ブックマーク / technique.hateblo.jp (11)

  • 避けられない真摯さ - Freezing Point

    1972年10月13日、ジャック・ラカンの講演より*1。 文字起こしは「Jacques Lacan à Louvain」を参照し、拙訳: La mort… est du domaine de la foi. 死は・・・信仰の領域に属する。 Vous avez bien raison de croire que vous allez mourir, bien sûr. 皆さんは、ご自分がもうすぐ死ぬことを知っています、当然ですね。 Ça vous soutient ! それがあなたを支えているのです! Si vous n’y croyez pas, est-ce que vous pourriez supporter la vie que vous avez ? もしそれを信じないとしたら、あなたは、自分の生を支えられるでしょうか。 Si on n’était pas solidement

    避けられない真摯さ - Freezing Point
    hizzz
    hizzz 2011/02/17
  • 「無縁死でいいじゃないか」 - Freezing Point

    hizzz 独り死で何が悪い! 有無を言わさない縁無縁での叙情共同体強調は、ひいては靖国的な国家包摂を要請することにも繋がることになりかねない方向へ。 生前の引きこもり問題が、 生活や権利の実務レベル  国家との関係では、《社会権》*1 「さびしい」といった価値観レベル  国家との関係では、《自由権》 に分かれるように、《死ぬこと》についても、この2つが分かれます。 価値観としては、「放っておいてもらう権利」は、ものすごく重要だと思うのです*2。 しかし、無縁死の状態は、「望んでそれを手に入れた」のか、「やむなくそうなった」のか*3。 独りで死んで、弔ってもらえないということは、生前にも「SOSを出せない状態」です。 ひとりでいることは、「さみしい」とかの価値観レベルで論じられがちですが、当の問題は、それが圧倒的に弱い立場であるということです。 無縁死という言葉に潜む「孤独なのは悪いこと

    「無縁死でいいじゃないか」 - Freezing Point
    hizzz
    hizzz 2010/02/10
    弔いというが墓一つとっても家父長制残滓が顔を出す。世間=長い物には巻かれよな同調共同体的価値観が抑圧支配してるからこそ、多様な個人事情・ライフスタイル補填する社会インフラ放置なのです。
  • つながりの《作法》こそが課題 - Freezing Point

    【承前】 録画したNHKスペシャル『無縁死 〜3万2千人の衝撃』を、メモを取りながら再視聴。 紹介されている事例は、堅実に生きてこられた方ばかりに見える*1(以下、敬称略)。 小林忠利(こばやし・ただとし、享年73) 32歳で勤務先が倒産。地元の秋田に両親を残して上京。 給センターで働き、定年後は工場で派遣労働。「無遅刻・無欠勤」「キツイ単調作業でもニコニコ」という人柄で、亡くなる直前まで両親の供養料を払い続けたが、人は無縁墓地に埋葬された。自宅で亡くなったのに、「氏名不詳」として官報に掲載された。 常山善治(つねやま・よしはる、享年55) タクシー運転手 ⇒ 医学生の実習のために献体され、「683♂」という番号札が付けられた。 若山鉢子(わかやま・はちこ、現在79才) 父親を早くに亡くした。 看護師の仕事と実母の介護で精一杯、結婚できなかった。 働いてつくった貯金で、40才の時にマン

    つながりの《作法》こそが課題 - Freezing Point
    hizzz
    hizzz 2010/02/04
    独り死で何が悪い!有無を言わさない縁無縁での叙情共同体強調は、ひいては靖国的な国家包摂を要請することにも繋がることになりかねない方向へ。
  • 臨床上の技法論としての、「身近な民主主義」 - Freezing Point

    ひきこもる人たちは、コミュニティでの人間関係は下手だが、選挙での投票率は高いといわれている*1。 つまり、《お祭りとしての意思決定》には比較的参加しやすいが、あいまいに持続して息継ぎの場所もよく分からない《日常の意思決定の関係性》が、できない。 システムに担保される意思決定の場があれば、参加しやすい。 あいまいなコミュニケーションを直接要求されるのではなく、暴力的に固定されたインフラにしたがって選択権を行使すれば済むような参加(選挙、インターネット等)。 「民主主義2.0」として、ネットでの直接選挙等が取りざたされているが*2、そこでは意思決定の方法が話題になっているだけで、《参加》の側面が論じられていない*3。 いくら新しい投票システムを考案しても、それは一時的なお祭りシステムを考案することに当たる。 斬新な意思決定システムの陰で、ベタな人間関係は前近代的体質で残り続ける。 継続的な社会

    臨床上の技法論としての、「身近な民主主義」 - Freezing Point
    hizzz
    hizzz 2009/11/20
    「仲良しコミュニティに満足する人は、その場が激しい強制力を内在させていることに、なかなか気付かない」
  • 無記名的な素材としての自分 - Freezing Point

    「暇すぎて死にそうなので>>4の半生でも聞こうと思う」(ニコニコVIP2ch) 【はてブ】 凝った筆名や実名ではなく、「4」「325」など、番号だけで「自分語り」がされていく。 当に目指すべきはこっちだ。 2000年前後に「当事者」が流行ったが、そうしたの著者名には、「>>4」という意味しかない。 誰が語ろうと、それは数ある検証素材の一つであり、番号のついた一事例でしかない。 ところが商業的には、あくまでキャラ立ちが目指される。 「この人はいかに特殊か」という演出で、商品の価値が仮構される。 現代人の社会化は、常にこのように詐欺的な方法をとる。 「自分はいかに特権的な一回性か」を、ウソをついて誇示する。 商品市場では、自分をフェティッシュとして確立できた人間の勝ちなのだ*1。 この方向には、ナルシシズムの確保しかない。 ちやほやされ、消費財として利用される「当事者」しかいない。 「当

    無記名的な素材としての自分 - Freezing Point
    hizzz
    hizzz 2009/10/15
  • 文化左翼と現場――hizzz さんの整理 【はてブ】 - Freezing Point

    たいへん励みになりました。 勝手に切り貼りしてみます。 左派は 「共産主義」「反戦/平和」理念運動派 と 差別/貧困解消等の社会/民衆運動派=現場援助活動 に分離し、 (略) この内、理念運動派は「文化左翼」と呼ばれました。 分離してしまったデメリットは、 個々現場援助活動の実態/検証のフォローアップがないまま言論を主活動とした理念派の言説が自然と抽象的なことに行き先鋭化して具体的現場を喪失していった のに対して、 現場援助活動派は個々の現場により特化してしまって、社会全体との拡がりを持ち得ない状態に陥ったのでした。 そして、80年代以降、社会学業界を襲った?解釈文芸の嵐「ポストコロニアル」「カルチュラルスタディース」があります。この流行で、統計学などを使って個々の社会的現象を地道に追尾していく実証社会学は古くさいものとして後退し、まだ先行研究が殆どなく手あかのついていない第三世界やサブカ

    文化左翼と現場――hizzz さんの整理 【はてブ】 - Freezing Point
    hizzz
    hizzz 2009/08/19
    戦後民主主義とは正に「日本」へのひきこもりだし。世間vs家族≒共同体な共同封建家族体に情緒的関係性の連帯を個人へ呼応強要モラルゆえ、まま突き詰めれば「親/反日本」袋小路に。関連>http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20080110
  • 2009-04-28

    画家・永瀬恭一氏とのメールでのやり取り(一部)を、許可を得て以下に転載いたします。 公開を前提としたものではなかったのですが、お互いの関係や発言趣旨の素材化を試みるもので、ブログへの転載は、積極的な趣旨をもった活動にあたります。(私は永瀬氏とは、ネット経由の交流のみで、お会いしたことはありません。) おだやかなやり取りに見えるかもしれませんが、美術をほとんど知らない私が、実作者の永瀬氏と言葉を交わすことには、強い緊張があります。 それは私にとって、臨床の中心課題である《入門》*1を考察しつつ、自分でそれを生きてみることにもあたる。 メールでは、いきなり永瀬さんの作品を論じるのではなく、その制作過程(を主題化するスタンス)を話題にしています*2。 対比して考えていたのは、斎藤環氏の美術論/臨床論です(参照)。 斎藤氏はひきこもる人を、掟の門前で委縮する人になぞらえました(参照)。 ここで彼は

    2009-04-28
    hizzz
    hizzz 2009/04/29
    主題顕在化する齟齬時こそ前向きに《状況を論じる》必要有り/当事者論は主体構成プロセスとしての危機を主題化してこなかった/境界上で自己場所を分節し続ける<それこそが芸術営為そのものhttp://d.hatena.ne.jp/hizzz/20081210
  • おりてこない正義 - Freezing Point

    「べてるに学ぶ――《おりていく》生き方」(2004年11月5日、東京大学医学部・鉄門講堂でのシンポ) 上野千鶴子の授業「ケアの社会学」(上記シンポの動画と、報告論集のPDFがある) 「おりていく生き方」では、自分という結果物が「おりて」いく。 しかし必要なのは、「おりる自分」という傲慢な自意識ではなく、プロセスが降りていること*1。 いわば最下層のディテールを、自分自身をふくめて分節してみせる、プロセスとしての地べた性が必要なのに、メタ正義を確保した人たちは、精神主義的な人生論を語る*2。 「おりていく」と発言している主体は、ずっとメタレベルにある。 メタ・ポジションから、操作対象としての自分をあれこれしている(ずっと自意識談義)。 上野千鶴子にとって、《当事者》カテゴリーはメタ正義を担保する*3。 「女」「障碍者」「ひきこもり」等のカテゴリーで正義を確保したあと、猥談や仲間内談義にうち興

    おりてこない正義 - Freezing Point
    hizzz
    hizzz 2009/04/11
    当事者運動を巡る、権威者と弱者の「正当性のアリバイ」メタ正義に居直る悪弊<結局、閉鎖的な「権威者公認」癒しの自助サークル=研究媒体化な相互承認既得権益で充足、に収斂しちゃうんだよなぁ
  • 関係作法を考え直さないナルシシズムの暴力 - Freezing Point

    「なにをやっても許される」からこそ、嫌がらせがなくならない。 何ヵ月も嫌がらせをしていた人物が、共同体で認められてしまう。 「何をやっても許される」とき、ゆるす側が脅されており、ゆるす側自身がナルシシズムで依存している。 「ナルシシズムを認め合う」という関係作法しかないのだ、今の支援業界には!*1 「ひきこもり経験者からの被害は、すべて我慢してあげる」…それが支援者たちのナルシシズムになっている。 支援される側どうしの関係も同じ。 支援とは、集団の関係作法を考え直す運動であることに誰も気づいていない。 ただ笑顔でナルシシズムを容認し合えばいいと思い込むのは、自分の首を絞めている。――DVと同じロジックが、支援業界に蔓延している。 支援者は、自分が社会に認められない埋め合わせを “支援” でしている*2。 承認されない者どうしの関係で、「笑顔の我慢」だけが許される。 なぜ、目の前の関係のため

    関係作法を考え直さないナルシシズムの暴力 - Freezing Point
    hizzz
    hizzz 2009/03/07
    互譲性関係のみで繋がる欠陥。当事者主義で、自己承認要求が最優先された結果だろう>自助グループ内での適切な指導者(第三者)なしでのピア・カン「癒し」を最上理想関係目的におくとか。。。
  • 弱者の自己監禁としてのナルシシズム - Freezing Point

    最寄りの屋で、私より若いと思われる野宿者がいた(すごい臭気)。 親にかくまわれなかった自分がいる、と体で感じた*1。 ストーカーは、何年もかけて築いてきた仕事人生を、一瞬で破壊する。 ナルシスティックな嫉妬心のために。 自分が被害者だと言い張って。 やわらかい部分を晒した私は、悪意の人が身近に現れただけでつぶれた。――誤った当事者論が、弱者をさらに骨抜きにする。 悩む人がナルシシズムに支配されていることが、問題をさらにこじらせる。 虚栄とナルシシズムは来、恵まれた環境でうっとりするもの。 その精神構造で、どん底にいる。 状況に取り組めず、いつまでたってもバカ正直。 自分のことしか考えず、自意識ゲームをやっていれば倫理的だと思い込む。 医師や知識人は、「ナルシストでいいじゃないか」という。 それは、ナルシストでもやれた人たちの言い分*2。 私のように、自意識が自分の存在を破壊してきた

    弱者の自己監禁としてのナルシシズム - Freezing Point
    hizzz
    hizzz 2009/02/24
    ”悩む本人がナルシシズムに支配されていることが、問題をさらにこじらせる。”<主体形成問題
  • ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point

    斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)刊行記念のトークショー、 斎藤環×岡崎乾二郎 「アートに“身体”は必要か」 を熟読した(掲載は『みすず(no.563)』2008年8月号)。 これを私は、美術批評であると同時に、ひきこもり臨床論として読んだ。 岡崎乾二郎の議論は、斎藤環の「発想のあり方」へのあからさまな批判なのだが、斎藤は最後までそれに気づいていないように見える。 私はこの対談を、ひきこもりや就労支援の関係者にこそ読んでほしい。 誰かの努力や存在が社会的に排除され、誰かがぬくぬくと「内側」にいることになっている*1。 そこに批評を口にするときの態度の違いは、そのまま支援案のちがいになる。 排除された努力や存在を受け止めるときに(あるいは無視するときに)、どんな発想が必要なのか。 作品であり、労働過程である私たちは、単に全面受容されるべきではない。 では、どんな厳しさが必要

    ひきこもり臨床論としての美術批評 - Freezing Point
    hizzz
    hizzz 2009/01/03
    美手帳連載時も評判悪くインタビューした作家当人たち次々に否定されていた、美術批評の傘の下での環の人格ステレオタイプを増幅させて作家におっかぶせた作品印象論
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