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2016年6月7日のブックマーク (2件)

  • 《馬見原橋》から考える

    青木淳氏(左)、浅子佳英氏(右) 青木淳──じつは浅子佳英さんとは、ほとんど面識がないのです。では、どうして今回、お相手をお願いしたかというと、3年ほど前、《大宮前体育館》(2014)ができたとき、浅子さんが感想をツイートしていたその内容がおもしろかったからです。当時からこの建物は賛否両論があったのですが、浅子さんは、ある面では褒めていて、しかし納得できない、と1人で賛否両論していました。それが印象的だったので、この人と話をすれば、ぼくがわからないことを教えてもらえるかもしれないと思いました。 浅子佳英──当にお会いしたことすらなかったので、お話がきたときは大変驚きました。改めてよろしくお願いいたします。初対面ということもあり、じつは昨日まで、この対談に備えて入念なプランを準備していたんですね。「こういう質問をしたら青木さんはこう返してくるだろうから、それに対してぼくはこう返して....

    《馬見原橋》から考える
    ida-10
    ida-10 2016/06/07
    青木淳+浅子佳英
  • REALTOKYO | Column | 浅田彰のドタバタ日記 | 第4回 2008年8月21日

    京都在住の批評家が日々の見聞や邂逅についてアト・ランダムに書き綴るメモランダム。ドタバタ紀行の跡を辿ると時代の動きが見えてくる……。(随時掲載) 前回、直島・犬島を二度も訪れたドタバタ紀行の話をしたのだが、実は二度目の旅はまず香川県の牟礼にあるイサム・ノグチ庭園美術館から始まった。実のところ、これは浅田家のルーツを訪ねる旅だったと言ってよい。浅田家は牟礼の庄屋で、医者めいたこともしていたという。で、祖父の浅田孝太郎が東京大学に進んで医学を学び、時代は下るが『ぼっちゃん』(夏目漱石)を思わせる形で香川ならぬ愛媛の松山の日赤十字病院に赴任した、というわけだ。そこで三人の子どもが産まれ、末っ子の浅田享、つまり私の父は、祖父をついで医師になった。しかし、長男の浅田孝は東京大学に進んで新進の助教授だった丹下健三に建築を学び、戦争中、海軍将校として飛行場施設の建設やダムの修理–そして被爆した広島の救

    ida-10
    ida-10 2016/06/07
    イサム・ノグチ庭園美術館、浅田家のルーツ、浅田孝と松山