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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/mixmax (20)

  • 『グラックの卵』に見るユーモアとは - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    ラファティを読んだ勢いで手をつけたのが、買って積みっ放しだった『グラックの卵』。 矢野徹先生亡き今、翻訳SF界最大の巨星と呼んでも過言ではない浅倉久志氏が 自ら偏愛するユーモアSFを選りすぐったアンソロジーである。 刊行後1年経過したの後に、6ヶ月前に出たの話をするのもどうかとは思うが タイムリーさと無縁なのは毎度のことなので、特に気にせず紹介してみたい。 ・ボンド「見よ、かの巨鳥を!」 ―宇宙の果てから太陽系へ飛来する謎の物体。それはまぎれもなく巨大な鳥だった! 惹句とあらすじを聞くと完全なナンセンス小説だけれど、実際に読んでみると バカバカしい中にも緊迫感があり、普通にハラハラした話。 結局のところ、この作品の発想自体が「特撮怪獣映画」と同じなのだと思う。 ナンセンスな部分に目をつぶれば、破滅SFの佳作として十分楽しめる。 物理法則はさておき、でかい鳥が宇宙から飛んでくるという異常

    『グラックの卵』に見るユーモアとは - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • 奇絶、猥褻、『ゴーレム100』! - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    ベスターの『ゴーレム100』を読了。うん、これは最高にイカしただ。 このいい感じのぐちゃぐちゃさ加減をどう説明したものか悩ましいが もしキャッチコピーをつけるなら、懐かしの横田順彌調を少しもじって 「奇絶、怪絶、また猥褻!」とでもしたいところ。 狂った描写と異様な言語感覚の中にも乾いたユーモアと冷徹な論理が 感じられる、破格の傑作と言ってよいだろう。 変幻自在の怪物ゴーレムに託したエロ・グロ・スカトロ趣味が作中を 縦横無人に跋扈しまくるものの、作者の視線にはどこか醒めたものが 感じられ、それが陰惨な描写をユーモラスな物に変換している。 メチャクチャ、ナンセンス、やりたい放題と思わせる内容をこれでもかと 詰め込みながら、一方でそれらにごくまともな科学的説明をつけてみたり 狂った乱交シーンの後に感動的な女性論をぶちあげてみたりと、はたして どこまで計算ずくなのか読めない胡散臭さが、また面白い

    奇絶、猥褻、『ゴーレム100』! - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • 『虐殺器官』の存在意義 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    『虐殺器官』。このタイトルのインパクトと、帯に書かれた大森望氏による派手な紹介文 「イーガンの近未来で『地獄の黙示録』と『モンティ・パイソン』が出会う」という部分が やたらと気になったので、読んでみた。 読後の感想を言えば、大森氏のあの惹き文句は嘘ではないが、適切とも言いかねる。 イーガンを引き合いに出すほどのぶっ飛んだ科学や難解な話はなく、エスピオナージュ的作風は むしろアレステア・レナルズやチャールズ・ストロスのものに近いだろう。 『地獄の黙示録』も『モンティ・パイソン』も引用されてはいるが、前者は類型としての引用であり 後者は作中の遊びとしての要素が目立ちすぎ、皮肉として成立していないうらみがある。 といっても、別にこの小説がつまらなかったというわけではない。 事前に予想していたほど抽象的な話ではなく、より生々しいテーマを直截的に描いた作品だった、 というだけのことである。 作を例

    『虐殺器官』の存在意義 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • グローブとボールをめぐる旅 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    かつて福武書店から刊行されていた『エンジン・サマー』が、扶桑社より 文庫となって復刊された。 いまやファンタジーの巨匠となったジョン・クロウリーの名を知らしめた 異世界ファンタジー風SFであり、青春ロードノベルの傑作だ。 訳者あとがきによると、作者にとってはこれが最後のSF作品となった そうだが、それがもったいないくらいの完成度を誇るメタSFでもある。 時は遥か未来、人類世界を壊滅させた「嵐」の後に生き残った人々が暮らす 「リトルベレア」という村で生まれた少年が、自らの生い立ちを語り始める。 かつては人は「天使」だったという。彼らは世界の全てを欲しがり、そして 全てを手に入れ、やがて全てを滅ぼした。 生き残った者は天使の遺物を隠し、あるいはそれらを破壊して故郷から去り、 やがて今のような人間となって「リトルベレア」を築いたと、少年は語る。 アメリカインディアンを思わせる村での暮らしぶり、ミ

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  • 『デス博士の島その他の物語』をめぐる物語、またはDeathnaut - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    『デス博士の島その他の物語』をはじめて読んだのはいつだったか、 今では覚えていない。 その後『20世紀SF』に収録されたのを読んだが、感想としては 地味なファンタジーだな、というくらいでしかなかった。 一見して非常にわかり易く書かれているので、こちらとしては書いてあるとおり 「小説の人物が現実に現れ、ちょっとした大人の秘密を垣間見せる話」だと 受け取っていた。これだけでは、べつに驚くような話ではない。 小説がうまいとか、叙情的だとかいう部分は今ひとつ感じず、 けっこうそっけなくてあっさりした話にしか見えなかったのだ。 今回『ケルベロス』を読み、『アメリカの七夜』を読み、『ショウガパン』を読んで 中短編でのウルフの曲者ぶりを思い知らされた。 さらに若島氏の「デス博士ノート」の中で少し気になるところがあったので、 今回はこれを手がかりに、「デス博士の島」を再び廻って見ようと思う。 (以下、若島

    『デス博士の島その他の物語』をめぐる物語、またはDeathnaut - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • ウルフ群島沖を漂流中~セトラーズ島再訪編 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    さて、『デス博士の島その他の物語』。もちろん書の表題作である。 波と風に洗われる半島を舞台に描かれる、少年期の終わりの物語。 静かな日々の下で蠢く獣性、物語と現実が侵しあう世界の姿。 若島正氏のノートを参考にこの作品を読んだときの驚きと興奮、 見えている世界がガラリとその光景を変えていくときの感動は、 今でも鮮烈に覚えている。 その時の経験については、以前にこのBlogで書いたとおりだ。 小説を通じて感覚や意識の変容、さらには身体的な変化までを ここまで見事に、しかもこの紙数で書ききっているというのは、 やはり恐るべきことだと思う。 作中でタッキーのママはクスリでトリップしているが、この作品は 読書というものがクスリと同等か、それを超えるトリップなのだと 誇らしげに宣言しているようだ。 そして読書という行為はまさに、その世界への「トリップ(旅)」なわけである。 (ウルフ作品の多くに「旅

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  • ウルフ群島沖を漂流中~アイランド博士編 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    「あなたはまだどこかで怒ってるのね、心のずっと奥底で」 『アイランド博士の死』とは『デス博士』を構成する要素にさまざまな操作を加えて 生み出された「姉妹作」であり、『デス博士』と直接の関連は無いものの、テーマ上は 明らかに「続編」にあたる作品である。あらすじについて、以下にまとめてみた。 外科手術で脳を分断されたニコラス少年が送り込まれたのは、景色が囁きかけてくる 不思議な島だった。潮騒も樹の葉擦れも動物の鳴き声も、全て島の語りかける声となって 彼に届くのだ。 自らを「アイランド博士」と名乗るその島で、ニコラスは他の「患者」であるイグナシオや ダイアンと出会い、彼らの導きで島の当の姿を目の当たりにしてゆく。 しかしそんなニコラスを待ち受けていたのは、彼らもアイランド博士も決して語らなかった 絶望的なまでに残酷な「真実」であった・・・。 この物語の読後感を率直に言うと、とにかくやるせなくて

    ウルフ群島沖を漂流中~アイランド博士編 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • ウルフ群島を漂流中~死の島の博士編 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    『死の島の博士』を読了。姉妹、じゃなくて島医3部作中では 一番ストーリーラインがわかりやすく、深く突っ込まなくても 面白く読める作品だと思う。 ビジネスパートナーを殺害した罪で服役中の男がガンを患い、 その治療法が確立されるまで冷凍保存されることになった。 彼が目覚めたのは40年後。医療の発展でガンは治ったが 不死療法の確立した世界は、どこか奇妙な変貌を遂げていた。 やがて彼は懐かしい、そして懐かしい人々と再会する。 しかしそれらもまた、奇妙な姿へと変貌していたのだった…。 『アイランド博士の死』を怒れる=イカれる青春小説とすれば、 こちらはビジネスあり不倫ありの、ほろ苦い大人向けロマンスか。 あるいはネガティブ版『夏への扉』といった趣きもある。 『アイランド博士』とは対照的に、こっちはある程度の歳を 重ねている人のほうが、すんなり共感できる点が多いかも。 を人に見立てたり、不死と芸術

    ウルフ群島を漂流中~死の島の博士編 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • アメリカの七夜を再訪する - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    へぇ~、これがSFマガジンに載ってから、もう1年以上経つのか。 なんだかずいぶんと長いこと取り憑かれているものだと思う。 忘れたころにこの作品のことを思い出し、そのたびに読み返すということを 今までずるずると続けてきたものだ。 まるでアーディスに取り憑かれたナダンのようなありさまである。 このたび単行となったことで、SFマガジンの2段組で細かい活字から ずいぶんと読みやすくなった事は、非常にうれしい変化だった。 どうせウルフを読むなら、できるだけ快適に読める形が望ましい。 そのほうが読者もリラックスして読むことができるし、新しい発見に 思い至るだけの余裕も生まれるかもしれないからである。 さて前述の効果かどうかはともかく、今回読み直した際にもいろいろと おもしろいことに気が付いた。 一番の注目は「ナダンがなぜアメリカに来たのか」という動機について。 ナダンがアメリカに来たのに「目的」があ

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  • 眼閃の奇跡 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    3回続けて読み直して、ようやくその凄さの一端が垣間見えた作品。 ウルフにはめずらしく、読者に見えるところでいろいろと説明をつけているし ラストも一応きちんとしているので、さらっと読んでもきっちり泣ける。 その一方、再読を重ねることによって物語の見え方がどんどん変わってくる またもや底の見えない作品でもあるのだ。 こういう凝りに凝った作品が書けたのは、むしろ兼業作家だった強みかも。 小説で家族を養うには、ウルフの作風はちょっとマニアックすぎる。 やっぱり「ゲイマンほどのお金持ち」になるのは、なかなか難しそうだ。 例によってあらすじの紹介。 盲目の少年ティブと狂った教育長パーカー、そして教育長の召し使い役で 学校の用務員だったというニッティ。 社会からはみ出したこの3人が、コンピュータとロボットに管理された ディストピア感に満ちたアメリカを旅していくというのが、この話の おおまかな筋である

    眼閃の奇跡 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • 『迷える巡礼』に迷ってみる - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    SFマガジン4月号掲載、ウルフの短編『迷える巡礼』を読了。 またも手記パターンで書かれた一人称の物語。書き手の存在を強く意識させると同時に 翻って読者自身をも強く意識させるスタイルである。(要するに、いつものウルフだ。) ある航海に参加する使命を帯びて過去へやってきた男。しかし彼が加わってしまったのは、 全く違う船の、全く違った航海だった・・・。 著名なギリシャ神話を元にしたストレートな冒険活劇にして悲劇なのだが、見方を変えれば そもそも出るべき物語をまちがえた登場人物が、いつのまにか物語の中に溶け込んでいき、 英雄たちの一員になりきってしまうという『アメリカの七夜』的な「変容譚」の味わいも感じられ、 読みやすい中にもウルフ流に捻った感じが楽しめる、なかなかの佳品になっている。 それにしても、『デス博士の島その他の物語』の背後にも感じられた「アルゴナウティカ」 という物語、ウルフの中ではか

    『迷える巡礼』に迷ってみる - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • 葉と花の帝国 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    「地図」に続き、「《新しい太陽の書》読」掲載の「葉と花の帝国」を読む。 セヴェリアンがウルタン師から預かり、旅の間も持っていた「茶色の」に 収録されていた物語のひとつとされるのが、この「葉と花の帝国」である。 これも『新しい太陽の書』の別バージョンなのだが、とりわけユニークなのは この物語がかつての「新しい太陽」について書いている、という点だ。 植物の名を持つ賢者(セージ)のうちでも最高とされるタイムという人物が、 西への旅の途中でエンドウマメ(ピース)で遊ぶ少女と出会う。 彼女は賢者タイムが連れ去り、そして再び連れ帰ることを約束されている者だった。 二人はともに旅を続け、少女は西へ進むにつれて美しい娘へと成長していく。 やがて「東の国」の王都に着いた娘は、その国の王子と一夜限りの恋に落ちる。 東の国と西の国との戦争で父を奪われたという娘は、王と王子に平和を請い願うが それは聞き入れら

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  • 素晴らしき真鍮自動チェス機械 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    国書刊行会の『モーフィー時計の午前零時』所収、ジーン・ウルフ1977年の作品。 編者は若島正、訳者は柳下毅一郎というウルフ好きには鉄板の組み合わせである。 物語の舞台となるのは、かつての大戦争によって文明が退行した世界。 ドイツの片田舎と思われる辺鄙な村に、フリークの小男と香具師の乗る馬車がやってきた。 彼らは古代の遺産であり、いまや世界で唯一の稼動するコンピュータとなった全自動式のチェス機械を 持参しており、この機械は誰と指しても決して負けないという。 これに挑んで完敗を喫した大学教授のバウマイスターは、法外な値でコンピュータを買い取るが、 その中身は手のこんだイカサマ仕掛けだった。 落胆する教授に対し、機械を操っていた小男の「足萎えハンス」は、逆に香具師を騙そうと持ちかける。 酒場女のグレートヒェンを巻き込んだ計画はうまくいきそうに思われたが・・・。 文明の遺物とそれを操る流れ者、さら

    素晴らしき真鍮自動チェス機械 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
  • ジーン・ウルフの「風来」(SFマガジン2010年1月号) - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    SFマガジン2010年1月号で、ウルフの「風来」を読む。 個人的には「デス博士の島その他の物語」「眼閃の奇跡」に連なるテーマを持つ作品であり、 そして両作品に勝るとも劣らない傑作であると感じた。 閉鎖的な社会の中で孤立していく少年と、いわゆるマレビトである「風来」の子との交流、 さらに唯一の肉親である祖母との絆を描いた小説で、これらの外面的な部分を読むだけでも 十分に感動できる作品だ。 しかし、なんといってもジーン・ウルフの作品。当然だが、これだけでおわりではない。 解説で柳下毅一郎氏が「ややもすると難解と言われることが多いウルフだが、瑞々しい 少年小説の書き手であることを忘れてはなるまい。」と書いているが、「だから作は シンプルな少年小説で、他の読み方はありません。」などとは一言も書いていない。 難解とは言わないにしても、携帯小説的な口当たりのいい読み方で終わらせてしまうのは あまりに

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  • 『海を失った男』、あるいはスタージョンの墓標 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    シオドア・スタージョン再評価の発端となった作品集『海を失った男』を、 今回改めて取り上げてみた。 「SF作家としてのスタージョンの栄光と悲惨を、そこに見る。」 これは書『海を失った男』に収録された「三の法則」について、編者でもある 若島正氏があとがきで書いた文章の一節である。 ここから「SF」という一語を除けば、それがそのまま書全体を評する言葉に 当てはまるのではないだろうか。 内容の出来不出来やジャンル性よりも「スタージョンらしさ」を前面に出したことが この作品集における最大の特徴であり、収録作のムラや甘さといった要素も含めて 「シオドア・スタージョン」という作家の輪郭をくっきりと描き出している点については 全く異論の無いところである。 一方、それらが「ジャンル小説」あるいは単に「小説」としてのバランスやまとまりを 欠いていても、そこに「スタージョンらしさ」さえ見出せれば、それだけで

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  • 恐るべき『一角獣・多角獣』 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    復刊された『一角獣・多角獣』を購入、全篇読了。 『海を失った男』を未読なのは、この復刊を待っていたから。 ・・・と言いたいところなのだが、実は単に買いそびれていただけだったりする。 とにかくやっと墓場から還ってきたこの、待ち望んでいた機会なので 全作の感想を書いてみようと思う。 ------------------------------------------------------- 「一角獣の泉」 「奪う愛」と「受け取る愛」をめぐる物語。 その美しさに感激。こんなに美しい物語が今まで読めなかったのは、 ファンタジー界の大きな損失ではないだろうか。 さしずめ『人間以上』の第1章からSF的な部分を引いて、寓話風に 仕上げた感じなのだが、あの第1章が持つ魔法のごとき「美しさ」に 魂を奪われた読者なら、こちらも気に入ってもらえるはず。 発表年が同じなためか、両者の間に共通するモチーフをいろ

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  • 『人間以上』に見る人間性 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    『人間以上』をやっと完読。 第1章「とほうもない白痴」は第2章「赤ん坊は三つ」の前日譚。 第3章「道徳」は、前の2章を受けた完結篇になっている。 自分は2章から1章、3章と読んだのだが、この読み方でも全然普通に読めた。 むしろ1章が2章の謎解きになって楽しめたようなところもある。 巧みな犯罪小説であった「赤ん坊は三つ」に対して、「とほうもない白痴」は みずみずしい青春小説といった感じ。 じわりじわりと「理解」が進んでいくプロセスや、子供の眼から見た大人の生態などは 年をくってからの読者にとっても、忘れていた「成長」の感覚、かつて味わったはずの 驚きやとまどいを鮮やかに思い出させてくれる。 そして、その文章のなんと官能的なこと! ことばひとつ、場面ひとつを取ってみても、切れば血が出るような生気に満ち溢れている。 そこで描かれる苦痛・死・喜び・愛といった感情は、およそ書かれたものの中では もっ

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  • 宝石の夢、畸人の夢 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    久しぶりにスタージョンの『夢みる宝石』を読む。 ずいぶん昔に読んだときは、虐待のシーンが辛くて 途中で投げてしまったようだ。 あのころより随分たった今は、さすがにそこまでナイーブでも 気弱でもなくなったらしく、最後まで読了できた。 虐待により指を失ったホーティ少年と、彼を拾った巡回カーニバル。 専制君主然とした団長の影に脅かされながらも、彼はそこで異形の人々に 守られつつ、一人の人間としての自我と教養を身につけていく。 そして、彼の生い立ちと団長の秘密、そして異形の人々たちの誕生には 「水晶」の姿を持つ不思議な生物が係わっていた…。 やがてカーニバルを出て成長することを選んだ少年は、自己の持つ 不思議な力に目覚めることとなる。 そしてホーティは自分自身を守り、彼を育てた人々を救うため、 ついにカーニバルへと戻ってくる。 その神秘的な力によって、彼を傷つけ利用しようとする者たちと戦うために…

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  • 不思議のひとふで~スタージョンのタッチ~ - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    やっとこさ「不思議のひと触れ」。感想がまとまらず手間取ってしまった。 スタージョンはすごいのか。この全体に関して言えば、奇想系で 思い浮かべるタイプの「すごさ」というものはあまり感じなかった。 というか、スタージョンって小説自体はちゃんと書いてるから、 もともとヘンな作家というわけではなかったのだ、忘れてたけど。 まあ、河出の「奇想コレクション」は質的に「くせ者作家集成」 という感じのラインナップだと見たので、これはまあ妥当なところか。 (一人だけ物の「奇想系」がいるけど、こっちはかなりすごい) 逆に全編を通して感じたのは、小説家としてのテクニック。 この人のすごさは、むしろこちらにウェイトがあると思う。 トリッキーな構成、語り口のうまさ、クライマックスへの盛り上げなど 自分の持ち味をしっかり確立してるのがよくわかる。 スタージョンがキャビアかどうかわからないけど、このスタイルを キ

    不思議のひとふで~スタージョンのタッチ~ - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
    inmymemory
    inmymemory 2010/04/29
    2004年の記事 "スタージョン作品の多くに共通するのが「人の秘められた部分、それも特に知られたくないところを覗き見る(あるいは触れる)」というモチーフであり、これが作品に独特のエロティシズムを与えている"
  • ラファティ『子供たちの午後』 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

    青心社からかつて出ていたSF叢書のうち、ラファティとヤングの作品が 同社からようやく復刊された。 『子供たちの午後』はその中の1つ、R・A・ラファティの短編集である。 国内で出たラファティ短編集の中でも早い時期に属し、しかも編集が 日オリジナルという、なかなか特殊な性格を持つだ。 このもかつて図書館で読んだことがあるのだけれど、ラファティにしては 比較的笑えない話が多い気がしたものである。 今読み返してみてもその感想は変わらないが、だからといってつまらないと いうことではなく、むしろ他のとは異なる読みどころが多い。 巻末の編者解説が長編への手引きとしてよくまとまっていることも含め、 ラファティのファンには必携の一冊である。 さらに今回は復刊にあたって編者の井上央氏が新たな解説を追加しており、 未訳長編の「Half a Sky」を題材に、キリスト教的な視点と語り部という役割に 注目し

    ラファティ『子供たちの午後』 - 熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-
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