ブックマーク / han.org (6)

  • 「寝た子」はいつかかならず起きる - Whoso is not expressly included

    鳩山元総理が、普天間基地の問題解決に前向きに取り組もうとして挫折したことは周知の通りです。 一方で、沖縄に軍事基地が集中している状況について、国連の人種差別撤廃委員会が日政府に改善を勧告していることをご存知でしょうか。それも、過去に何度も繰り返し「差別的」だと明言してのことです。 人権問題などニュースバリューにならないということか、はたまた「国益」にならないという判断なのか、マスメディア各社はこの事実を積極的には報道してきませんでした。それどころか、沖縄の米軍基地負担を「仕方がない」と論じ、鳩山元首相に対しては「寝た子を起こしてしまった」と批判するケースが多かったようです。 しかし、この問題は「仕方がない」で済まされることではなく、日が批准している条約上、違法性が高い人権侵害だと国連から指摘され続けていることを知るべきでしょう。 ところで、差別問題を研究している者にとって、「寝た子を起

    inukorori
    inukorori 2010/07/22
    フム.....
  • パークはなぜレイシストと呼ばれるようになったか - Whoso is not expressly included

    ロバート・E・パーク(1864-1944)といえば、「社会学入門」で必ず習う巨人の一人です。いわゆるシカゴ学派の隆盛を支えた最重要人物で、都市社会学や人種・民族関係論に深い足跡を残したことで知られています。 パークは社会学説史上の輝ける星です。しかし、ずっとアカデミアで活躍してきたわけではありません。ミシガン大学でジュン・デューイに師事し、実践的な問題への関心を深めた後は、大学院へと進学せずに人権派ジャーナリストとして全米各地で約10年の経験を積みます。特に人種問題には強い関心を示し、ベルギー領のコンゴで土地の人々がベルギー王室からきわめて過酷な扱いを受けていることを知るや、国際紙上での告発を通じて対応を改善させたこともありました。今ならめずらしい話ではありませんが、なにせ19世紀のことです。奴隷解放宣言からまだ30年前後という時代なのですから、パークが当代随一の人権家であり、理想家であっ

    inukorori
    inukorori 2010/04/28
    ははあ。色々と腑に落ちる。
  • 「帰化すればいい」という傲慢 - Whoso is not expressly included

    永住外国人に地方参政権を付与する法案はけっきょく日の目を見ませんでしたが、それに関連して一言いっておきたいことがあります。 宮台真司氏のブログhttp://www.miyadai.com/から、「外国人参政権問題について週刊SPA!12月15日号にコメントしました」の一部を引用します。 ■外国人参政権を考える上で、在日韓国・朝鮮人とそれ以外を分ける必要があります。在日韓国・朝鮮人以外の永住外国人は、'90年の入国管理法改正(永住権のない外国人を柔軟に受け入れることを目的として「定住者」という新しい在留資格を創設するなどした。これで日系外国人の在留が激増)大量に入国した日系人が中心です。 ■在日韓国・朝鮮人については国籍取得が容易なので、参政権を求めるのであれば国籍を変えていただきたい。帰化をすればエスニック・アイデンティティに瑕がつくとの反論もありますが、国籍とエスニック・アイデンティティ

    inukorori
    inukorori 2010/03/29
    うむむむむ
  • 差別をめぐる2種類の過誤 - Whoso is not expressly included

    「差別は客観的に定義できるか」から「差別問題の構築事例」まで、4回連続で差別の定義をめぐる議論を紹介してきました。 現時点では、「われわれカテゴリーの恣意的な動員」に注目する佐藤裕さんの定義と、坂佳鶴恵さんを筆頭とする社会的構築主義的な定義に、いろいろと有利な点が多いといえます。前者は差別する側の視点から差別を捉えることに成功していますし、後者は差別問題が生成されるダイナミズムをうまく記述することができる。しかし、それぞれ一長一短がありますので、決定版といえるような定義はまだ存在しない、と表現することもできます。 それは、言い換えると、何が差別で、何が差別でないのか、という問に答えることは、けっして簡単なことではない、ということです。今回は、それを前提として、議論をひとつ提起しておきます。 タイトルは、第1種の過誤と第2種の過誤です。 推測統計学の世界には「第1種の過誤」と「第2種の過誤

    inukorori
    inukorori 2010/03/08
    "加害を罰するよりも被害の救済のほうが実質的に重要だから"これは全く同意だけど、このための訴えを「差別された」という受け身として処理するのはなんか違う気がするんだけどなあ
  • ではどうすれば差別を客観的に定義できるのか - Whoso is not expressly included

    不当性を要件としているかぎり差別を客観的に定義することはできない、というのが前回のエントリーでした。かといって、不当性をまったく定義に含まないというのもなかなか難しい。 前回の議論を整理する意味で、ひとつ別の定義を紹介しましょう。新保満先生が岩波新書で使った非常にシンプルな定義です。永遠の名著『人種差別と偏見―理論的考察とカナダの事例』(1972年)より。 「差別は特定の社会集団に所属していると見なされる個人に対する異なる取り扱い」 つまり、新保先生は、(1)特定の社会集団(ないし社会的カテゴリー)に所属しているという理由で、(2)異なる取り扱いをしたら、それだけでもう差別だ、というわけです。すばらしい。オッカムの剃刀とはこのことか、と思わせる美しい定義です。 この定義において、「異なる取り扱い」が不利益を生ずるかどうかは問われません。なるほど、他人からはうらやましく見える特別待遇でも、当

    inukorori
    inukorori 2010/03/05
    「差別は特定の社会集団に所属していると見なされる個人に対する異なる取り扱い」は美しいね。子どもも高齢者も障害者も不当な扱いを受けているという理解はよろしくないのかしら?
  • 差別は客観的に定義できるか - Whoso is not expressly included

    ある学問分野において、もっとも基的な事物を指し示す言葉を「基礎概念」といいます。基礎概念を組み合わせることによって、他の抽象度の高い概念を説明する、という形で学問という論理の体系が構築されていきます。したがって、基礎概念を定義することは、通常、その学問の入り口ということになります。 ところが、差別論において、「差別」という概念を定義することは、学問の入り口どころか、むしろ究極のゴールの一つとされています。なかなか上手に定義できないんですね。 例えば、2009年末に出たばかりの差別論の教科書を見てみましょう。好井裕明編『排除と差別の社会学』(有斐閣選書)です。いいですよ。おまけに、この分野には授業でそのまま使える教科書は少なかったから、貴重なでもあります。 このの中で差別の定義というと、冒頭でアルベール・メンミ『差別の構造』という古典からさらっと差別主義の記述が紹介されているだけです

    inukorori
    inukorori 2010/03/05
    "差別か差別でないかを客観的かつ一意に判定することは、原理的に不可能"
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