千葉雅也、納富信留、山内志朗、伊藤博明著、斎藤哲也編『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』の本文を特別公開。ありそうでなかった学び直しの決定版!
千葉雅也、納富信留、山内志朗、伊藤博明著、斎藤哲也編『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』の本文を特別公開。ありそうでなかった学び直しの決定版!
筆者はいわゆるロースクールに所属している。法曹養成を任務とするロースクールでは、ソクラティック・メソッドと呼ばれる問答を通じた教育が推奨されている。アメリカのロースクールでは、そうした教育方法がとられているらしいので*1、それを輸入しようということのようである。 ロースクールで行われるはずのソクラティック・メソッドが、ソクラテスが行ったと伝えられる問答法(dialectic)とどのような関係にあるかは、判然としないところがある。ロースクールの教員のすべて(あるいは大部分)が、ソクラテスの問答を描いたプラトンの著作の熱心な読者かと問われると、はなはだ心許ない。 とはいえ、ソクラティック・メソッドを標榜する以上、ソクラテスの問答法との関係について、全く無関心というわけにはいかないであろう。プラトンの描くソクラテスは、たしかに問答を通じて「徳とは何か」「知とは何か」等の深遠な問題を探究しているよ
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。 清塚邦彦 著 『絵画の哲学 絵とは何か、絵を見る経験とは何なのか』 →〈「序論 予備的な考察」(pdfファイルへのリンク)〉 →〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉 *サンプル画像はクリックで拡大します。「序論」本文はサンプル画像の下に続いています。 序論 予備的な考察 絵とは何かという問いについては、改めて探究するまでもなく、ある意味ではすでに誰もが答えを知っている。すなわち、物体の平らな表面に彩色や線描を施すことで、様々な事物の姿を見えるようにしてくれたもの、それが絵であると。とはいえ、この答えは、問いの終着点であるよりも、むしろ新たな出発点なのである。 私たちは絵のもとに様々な事物の姿
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。 宇野重規・加藤 晋 編著 『政治哲学者は何を考えているのか? メソドロジーをめぐる対話』 →〈「はじめに」(pdfファイルへのリンク)〉 →〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉 *サンプル画像はクリックで拡大します。「はじめに」本文はサンプル画像の下に続いています。 はじめに 本書のタイトルは『政治哲学者は何を考えているのか?』である。これは私としては、かなり正直につけたものである。いわゆる政治哲学者と呼ばれる人の思考法について、自分自身よく理解しているのかというと、実はそうでもない。わかっているつもりになっているだけかもしれない。ならば、一度、きちんと本物の政治哲学者たちから話を聞いた方が
カルチャーセンターの講義で「アレントとマルクス主義」を扱ったので、そのメモワールをここに挙げておこう。 宇野弘藏の恐慌論 宇野の恐慌論から始めよう。それは、一種の景気循環論であり、シュンペーターの議論に近いものを持っている。かつて我が国の戦後経済学はほぼマルクス経済学派によって占められていた。特に東大経済学部は、労農派マルクス主義者の牙城であった。宇野弘藏は労農派から出てマルクス研究を精緻化し、ある程度学問的議論に耐えるものに仕上げた。宇野経済学に学んだ経済エリートたちが、経済諸官庁を席巻していた50年から60年代初期にかけて、果たして彼らの教養がどれほど役に立ったか疑問に思う向きもあるかもしれないが、意外にもそれが通用したのである。それは宇野弘藏の学問理念によるところが大きい。彼はマルクスの『資本論』の所説を、イデオロギー的価値観から峻別し、ブルジョワ社会の原理的な分析に純化した。科学的
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。 鈴木貴之 著 『人工知能の哲学入門』 →〈「はじめに」(pdfファイルへのリンク)〉 →〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉 *サンプル画像はクリックで拡大します。「はじめに」本文はサンプル画像の下に続いています。 はじめに 人工知能:1958 年、1972 年、そして現在 初期の人工知能研究における中心的人物であったハーバート・サイモンとアラン・ニューウェルは、1958 年に、10 年以内に以下のようなことが実現するだろうという予測を立てた(Simon and Newell, 1958, pp. 7-8)。 ・デジタルコンピュータがチェスの世界王者になる。 ・デジタルコンピュータが数学の重
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あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。 池田 喬 著 『ハイデガーと現代現象学 トピックで読む『存在と時間』』 →〈「はしがき」(pdfファイルへのリンク)〉 →〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉 *サンプル画像はクリックで拡大します。「はしがき」本文はサンプル画像の下に続いています。 はしがき 現代ドイツ哲学の代表的哲学者と言われるM・ハイデガー(1889─1976)の主著『存在と時間』(一九二七年)が刊行されてから、もうすぐ百年が経つ。刊行されるや否や、瞬く間に話題になったと言われ、二〇世紀最大の哲学書と繰り返し言われてきたこの書物も、すでに一世紀分の歴史を有するに至った。一般に、ある出来事の歴史は、その出来事が起こった時点
数々の直弟子には示しえぬ所作 鈴木規夫 / 愛知大学教授・政治哲学 週刊読書人2023年12月15日号 井筒俊彦 起源の哲学 著 者:安藤礼二 出版社:慶應義塾大学出版会 ISBN13:978-4-7664-2842-1 実に生真面目な一書である。 頁を繰るたびに著者の井筒俊彦への真摯な姿勢が溢れんばかりに垣間見えてくる。そこには井筒その人の謦咳に接したことのある人々が井筒を語る際に漂わせる独特のえも言われぬ緊張感とは異なる何かを感じる。「井筒俊彦の一神教は、折口信夫の神道と鈴木大拙の仏教を一つに総合するものとして形になった。それが私の結論である」(i-ii頁)と早々に宣言して始められる本書の素直さは、井筒の数々のお弟子の方々にはとても示しえぬ所作であろう。井筒の直弟子のお一人である黒田壽郎からイスラームのあれこれを手ほどき頂いたこの書評子にとってはそうした驚きにも充ちた一書でもある。 と
コロナ危機と大学、高校/自己紹介/近くにある日常の課題と遠くにある関心事/自分で問いを立てる/ある哲学者の警鐘/アガンベンの問題提起/「例外状態」と「伝染病の発明」/アガンベンという哲学者の保守性/第二の論考/三つの論点(1)――生存のみに価値を置く社会/三つの論点(2)――死者の権利/保守主義/考えることの危険と哲学すること/社会の虻として――哲学者の役割/三つの論点(3)――移動の自由の制限/支配の条件/ルソーの自然状態論/支配の複雑性/移動の自由と刑罰/日本国憲法における移動の自由/政治家と哲学者――メルケルとアガンベン/アンティゴネ、そして見舞うという慈悲/殉教者と教会の役割/行政権力とは何か/行政権が立法権を超える時/二〇世紀最悪の「例外状態」/ヴァイマル期/改めて三権分立について 【質疑応答】 1.移動の制限はある程度仕方がないのでは?/2.日本ではどのような制限を行政権に加え
著者:蓮澤 優出版社:青土社装丁:単行本(424ページ)発売日:2023-09-26 ISBN-10:4791775708 ISBN-13:978-4791775705 内容紹介: 「狂気」の治療は本当に必要なのか。「正常な人間」は存在するのか ひとを規格に押し込める治療ではなく、主体を自由にし、ただひとりの自分自身でありうる治療を目指して。その歴史から司法精神医学制度の現在地にまでアプローチする。臨床医の著者が戸惑いながら考え、精神医学と哲学の専門知を往還する唯一無二の書。 「反精神医学」から治療論を見出す読みミシェル・フーコーという名前から人は何を連想するだろうか。一望監視装置(パノプティコン)? 生権力批判? 「人間の消滅」? スキンヘッドの戦闘的知識人? いずれにせよ、後世に与えた影響という点では、彼ほど「知の巨人」の呼称が似つかわしい存在もまれであろう。 フーコーは、主著『狂気の
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。 金光秀和 著 『技術の倫理への問い 実践から理論的基盤へ』 →〈「序章 技術の倫理という問い」(pdfファイルへのリンク)〉 →〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉 *サンプル画像はクリックで拡大します。「序章」本文はサンプル画像の下に続いています。 序章 技術の倫理という問い 1 なぜ技術を問うのか 古来より連綿と続く哲学の営みが、何かしら人間の行いや社会のあり方を考察の対象とするものであるならば、現代を生きるわれわれにとって、「技術」は当然のごとく、問いの対象となるべきものである。というのは、「技術」は人間の誕生以来、その生活の便利さや豊かさの向上に密接に関連し、現代に至るまで常に人間の
ジャック・デリダ『アデュー──エマニュエル・レヴィナスへ』藤本一勇訳、岩波書店、2004年 松葉祥一 本書は、一九九五年一二月、デリダがパンタン墓地で読み上げたレヴィナスへの弔辞と、翌年一二月に開かれたレヴィナス・シンポジウムでの開会講演「迎え入れの言葉」からなる。 書名にアデューという言葉が選ばれたのは、もちろんレヴィナスへの告別の辞としてである。「ずいぶん長いあいだ、かくも長いあいだ、私はエマニュエル・レヴィナスにアデューと言わねばならないのではないかと恐れていました」という一節で始まる本書は、友の死に捧げられた数多くのデリダのテクスト(『その度毎に唯一の、世界の終わり』、ガリレイ社、二〇〇一年参照)のなかでも、最も哀惜の念に満ちたものの一つだろう。 しかし、このタイトルが選ばれたのは、むしろデリダがこの概念をレヴィナス哲学の可能性の中心だと見なしているからである。アデューは、永遠の別
図書出版 文理閣 周辺地図のページへ 〒600-8146 京都市下京区七条河原町西南角 TEL.075-351-7553 FAX.075-351-7560 http ://www.bunrikaku.com 「反実在論の方向に振れた20世紀の思想の振り子は、新しい世紀に入るとともに実在論の方向へと動いた」(M・フェラーリス)。実在とは何か、この世界そして私たち人間とはいかなる存在か――この根本的な問いに答える好著。 第1章 カンタン・メイヤスーの思弁的唯物論 1 新しい実在論の動き 2 カンタン・メイヤスーの相関主義批判 3 メイヤスーの思弁的唯物論(小結) 第2章 カンタン・メイヤスーの偶然性の必然性について――因果的必然性をどう考えるか 1 偶然性の必然性 2 ヒュームの因果性批判 3 カントの超越論的観念論による解決とその問題点――偶然性・必然性・安定性(stabilit)をめぐって
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