ブックマーク / shinichiroinaba.hatenablog.com (9)

  • 政治poliltics・統治government・行政administration(承前) - shinichiroinaba's blog

    イマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論は経済理論としてみたときにはもはや到底真面目に相手にするに足るものではないが、政治理論ないし法理論の土俵にパラフレーズしてみるならばまだ救いがいがないでもない。ウォーラーステインは世界システムの二類型として「世界帝国」と「世界経済」とを提示しているが、これを公法的な概念系に移し変えることは十分可能だろう。その結果は以下のようになる―― 我々は包括的な世界システムの概念として、いまのところ「帝国」と「主権国家システム」の二つのタイプのものを持っている。このどちらも原理的には普遍的かつ包括的である、つまり理論的には世界全体をその支配下に置くことができる。もちろん現実には、我々はいまだかつて単一の世界システムの下に包括されたことはない。ただ、現今の国際関係秩序の軸のひとつとなっている、主権国家システムは、それに近いところまで行ったように見えなくもな

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  • 政治poliltics・統治government・行政administration - shinichiroinaba's blog

    もう採点は終わってしまったのだけど、東大教育学部での講義のまとめのために、メモ。 今日の日語では「政治」という包括的な上位概念のもとに、理論政治学(システム論)・政治過程論風の言い回しを用いれば「入力input」にあたる狭義の「政治」=公共的意思決定と、「出力output」にあたる「行政」とが包摂される、という風になっている。さらにこのような「政治」の大枠は「憲法constitution」という形で与えられ、「政治」は「行政」はもちろんのこと狭義の「政治」においても、主としてそれが「立法」という形で手続きを踏んでなされねばならない、という形で、「法の支配rule of law」に服している。とはいえ「憲法」自体も不変ではなく、狭義の「政治」にはその変更可能性までもが射程に入れられている。 あるいはこの「政治」の制度的な枠組みのことを「統治government」とも呼ぶ。日を含めた多くの

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  • 東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」 - shinichiroinaba's blog

    今日はICレコーダーを忘れた。まあ録音したのをそのまま起こしても使い物にならないし、いいか。 *フーコーの「統治性」 まずは近世絶対主義の内政国家における統治の論理――フーコーの言葉でいう「統治性governmentality」「統治理性governmental reason」についてのフーコーの議論を確認しておこう。 フーコーにおける「統治」なる語の用い方には気をつけておかねばならない。すなわちフーコーによれば、国家は統治の唯一の主体などではないし、国家が統治の典型的な主体とみなされる時代は一時的な、過渡的なものに過ぎないということである。フーコーの考えるところでは統治は教会の「司牧」と同一の系譜に連なる営みであるわけで、更に我々はすぐさま「家政」の概念に行き当たる。フーコーが注目する古典主義時代の内政国家とは、いわば「国家の家政」の主体であったわけである。 話は少しそれるが、フーコー没

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    hidedayo
    hidedayo 2009/10/30
    ”フーコーの考えるところでは統治は教会の「司牧」と同一の系譜に連なる営みであるわけで、更に我々はすぐさま「家政」の概念に行き当たる。”
  • フーコーの二つのリベラリズムと憲法学 - shinichiroinaba's blog

    労使関係論サーベイをおっぽって読んでいたAghion & Howitt(500ページだけどAcemogluを見たあとでは短くてやさしく見える! ふしぎ!)を更におっぽって無謀にも石川健治=駒村圭吾=亘理格「論点講座 憲法の解釈」(『法学教室』連載)を延々自分でコピーして(そろそろカネより時間を惜しむ年頃なんですがなんせ不景気で)読んでいる(しかし「憲法訴訟」とか「三段階審査」とかかじる前にやることがいくらでもあるだろうがと自分でも思う。いやでもいいですよこの連載。行政法学の勉強にもなるし)と石川大先生が最終座談会で超不穏な発言を。 私がそういう議論をする下敷きとして念頭に置いているのは、ミシェル・フーコーの1979年辺りの講義録です。その頃の講義において、フーコーは、どういうわけか西ドイツのオルドー・リベラリズムと格闘しており、ミイラ取りがミイラになってしまったみたいな感じになってしまって

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  • 「労使関係論」とは何だったのか(5) - shinichiroinaba's blog

    技術決定論、あるいは技術変化を外生変数としてカッコにくくる立場から脱却し、「問題の切り分け」を行うためには、「技術選択・技術変化の政治経済学」とでも呼ぶべきものが必要となるが、それは60年代の日においてはまだ望むべくもなかった。 マルクス主義の陣営においては、素朴な技術決定論への批判は、60年代以降の新左翼的ネオマルクス主義の勃興とともに、70年代以降格的に起こってくる。日においては戦後初期の武谷三男、星野芳郎らの技術論を継承しつつ、工場現場での技術者としての実践を踏まえた中岡哲郎らの産業技術論が出現し、熟練の解体についての疎外論的な議論を展開した。合衆国では、工場労働者としての経験を踏まえたハリー・ブレイヴァマンの『労働と独占資』が上梓され、それを受けてラディカル・エコノミストらによる生産過程分析が盛んとなり、スティーヴン・マーグリンやボウルズ&ギンタスらの、技術選択をめぐる階級

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    hidedayo
    hidedayo 2009/02/22
    "技術選択・技術変化の政治経済学"
  • 左翼・右翼・保守主義(承前) - shinichiroinaba's blog

    http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060712/p1 - 果たして「深い亀裂」とは何であるのか? 当はありもしない「亀裂」「危機」について左翼は妄想を抱いているだけ、という可能性はあるのか? 左翼人士もまた公共社会の一員であるのだから、なによりもまず危機意識を抱く左翼の存在そのものが既にして「亀裂」「危機」の、単なる表現とか徴候の域を超えた実体的な一部をなしており、それ自体で「危機」「亀裂」の存在を証拠立てている、とは言えそうである。しかしそうだとしても問題は残る。仮にこの「亀裂」「危機」を感受する一部の「左翼」の存在が問題の「危機」「亀裂」の単なる一部ではなく、全部であるとしたらどうだろうか。そうだとすれば、危機意識を抱く左翼を何らかの仕方で社会から切り離せば、「危機」「亀裂」は解消する、ということにならないだろうか? ――これはまさしく田

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  • 左翼・右翼・保守主義 - shinichiroinaba's blog

    田島正樹『読む哲学事典』(講談社現代新書)における「保守主義と左翼」項を中心とする一連の議論(書中の他項目並びに田島のブログ「ララビアータ」http://blog.livedoor.jp/easter1916/における関連エントリ)は、近年の憲法体制について考える上できわめて興味深い。 田島によれば「愛国的情熱は、公共性がいまや危機に瀕しているという危機感の中で生まれる政治的=公共的関心である。したがって愛国者にとって、政治的公共性(祖国)は黙っていても所与のものとして自然に存在しているものではない」(前掲書「保守主義と左翼」205頁)。 「ここで、祖国が直面する危機を、その政治的共同体内部の問題として捉え、それ自身を、常に潜在的に亀裂や対立を内包するものと見る立場を、左翼という。それに対し、祖国そのものは元来分裂を含まぬ統一体であるとみなし、それゆえ、祖国の危機はもっぱら外からのもの、

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  • インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - ゲームと公共性

    http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_e146.html 文献リストがほしいですな。 とりあえずweb上では http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/lhcontents.html#vol2 http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/510/510-1.pdf http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/510/510-2.pdf 告知を忘れていたが実は24日土曜日には福岡に飛んで、久留米大学サテライトキャンパスの公開講座で、「日にとってマルクス主義とはなんだったか」という話をしてきたのだ。 昨日28日には都立新宿高校で出張模擬授業をしてきたのだ。お題は「ゲームと公共性」。でも「公共性」という言葉の解説に時間をとられてゲー

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  • インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - 教育の政治経済学(含む「経済の教育社会学」by末廣昭)おさらい

    また仕切りなおして上げます。 山形氏がクルーグマンの「生産性、所得分配、失業」の話をしていたので、まず、生産性について昔書いたことを転載、リンクしておきます。ここまでの議論では「経済学が社会学を追い詰める」という感じにともすればなってますが、経済学で言えることもたかが知れています。 「生産性のメカニズムは実のところ経済学にとっては解明の対象と言うよりは議論の前提である、という印象はかつて労働問題を学んできた私自身がかねてから抱いていたものである。 たとえばこのことは、現代マクロ経済学の主潮流となった内生的成長理論には明確に当てはまる。内生的成長理論はかつての経済成長の理論モデルでは外生変数、モデルを作る際に前提として与えられていた技術進歩、生産性上昇を、モデルの中で決定されてくる内生変数として取り扱うところにポイントがあるわけだが、それにしたって、やれ、規模の経済がはたらいて(要するに、た

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