(幻戯書房・2808円) 内在する「革命思想」を受け止めよう 尊皇攘夷(じょうい)思想がなぜ「もうすぐやってくる」のか。それは歴史の節目の、格闘と後始末が不徹底だったから。維新のあとの明治という時代、また、敗戦のあとの昭和という時代が浅かったからだ。蓋(ふた)をして忘れたことにしても、危機が深刻になるとマグマのように噴出する。その日が近いという切迫した感覚が本書を満たしている。 キーパーソンは、福沢諭吉と吉本隆明。この二人を加藤氏はこれまでもよく論じてきた。
(東洋経済新報社・2160円) ポスト工業社会は存続しうるか 『21世紀の資本』の登場で、経済問題として所得分配の極端な偏りが注目を浴びるようになった。けれども人々の所得がそれなりに成長するなら、格差への関心は薄れるだろう。かつての中国は階級・階層間における激しい対立と紛争に明け暮れたが、この三十年間は労力を各人の経済活動に集中させてきた。格差は厳然として存在するにせよ、それぞれが働いただけ所得を伸ばすことができたからだ。そこで多くの国は経済政策として経済成長を優先している。 ところが近年、国全体として経済成長しても、階層によっては賃金が伸びないという現象が目立つようになった。これでは格差問題が再燃してしまう。また技術革新が生じても、雇用や成長にはつながりにくくなっている。それでは技術革新を経済成長の原動力として目標に据える意味がなくなってしまう。
(講談社・2916円) 先進的で回帰的な「語り」の復権 本大著で渾身(こんしん)の力で論じられるのは、小説における人称と視点とそこから来る「私」の問題だ。 柄谷行人の『日本近代文学の起源』(一九八〇年)を一つの支点に、遡(さかのぼ)って小林秀雄、横光利一、バルト、デリダ、レヴィ=ストロース、ジュネットらの理論書、ジッドの『贋金つかい』、その一方、時代を下り、野口武彦の『三人称の発見まで』、高橋源一郎、保坂和志の評論書などを縦横に引きながら文学理論史をさらい、それを果敢に更新する。 ゼロ年代からの日本文学シーンは、大雑把(おおざっぱ)に言うと「前衛流行(はや)り」だ。奥泉光、保坂和志、磯崎憲一郎、岡田利規、青木淳悟、柴崎友香、山下澄人らが、語りの視点と人称に仕掛けのある小説を書いている。三人称多元視点でなくては見えないはずのことを一人称一視点のまま語ったり、その逆のことが行われたりし、渡部直
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