ヨハン・G・A・ガレッティ ヨハン・ゲオルク・アウグスト・ガレッティ(Johann Georg August Galletti, 1750年8月19日 - 1828年3月16日)は、ドイツの歴史学者、地理学者。ギムナジウムの教授をしながら生涯に渡り多数の歴史書や教本を執筆した。その講義中に残した数々の失言が広く語り伝えられている。 イタリア人バリトン歌手の父と宮廷近侍の娘だった母のもと、ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国(現在のテューリンゲン州)のアルテンブルクに生まれた[1]。勉強好きだったガレッティはゲッティンゲン大学に進んで法律、地理、歴史を学び、卒業後は住み込みの家庭教師をしながら『トンナ領史』『ラテン語文法教本』『幾何学指南』などの著作を執筆した[1]。1778年より母校であるゴータのギムナジウムで教授となり、以後40年間同校に勤めた[1]。1813年には宮中顧問官の称号を受け