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歌とEthnomusicologyに関するja_bra_af_cuのブックマーク (2)

  • 第2回 ひとりぐらいはこういう馬鹿が | 北島三郎論 艶歌を生きた男 | 輪島裕介 | 連載 | 考える人 | 新潮社

    第1回はこちら 承前:連載の意図 連載で私が試みるのは、演歌(というよりここはあえて「艶歌」と表記したい)を、「北島三郎的なもの」として再想像、もっといえば再創造する、ということだ。 北島三郎が演歌歌手なのは当たり前だ、何をいまさら、と思われるかもしれない。そうではなく、北島三郎を論じることを通じて、私がかつて明らかにした演歌ジャンルの枠組を、かなり根底的に修正し、あるいは転覆させようという大それた野望を持っているのだ。 つまり、演歌ジャンル確立期のいわば原義である夜の巷の流し、つまり艶歌師とその歌を体現する存在として北島三郎をとらえ、それを、1970年代以降の演歌ジャンル(のみならずアイドルを含む日の大衆歌謡のかなりの部分)において強い規範、または呪縛となってきた「五木寛之=藤圭子的な演歌(艶歌、怨歌)像」に対するオルタナティヴとして提示する、というのが連載における私の目論見だ。

    第2回 ひとりぐらいはこういう馬鹿が | 北島三郎論 艶歌を生きた男 | 輪島裕介 | 連載 | 考える人 | 新潮社
    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2022/11/10
    近代的・商業的レコード流行歌を"「流し」の経験に基づいて、いわばハッキングするような形で土着化させた北島三郎の音楽〔……〕「日本に限らず世界中の庶民の、強さと、豊かさと、陽気さと、賢さ」を体現〔……〕"
  • 祈 り を 歌 う

    古くからのことわざには「よく歌う人は、倍祈る」というものがあり、聖アウグスティヌスも「歌うのは愛している証拠」 (『説教』336,1)と言っています。このようなことを踏まえ、教会の勧めでも、典礼ではなるべく歌うことが望まれてい ます。『ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)』では「司祭または助祭、あるいは朗読奉仕者が歌うべきもので、会衆 の答唱がこれに伴うもの、もしくは司祭と会衆のが同時に歌うべきものから」(40)、すなわち、式次第の部分から歌 い始めるように勧めています。このことは、十分に理解されておらず、多くの共同体でも、ここから歌うことが行われて いないようですが、このことは、「典礼」と切り離せない重要な問題なのです。そこで、ここでは、早世した民族音楽学 者、小泉文夫氏の研究をもとに、共同体と歌の関係を考察し、典礼における聖歌のあり方について見てゆきたいと思 います。 小泉文夫氏は、「

    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2011/07/30
     小泉文夫 1984 『小泉文夫フィールドワーク ―― 人はなぜ歌をうたうか』 冬樹社
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