月23日、テキサス州サンアントニオ。若きギタリストは古いホテルの廊下を歩き、ドアをノックする。白人の録音エンジニア

    クロスロード〜ロバート・ジョンソンの“幻の30曲目”を探して
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2016/08/26
    "会場のムードはヘヴィメタルの早弾きに喝采""ユジーンはクラシックの超絶的な技巧を奏で始める(ここでジュリアードの学びが初めて役に立つ。結局はブルーズの勝負ではなくなるのだが!)" →ブルースさんマジ空気(konami
  • 細野晴臣の言葉で「読書と音楽が交差した」という松本隆が選んだ作詞家の道|TAP the STORY|TAP the POP

    隆がプロのミュージシャンとして音楽活動を始めたのは1969年の2月、細野晴臣に誘われてグループサウンズの「ザ・フローラル」にドラマーとして加入したときからである。 アマチュア・バンド「バーンズ」のドラマーだった松はベースがやめた際に、立教大学にベースのうまい人がいると聞いてメンバー補充のために、直に電話をかけて細野に面会を申し込んだ。 細野が20歳の大学生、松は18歳の高校生、その面会が初対面となった。 <参照>・細野晴臣はジミヘンの「ファイアー」と「紫の煙」を完コピして松隆のオーデションに臨んだ 慶応大学に進んだ松がバーンズのドラマー兼マネージャーとしてディスコのハコバンなどの仕事をしていたとき、複数のバンドを掛け持ちしていた細野からフローラルに参加しないかと声がかかった。 松はオーディションを受けて、正式に加入することになった。 そこからフローラルはメンバー・チェンジを経

    細野晴臣の言葉で「読書と音楽が交差した」という松本隆が選んだ作詞家の道|TAP the STORY|TAP the POP
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    haruhiwai18 2016/06/24
    "病弱の妹を思いやり、ときには妹の気持ちになって考え、妹が喜ぶことをしてあげる。女の子の気持ちを女の子以上に表現できる作詞家の原点は、おそらくそこにあったのではないだろうか" →松本隆。
  • ジョニー・キャッシュ〜とんだところでキースとばったり

    ロック、カントリー、ソングライター、ゴスペル。4つの部門での殿堂入りを果たした歌手はジョニー・キャッシュをおいて他に誰もいない。 1992年1月、ロックン・ロールの殿堂入りを祝う集いが開かれたニューヨークのホテル「ウオードルフ・アストリア」には、ニール・ヤング、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ、ジョン・フォガティ、ロビー・ロバートソンなど、多くのミュージシャンが詰めかけていた。 式が始まる前に用を足していたら、誰か後ろに立つ奴がいる。そしていきなり馬鹿でっかい声でを歌い始めた。ほら、『Ride This Train』に入ってる俺のナンバーだ。振り向くまでもない、あいつに決まってる(笑)。 肩を並べたキース・リチャーズは、さらに声を張り上げる。 「凄いぞ、俺は! ジョニー・キャッシュと並んで立ちションしてるんだぜ! お~い、誰か写真を撮ってくれよ!」 「『それだけはやめてくれ!』と俺は慌てて叫

    ジョニー・キャッシュ〜とんだところでキースとばったり
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    haruhiwai18 2016/06/12
    "「…ジョニー・キャッシュと並んで立ちションしてるんだぜ! …誰か写真を撮ってくれよ!」""「『それだけはやめてくれ! … 明日、セサミ・ストリートに出なきゃなんないんだ!』…」" →ロックスターの共演(in トイレ)
  • 謎の?!地名にまつわるブルース〜Sweet Home Chicago

    1937年にロバート・ジョンソンが発表した「Sweet Home Chicago」という歌がある。 ちょっとブルースを聴きかじったことがある人なら、たいがい演奏したことのある“最も有名なブルースナンバー”の一つだ。 エリック・クラプトン、ブルース・ブラザース、マジック・サム、フレディ・キングなどのカヴァーでも知られているこの名曲は、古今東西、数多のステージでセッションされ、様々なミュージシャン達から愛されてきた。 その曲の歌詞で繰り返される“ある部分”にまつわる謎がある。 現在では、ほとんど「Back to the same old place, Sweet Home Chicago」と歌われている部分が、ロバート・ジョンソンのオリジナルバージョンでは「Back to the land of California, To my sweet home Chicago」となっているのだ。 オリ

    謎の?!地名にまつわるブルース〜Sweet Home Chicago
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    haruhiwai18 2016/05/31
    "答えは「無知」でも「ジョーク」でもない。実は、カリフォルニア州にもシカゴと言う町があるのだ。正確にはポート・シカゴ(Port Chicago)という。""ポート・シカゴ事故" →テキサス州にパリがあるように(こなみ
  • 浅川マキと寺山修司~美空ひばりが大好きだったことと、詩人であることが共通していた二人

    Home TAP the SONG 浅川マキと寺山修司~美空ひばりが大好きだったことと、詩人であることが共通していた二人 - TAP the POP 寺山修司が知人の音楽プロデューサーだった寺幸司に誘われて、銀座にあったシャンソン喫茶『銀巴里』に出かけたのは、1968年の秋口のことである。 その頃の浅川マキは歌謡曲の「東京挽歌」でレコード・デビューしたものの、商業主義の軌道にはまったく乗れなかった。 だから歌を唄える場所はキャバレーか、シャンソン喫茶の『銀巴里』ぐらいしかなく、それも月に3回くらいしか仕事にならないという状態にあった。 寺はマルチアーティストとして注目の存在だった、寺山修司に声をかけて歌を聴いてもらうことにした。 「ちょっと面白い歌手がいるから見に来てくれないか」 寺山修司はひと目で浅川マキを気に入ったようだった。 そして寺に「彼女、詩人だね」と言った。 一緒に聴いて

    浅川マキと寺山修司~美空ひばりが大好きだったことと、詩人であることが共通していた二人
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    haruhiwai18 2015/12/13
    "誰も信じないかも知れないけど、マキは美空ひばりさんの歌がすごくうまくて、そのとおり歌える人なんです。「美空ひばりはこういう風にうたうけど、私はこういう風にうたうのよ…」" →あり得る(こなみ
  • ジミ・ヘンドリックスが初めてギターを燃やした日

    歯でギターを弾いたり、背面でギターを弾いたりと、数多くの衝撃的なパフォーマンスを生み出したジミ・ヘンドリックス。 中でもギターを燃やす有名なパフォーマンスが生まれたのは、1967年3月31日のことだ。 その日、ロンドンのとあるライブハウスでは、ウォーカー・ブラザーズの解散ツアーが初日を迎えていた。 前座として出演するバンドの中には、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの名も連なっていた。 アメリカ北西部のワシントン州で育ったジミは、当時からすでに誰も寄せ付けない神業的なギターの腕前だった。 だが、黒人差別が根強く残っていたアメリカよりも、イギリスのほうが受け入れられやすいだろうという理由から、前年の9月に活動の拠点をニューヨークからロンドンに移していた。 この日の出演者はウォーカー・ブラザーズ、エンゲルベルト・フンパーディンク、キャット・スティーヴンスら名のあるアーティストたちだった。

    ジミ・ヘンドリックスが初めてギターを燃やした日
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2015/11/20
    "曲が終わろうというところで…ジミはギターに火を点けた。 前代未聞のパフォーマンスに観客が唖然とした""このとき手に軽い火傷を負ったジミは、出番が終わるとすぐに病院に向かった" →火傷なら仕方ない(マテヤコラ
  • キース・リチャーズと権力との闘い〜絶望の淵で天使を見た男

    キース・リチャーズ(Keith Richards)と1970年代 キース・リチャーズにとって1970年代のある時期は、音楽よりもドラッグが中心の生活だったに違いない。 ローリング・ストーンズが70年代に発表したスタジオアルバムがすべてチャートの1位を記録したことも凄いが、9日間一睡もしなかったというコカイン最長覚醒記録や、ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌の「次に死にそうなロックスター」ランキングで10年連続1位という大記録も所持している。トップから落ちた時はがっかりして人はこんなジョークを飛ばした。「しまいには9位まで落ちた。何てこった、もう死にたくなったぜ」 キースのドラッグ生活は、警察との闘いの日々でもあった。キース自身の言葉を借りるなら、それは「権力vs庶民」ということになる。ロックスターのイメージを創った男としての責任感だろう。彼は世界中のファンの「行け! キース!!」的な期

    キース・リチャーズと権力との闘い〜絶望の淵で天使を見た男
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    haruhiwai18 2015/08/17
    "2015年7月16日、キース・リチャーズが自身のツイッターで、ローリング・ストーンズのカナダ公演前のバックステージで、リタとの再会の歓びを伝えるツイートをしました。" →トロント・セッション。
  • 「これが自由というものか」~60年以上も前のプロテスト・ソングが今もそのまま通用する歌の力

    今から60数年前、1954年の日では「これが自由というものか」というユニークな歌が、NHKラジオから毎週々々、全国に流れていた。 21世紀の現在でもそのまま通用するような痛烈なプロテスト・ソングを歌っていたのは、喜劇王と呼ばれたエノケンこと榎健一である。 エノケンはジャズからクラシック、民謡、浪曲にいたるまで、あらゆる音楽を歌い、ユーモア、ナンセンス、時事風刺、アドリブのギャグを加えた演技はスピーディでアクロバティック、もう二度と現われないコメディアンと言われている。 なお2番に出てくるMSAとは「MSA協定」のことで、日の軍事力増強を図るためにアメリカが援助を与えることを主旨とした内容で、この歌ができた1954年の3月8日に調印されていた。 この歌はエノケンが主演したNHKのラジオドラマ『とかくこの世は』(1954年4月~1955年3月放送)の挿入歌として誕生した。 それまでもエノ

    「これが自由というものか」~60年以上も前のプロテスト・ソングが今もそのまま通用する歌の力
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2015/08/03
    "知らない間に値上げして""知らない間にMSA""知らない間に教育法""知らない間に機密法""これは呆れた驚いた""何が何だかわからない""これが自由というものか""あなた任せの自由論" →自由民主党の"自由"の中身(マテヤコラ
  • 母国イタリアのなまりを捨て、美しい英語で栄光をかちえた移民の子、フランク・シナトラ

    『Frank Sinatora has a cold』シナトラ、風邪をひく うまいタイトルである。なにかと思わせておいて、風邪をひいたシナトラとは、「絵の具をなくしたピカソ」、「燃料の切れたフェラーリ」と、小粋につなげられると先が読みたくなってくる。 これを書いたのはゲイ・タリーズ。 60年代後半、「ニュー・ジャーナリズム」と呼ばれる手法で、ノンフィクションの世界に新風を吹きこんだ書き手である。 シナトラ人をインタビューするかわりに、100人をこえる周辺の人々に会う方法を彼は選んだ。の底をすりへらして、調べあげる手法である。 「風邪ひきのシナトラは、くしゃみひとつで、娯楽産業全体に衝撃を走らせる。それは、合衆国大統領の急病がアメリカ経済全体に及ぼす影響以上だ」 ゲイ・タリーズはそう書いた。 全盛期の1961年。ジョン・F・ケネディ大統領就任式の祝賀パーティの一切合財を仕切ったのはフラン

    母国イタリアのなまりを捨て、美しい英語で栄光をかちえた移民の子、フランク・シナトラ
    haruhiwai18
    haruhiwai18 2015/07/03
    "ラジオと蓄音機の爆発的な普及""ラジオにかじりついているうち、誰でも最新のヒット曲が覚えられるようになった。英語がわからない移民たちでも…" →イタリア系であるシナトラがスターになる背景。
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