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2008年2月23日のブックマーク (5件)

  • [GDC2008#16]「シミュレーションゲームの父」ことシド・マイヤー氏が,久々のGDC講演で「時間」を語る

    [GDC2008#16]「シミュレーションゲームの父」ことシド・マイヤー氏が,久々のGDC講演で「時間」を語る ライター:奥谷海人 「シミュレーションゲームの父」ことSid Meier氏。「時間を巻き戻して新しい歴史を作ってみたい」という人間の欲望が,Civilizationの人気につながったのだと説明する Civilizationシリーズなどで知られるSid Meier(シド・マイヤー)氏が久々にGDCに出席し,「Standing the Test of Time: A Q&A with Sid Meier」(時間との挑戦に立ち向かう:シド・マイヤーとのQ&A)という対談形式の講演を行った。質問者は,古くからGDCに貢献しているNoah Falstein(ノア・ファルシュタイン)氏。現在Anacondaレーベルで「Mata Hari」というアドベンチャーゲームを製作中の人物だ。 Meie

  • 夫にゲーム上の妻がいます | 恋愛・結婚 | 発言小町

    去年から、夫がオンラインゲームにはまっているのですが そのゲーム上で結婚したらしく、架空のがいます。 最初は気にも留めていなかったのですが、最近ちょっと不安になってきました。 買い物も一緒に行くことがなくなったし、事も別々に取るようになりました。 平日は帰宅してから寝るまで、休日は朝から晩までずっとゲームをしています。 こんな状態なので、普段の会話もめっきり少なくなりました。 逆に言えば、ゲーム上のとはその分多く会話している訳で。 どっちが当の夫婦か、わからなくなってきました。 それにゲーム上のが私の事を夫に聞いてきたみたいで、 夫に気があるのかな・・と良からぬことを考えてしまいます。 夫に不満を言うと、現実とゲームを一緒にするなんておかしいと言われました。 たかがゲームと思っていましたが、夫婦仲も悪くなったし、 まるで浮気されている気分です。 そこでお聞きしたいのは、チャットや

    夫にゲーム上の妻がいます | 恋愛・結婚 | 発言小町
  • 純文学的『ゲーム的リアリズムの誕生』評 - 感情レヴュー

    ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書) 作者: 東浩紀出版社/メーカー: 講談社発売日: 2007/03/16メディア: 新書購入: 34人 クリック: 461回この商品を含むブログ (462件) を見る東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』の特筆すべき点は、社会学者としての東浩紀と文芸批評家としての東浩紀が分業しているところであろう。 彼は作品分析に関して、「物語的主題」(何が語られているか)を追うのではなく、「構造的主題」(どのように語っているか)を追わねばならないとくり返し述べているが、それは書に関しても当てはまる。つまり、東氏は一々注釈していないが、書の読解はこの分業を構造的に区分しながら読むことが必要とされるのである*1。 どちらかといえば、社会学者としての東浩紀が勝っていた前著の『動物化するポストモダン』を読む感覚で

  • 純文学におけるエンターテイメントの影響を概説して、東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』を論じる : 感情レヴュー

    承前*1 リアルな世界よりもフィクションの世界の方にある種のリアリティーを見出すというか、創作上の可能性を見出した純文学最初の世代が、新感覚派以降、横光利一とかあのあたりだったというのは文学史的に妥当な線だろう。当時は、とりわけ相対性理論などの科学的言説が作家のテキストにしばしば登場したり、創作に影響を与えたりしたわけだが(川端のようにオカルトに流れる作家もちらほら)、そののちにも、たとえば60年代の日SFの勃興期に、三島由紀夫や安部公房なんかがSFの虚構を前提にした世界観に純文学の可能性を見出している。 横光は「機械」で、一人称視点を通して主観(に支えられた文学形式)というものがいかにあやふやでフィクショナルなものかを追求したし、三島は『美しい星』で、「UFOを見た私は宇宙人だ!」というSF的誇大妄想の狂言がひたすら肯定される(つまり、絶対にツッコミを入れない)叙述を通して、常識が通る

  • 現代批評の一分(2) - 感情レヴュー

    純文学をしていると、「東浩紀は文学をわかっちゃいない」という物言いをする人にしばしば出会う。口にしなくとも、彼の話を話題にすると、「ラノベのあれでしょ」的な我関せずの(まあそれはそれで妥当性のある)反応をして話は先に進まない。 今月号の「新潮」にて「小説と評論の環境問題」と題する討論の模様が掲載されていて、高橋源一郎と田中和生にくわえ、東浩紀が参加しているのだが、東氏に挑みかかる田中氏の発言からは、そのような純文学サイドの苛立ちを感じ取れた。ライトノベルを評価することはべつにかまわないが、純文学を軽視しすぎているという苛立ちだ。 その軽視は、たとえば、東氏が純文学の定義を「自然主義的リアリズム」として一括するところに求められる。僕としては、東氏のそのような定義を、べつに大文字の文学とか純文学に崇高な(ジャンルの存立)根拠を見出しているわけではなく、単に事実問題として粗雑だと思っている。 た

    現代批評の一分(2) - 感情レヴュー
    hiyokoya
    hiyokoya 2008/02/23
    言葉の経済性に関して、期待されるべき見識についてフォローした記事。ただ、批評あるいは論文的なものの書き手でなければレトリックのことはもっとわかりやすく言わないと通じないかもなあ。