むかし無名で貧乏な作曲家の卵をやっていた頃、同じ境遇の若い作曲家仲間にこう問われたことがある。 「もし自分の書いた音楽が誰の耳にも届かないとしても、 それでも君は作曲をするか?」 二十代の始め、大学もやめて完全に無職無収入のまま、独学で作曲の勉強だけしていた「どん底」の頃だ。実際、その前後数年にわたって、まったく誰の耳にも届かない音楽を作曲し続けていた真っ只中であり、考える余地もなく「もちろん、作曲する」と答えた。 もっと怖い問いもあった。 「誰の耳にも届かなかった〈音〉は それでも存在したことになるのか?」 これは(特に音楽をやるものにとっては)かなり怖い想像だ。 音は発せられて空気を振動させる。でも、それが誰の耳にも届かなければ、それは〈音〉として観測されない。すなわち〈存在〉しないことと全く区別が出来ない。 作曲されても、演奏すらされない音楽は、そもそも空気を振動させることすらない。
加藤和彦さんと、ちゃんと応援すること 先日、加藤和彦さんが亡くなられ、遺書の一部を読み、 さらにさとなおさんのブログを読んで、今日は「応援する」ということが頭から離れません。 加藤さんの遺書のなかに、こんな言葉があったそうです。 一生懸命音楽をやってきたが、音楽そのものが世の中に必要なものなのか、 自分がやってきたことが本当に必要なのか疑問を感じた。 加藤さんのことは特別ファンというわけでもなく、 「フォークルの人だよね…」と知識として知っているレベルでしかないけれど、 二十歳過ぎのころ、この先どんな風に働きたいのか見えなくて 大学に泊まり込んで課題にとりくむ夜中、缶コーヒーを買いにキャンパス内を歩いているとき よく口ずさんでいたのが加藤さん作曲の「悲しくてやりきれない」でした。 私にはこの歌が支えだった時期が確かにある。 だから、今更だけど「あなたのやってきたことは必要だっ
昨日の当電子壁新聞記事に対し、個人メールへの反応がいくつかありました。で、どうも案外と世の中には報道関係というか、ものを伝えるという商売に従事なさっている方でも基本的原則をご存じない方もいるようで、非常にビックリしてます。 晴海を拠点に中央区や湾岸地区のアウトリーチを定款のひとつに活動するNPOトリトン・アーツ・ネットワークが、先頃やっと出版した『アウトリーチ・ハンドブック』でも、この問題は取り上げる予定があったそうです。http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/archive/20070131なんのかんので触れられなかったのは、この冊子にとって残念なことでした。「アウトリーチの広報をどうするか」は、NPOなど「スポンサーからお金を貰ってこないとやれない団体」とすれば、非常に重要なことですからね。改訂版をつくることがあれば、この辺りはきっちり詰めて欲しいなぁ。 なお
「あいのて」の今年度の最終回の収録でした。最終回ということで、今までにやった曲が別バージョンで出てきたり、エンディング曲の生演奏があったりします。 エイちゃん、ルリアちゃんの演奏や、カメラ、音声などスタッフの動きなどを見ても、この1年間で、すごく関わっている人たちが、音に敏感になり、音をテレビで伝えられるスペシャリストになってきたなぁ、と感じました。 エイちゃんが、途中で、「もっとやりたい」という台詞を間違えて、「またやりたい」と言っていました。そういう言い間違いをするということは、エイちゃんが、また「あいのて」やりたい、と思っていてくれるのだろうな、と思い、嬉しくなりました。 エイちゃんのお母さんは、毎回スタジオに来ていますし、お父さんも頻繁に来ていますが、ルリアちゃんのお母さんが初めて来ました。親子というより友達同士のような感じです。ルリアママは、即興で歌を作る達人で、ルリアママの作っ
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