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ブックマーク / tkshhysh.hatenablog.com (3)

  • 経済理論覚書 GDPは厚生指標としては何を測っていることになるのか?

    マクロ経済に関わっている人達は、GDP(国内総生産)の上昇(と下降)および上昇率に一喜一憂するわけだが、GDPは記述論的にはともかく規範的には重要な指標なのだろうか? 外部性(=市場でカウントされないサービスや効果。例えば家事労働などのシャドウワークや環境効果)がカウントされていないからダメだ、と言いたいのではない。もちろんそれはそれで問題なのだが、ここで問題にしたいのはもっと内在的なことである。 GDPはフローの指標である。フローとは、ある期間の間になされた活動を計測したものである。簡単のために国内の民間部門だけを考えると、支出面で勘定した「ある期の」GDPは「その期の」消費プラス「その期の」投資だ。これはあくまでも「その期の」ものだ。しかも、消費だけを考えるならば、その期にみんながエンジョイしたものの評価としてそれはそれで理解できるが、投資を勘定に入れるとはどういうことだろうか?我々が

    経済理論覚書 GDPは厚生指標としては何を測っていることになるのか?
  • 取引機会の拡大は人々を得させるか? - Metaeconomics

    「得させるに決まってるじゃないか。それが経済学の教えじゃあないのか?」と思われるかもしれない。 確かに、市場はそこに参加する人が全員、参加しない場合と比べて得するような配分をなす。そうでなければ、交換で損するような個人は最初から市場に参加しないからだ。この条件を参加条件あるいは個人合理性という。しかし、「すでに一定数の種類の財が取引していたものが、そこから取引の対象がより広がったら、人々は得するか?」というのはまた別問題である。例えば新たに金融商品が登場するとか、とある農産物の市場が開放されるような状況を考えるとよい。 「あらゆるものとあらゆるものとが交換できる」ことを市場の完備性という。一方、必ずしもあらゆるものとあらゆるものとが交換できない市場を不完備市場という。例えば、金融市場ではさまざまな不確実性をヘッジすべく金融商品が取引されているが、当然、それで世の中のすべての不確実性がカバー

    取引機会の拡大は人々を得させるか? - Metaeconomics
  • はじめに ――― 経済学における術語と日常用語との中途半端な被り方について - Metaeconomics

    今日からブログを始めることにした。経済理論に関する雑文を載せる予定である。 さて、少なくとも日語の言論においては、論敵を「効率至上主義」者あるいは「競争原理主義」者・「市場原理主義」者呼ばわりすることは、オーディエンスを味方に引き入れるのに極めて有効な手段の一つである。 何であれ相手の立場を「○○至上主義」「○○原理主義」へと仕立て上げて批判の的にすることはよくあることではあるが、「競争」「市場」「効率」については殊にその当てはまりが良いようである。おそらく、人々がそれらの言葉自体に画一化された社会と人間の姿 ――― とある優先順位を与えられた価値に資するもの以外は「無駄」と切り捨てる社会と、物事の多様性に無理解な人間の姿 ――― を想起するからだろう。 「競争」「市場」「効率」を鍵概念として用いる経済学を専攻する一人として、私はこの事態に苛立ちを覚える。たとえ肯定的に用いられる場合にお

    はじめに ――― 経済学における術語と日常用語との中途半端な被り方について - Metaeconomics
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