一個前の「卒論心得」は前に7月ごろにブログに投稿してましたね。 夏休みの暑さであたまがぼんやりして、書いたことを忘れて、二重投稿しちゃいました。 だいたい、学生たちにこんなものを書いて配布したことそれ自体を忘れていたのでした。 なんでも忘れる男です。 でも、書いた本人が読み返しても「なるほどねえ」と思ったんだから、いいですよね。 だいたい、私が書いていることって、どれも10年前からほとんど同じことの繰り返しなんだし。 (2010-10-02 10:09) 前の記事 次の記事
一個前の「卒論心得」は前に7月ごろにブログに投稿してましたね。 夏休みの暑さであたまがぼんやりして、書いたことを忘れて、二重投稿しちゃいました。 だいたい、学生たちにこんなものを書いて配布したことそれ自体を忘れていたのでした。 なんでも忘れる男です。 でも、書いた本人が読み返しても「なるほどねえ」と思ったんだから、いいですよね。 だいたい、私が書いていることって、どれも10年前からほとんど同じことの繰り返しなんだし。 (2010-10-02 10:09) 前の記事 次の記事
大学院のゼミでは北方領土問題が論じられた。 ゼミでこの問題を論じるのは、20 年間大学にいてはじめてである。 沖縄基地問題についての論及回数とは比較にならない。 南島とくらべてそれだけ扱いにくい論件だということなのかもしれない。 学生たちがこの論件を忌避する理由の一つは、たぶんこの問題をリアルかつクールに分析することに対して、きわめてパセティックな「抑圧」がかかるせいである。 領土問題になると、国民国家の成員たちはどの国でもすぐに熱くなる。 「国境線については絶対譲歩するな」という言説が幅をきかすのはどの国でも同じである。 「国境線を譲歩しても、隣国との友好関係を構築するほうが国益にかなう」というタイプの議論をする人間は袋だたきに遭い、うっかりするとテロリストの標的になる。 国境線を少しでも拡げた政治家は「英雄」ともてはやされ、国境線を少しでも失った政治家は「売国奴」と罵られる。 それは古
朝刊を読んだら、菅直人新首相について「期待する」という社説が掲げてあった。 その理由として市民運動出身であり、ポリティカル・ファミリーの出身でなく、自民党員だったことがないことが挙げてあった。 そして、新首相に課せられた最優先の政治課題は「小沢一郎の影響力を払拭すること」だと書かれていた。 私はこの説明を読んで、考え込んでしまった。 こういうことを「統治者としてのアドバンテージ」としてよろしいのであろうか。 「市民運動をしたことがなくて、ポリティカル・ファミリーの出身で、自民党員だったことがある」前首相との対比で、そのアドバンテージを強調したかった論説委員の気持ちは理解できるが、私はこの記事を読んで深い徒労感を覚えた。 もう何度も書いていることだが、私たちの国が陥っている窮状は構造的なものであり、つよい惰性をもっている。 日本の不調を統治者個人の属人的な能力で説明することには限界があるし、
ある月刊誌から上野千鶴子と対談して、「おひとりさま」問題について議論してくださいというご依頼があった。 上野さんと対談してくれという依頼はこれまでも何度もあった。 どれもお断りした。 繰り返し書いているように、私は論争というものを好まないからである。 論争というのはそこに加わる人に論敵を「最低の鞍部」で超えることを戦術上要求する。 それは「脊髄反射的」な攻撃性を備えた人間にとってはそれほどむずかしいことではない。 あらゆる論件についてほれぼれするほどスマートに論敵を「超えて」しまう種類の知的能力というものを備えている人は現にいる(村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』でそのような人物の容貌を活写したことがある)。 それは速く走れるとか高く飛び上がれるとかいうのと同じように、例外的な才能である。 でも、そのような才能を評価する習慣を私はずいぶん前に捨てた。 そのような能力はその素質に恵まれた人自
鳩山首相が辞任した。 テレビニュースで辞意表明会見があったらしいが、他出していて見逃したので、正午少し前に朝日新聞からの電話取材でニュースを知らされた。 コメントを求められたので、次のようなことを答えた。 民主党政権は8ヶ月のあいだに、自民党政権下では前景化しなかった日本の「エスタブリッシュメント」を露呈させた。 結果的にはそれに潰されたわけだが、そのような強固な「変化を嫌う抵抗勢力」が存在していることを明らかにしたことが鳩山政権の最大の功績だろう。 エスタブリッシュメントとは「米軍・霞ヶ関・マスメディア」である。 米軍は東アジアの現状維持を望み、霞ヶ関は国内諸制度の現状維持を望み、マスメディアは世論の形成プロセスの現状維持を望んでいる。 誰も変化を求めていない。 鳩山=小沢ラインというのは、政治スタイルはまったく違うが、短期的な政治目標として「東アジアにおけるアメリカのプレザンスの減殺と
新聞の電話取材で、またまた米軍基地のことを訊かれる。 グアムへの米軍基地の移転コストを日本政府が肩代わりしたり、「共同開発」名目で米軍の支出を予算的に「思いやったり」することについてどう思うかというお訊ねである。 しかたないんじゃないの、とお答えする。 「厭です」といって払わずに済むものなら、とっくにそうしているはずである。 「厭です」と言えない事情があるから、泣く泣く「みかじめ料」を出しているのである。 もちろん近代国家同士のあいだの話であるから、別に米軍が日本にドスをつきつけて「払わんと痛い目にあわせるど、こら」と凄んでいるわけではない。 「払わないと、そちらさまがとっても『たいへんな目』に遭われるのではないでしょうか。いや、われわれはまあよそさまのことですから、どうだっていいと言えばどうだっていいんですけど、まあそちらさまとも先代からの長いお付き合いですから、老婆心ながら・・・」と言
ロシア海軍が6月に日本海で大規模演習の予定、三艦隊旗艦の大型ロケット巡洋艦が全て参加する異例の事態| Main | 金子秀敏氏が「それ(核兵器)が沖縄に隠されてる。鳩山首相が抑止力とした正体はそれだ」とトンデモ陰謀論>> 内田樹氏という方は良く知らないのですが、この方は田中宇氏のような陰謀論者の類ですか? この記事を一読する限りは、そのように見受けられます。何の根拠も無く、何の知識も無く、一方的な妄想ストーリーを展開されています。 「それ」の抑止力 (内田樹の研究室) 2010年05月28日韓国内の基地には「置けないもの」が沖縄には「置ける」ということである。 「それ」が抑止力の本体であり、「それ」が沖縄にあるということを日本政府もアメリカ政府も公式には認めることができないものが沖縄にはあるということである。 それ=核兵器、と言いたいわけですか。メースBの時代から知識が止まってる感じですね
神戸女学院大学文学部総合文化学科教授の内田樹氏が、就活で自分のゼミに出てこない学生に呪いをかけているようですな。 http://blog.tatsuru.com/2010/04/14_1233.php(就活に喝) >ゼミに行くと欠席が9名。 ほとんどの四年生は最終学年はゼミしか授業がないはずであるので、ゼミに来ないということは、フルタイムで就活に走り回っている、ということである。 気の毒である。 だが、浮き足立ってことをなして成功するということはあまりない。 >それに、私に「ろくな結果にならない」というようなことを言わせてはいけない。 私の言葉はたいへん遂行性が強いからである。 私が「そんなことをすると、ろくな結果にならない」とうっかり口走ってしまうと、それはきわめて高い確率で現実化するのである。 だから、君たちがわが身の安全をほんとうに案ずるなら、私を怒らせてはいけない。 >追伸:と書い
Amazon に出ていたので、思い立って山崎貞『新々英文解釈研究』(研究社)と佐々木高政『和文英訳の修業』(文建書房)の復刻版を購入。 高校一年生のとき、1967年の四月に買ったのだが、引越を繰り返しているうちになくしてしまった。 『新々』の最初の文例を私は長いこと He is an oyster of a man. だと思い込んでいたが、これは三つめの文例で、最初は A man of learning is not always a man of wisdom.でした。 それにしても an oyster of a man というのはインパクトのある文である。 意味は「彼は牡蠣のように寡黙な人だ」。 この文例については二つ思い出がある。 一つは大学生の頃、自由が丘のシグナルヒルのカウンターでお酒をのみながら知り合いとおしゃべりをしているときに、『新々英文解釈』の話になったことがあった。 そ
大学に行って、入試部長室のデスクの前で仕事をしていると、1時間に1本ペースで電話がかかってくる。 ほとんどが講演依頼である。 もちろんすべてお断りする。 それにしても、と思う。 世の中には「講演」を企画したり、聴いたりするのが好きという人がほんとうに多いのであるな。 今日の電話は某自治体の教職員組合からであった。 教育についてのシンポジウムにご出席願いたいと言うので、申し訳ないけれど、今年は学外の講演などはお引き受けしていないのですとお断りする。 そうですか、とわりとあっさり引き下がったので、ほっとしていたら、先生が新聞にお書きになったものを読んでたいそう共感したのですが、もしかして先生、著作とかございましたら教えて頂けますかと訊かれた。 はい、教育論書いてますと、『街場の教育論』をご案内する。 こんな感じの講演依頼はけっこう多い。 新聞や雑誌の数行のコメントを読んだだけですぐに電話をかけ
ひさしぶりに時間が空いたのだけれど、あまりにバックオーダーが多いので、どこから手を着けてよいか、わからない。 原則としては (1)締め切りが切迫しているものから書く (2)書き上げるのに要する時間の少ないものから書く (3)おもしろそうなテーマのものから書く ということになる。 締め切りが切迫しているものは「自殺論」。これはもう書いちゃったからあとは英訳するだけ(それに時間かかるんだけど)。 書き上げてしまうと「これで完成!」というのは、石川さんとの共著の『若者よ、マルクスを読もう!』の上巻。 これはぼくと石川さんが往復書簡で、マルクス=エンゲルスの代表的著作を「高校生が読みたくなるようにご紹介する」というハート・ウォーミングな企画である。 「高校生が思わず読みたくなる」ようにマルクスを紹介する仕事って、楽しそうでしょ。 『共産党宣言』から始まって、『ユダヤ人問題によせて』、『ヘーゲル法哲
甲野善紀先生を本学の特別客員教授にお招きして3年。この年度末で任期満了となる。 2月1日から3日までの集中講義が甲野先生の本学における最後の授業である。 ご挨拶に伺い、お稽古に加えて頂く。 ずいぶん多くの学生たち(および「にぎやかし」の合気道部員、杖道会員、OG、甲南合気会員)がミリアム館にひしめいて、さまざまな身体技法をあちこちで試みている。 甲野先生の講習会はだいたいこういうかたちで、「全級一斉」という指導法はなされない。 ひとりひとりが自分のペースで、自分の選んだ課題を試みる。だいたい数人のグループになって教え合ったり、批評し合ったりする。そのグループも固定していない。甲野先生が何か違うことを始めると、自然に解体して、また違う人たちとのグループが出来る。 自分の身体の内側で起きていることを「モニター」するというのが、稽古の基本であるから、外的な規制はできるだけ行わず、ひたすら自分の内
『日本辺境論』の販促活動が始まっている。 昨日、梅田の紀伊國屋書店を覗いたら、入り口のところに特設のトレーが作ってあって、『街場の教育論』や『下流志向』や『私家版・ユダヤ文化論』も並べてあった。 文楽劇場での幕間でも、POP をたくさん書かされた。 「読んでね」とか「面白いよ」とかいう、まったく知性の片鱗も感じられない惹句であるが、読んでもらわないと話にならないのであるから、とりあえずは読者のみなさまのご厚意に取りすがるのである。 今のところ寄せられた感想にはどれも好意的で、まずは一安心。 もちろん、これからさき関係各方面から怒濤のような批判が寄せられることは避けがたいのであるが、批判に反批判を加えて、泥沼の論戦に・・・ということは私の場合にはありえない。 それは「論争」というものが生産的になることはない、というのが「文科系」の学問の宿命だからであるからである。 どこまでもやってゆくと、最
3回生のゼミ発表は「ヒップホップ」。 実は「ヒップホップ」という音楽概念が私にはよくわからない。 そんなことを言えば「ロック」も「ポップス」一義的な概念規定があるわけではない。 たぶんそういうのは「空気」で何となく決まるのだろう。 アメリカの音楽マーケットにおける「ヒップホップ」は、それと排他的に競合する他の音楽ジャンルとの差別化の中で位置づけられているはずである。 もしかするとヒップホップの本質的な競合相手は隣接ジャンルではなく、「クリスチャン・ロック」とかカントリーとか日本ではほとんど聴かれないジャンルの音楽じゃないかという気がする。 労働、家族、信仰、祖国愛、自然・・・そういうものの価値をまっこうから否定する音楽があれば、アメリカにおける「対抗文化」として広範な支持者を得ることができる。 ヒップホップというのは「そういうもの」ではないかと思う。 興味深いのは「対抗文化」は世界的に知ら
木曜日、生きて夏休みを迎えることができた。 夏休みといっても、毎日仕事で大学には出勤するのである。 火曜日は5限まで授業があり、授業後、東京から来てくれた矢内さんを飛行機の時間ぎりぎりまで並木屋にてご接待。 鱧を食す。美味。 水曜日はオフ。でも、取材のため出勤。朝日ファミリーという媒体で「学力のつけ方」について。 学力とは何かという根本のところで、私は文科省ともメディアに出てくる教育評論家の多くとも考え方を異にする。 学力とは読んで字の如く「学ぶ力」である。 「学びに開かれてあること」のことであり、「学んで得た知識や技能や資格などなど」のことではない。それらはたかだか学力の副産物にすぎない。 「学ぶ力」というのは次のようなことを言う。 (1)自分には知識や技術や見識や情報や、なんであれ、「大人」として遇されるためのものが欠如しているという感覚を有すること (2)自分にそれを与えてくれる「メ
河合塾での講演のあと、廊下でナショナリズムについてひとりの予備校生から質問された。 たぶん、彼の周囲でもナショナリスティックな言動をする若い人たちが増えてきており、それに対してどういうスタンスを取るべきか決めかねているのだろう。 若者がナショナリズムに惹きつけられる理由はわかりやすい。 それは帰属する集団がないからである。 人間は帰属する集団があり、そこで他者と共生し、協働し、必要とされ、ゆたかな敬意と愛情を享受していれば、パトリオットにはなっても、ナショナリストにはならない。 パトリオットは自分がその集団に帰属していることを喜び、その集団を律している規範、その集団を形成した人々を愛し、敬しており、その一員であることを誇り、感謝している。 ナショナリストはそうではない。 彼はどのような集団にもそのような仕方では帰属していない。 彼は自分がさしあたり所属している集団について(それが家族であっ
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