タグ

2021年3月27日のブックマーク (2件)

  • 私たちを国ぐるみの「精神的自傷行為」から救うには(白井 聡)

    「あれから10年——福島原発事故で目覚めた私たちの「主権者」意識と権力者のせめぎあい」より続く。 あたかもあの日に何も起こらなかったかのように こうした一連の流れを見てみるならば、「東京2020」が際限なくトラブルに見舞われ世界に恥をさらしていることに、何の驚きも起こらない。この行事を行なうことの罪は、来東北復興に投じられるべきであった人的・金銭的資源を奪ったという実体的な次元にとどまらない。 それは、2011年3月11日に起こったことが何ほどでもないと演出すること、もっと言えば、あたかもあの日に何も起こらなかったかのような現実感覚を日人に与える、否、押しつけるという優れてイデオロギー的な次元にこそあった。

    私たちを国ぐるみの「精神的自傷行為」から救うには(白井 聡)
  • #4351. 儀礼としての言語行為

    滝浦 (6) が,オーストラリアのアボリジニ社会の原初的な宗教における聖性について,フランスの社会学者 Durkheim の要点を以下のように示している. 【デュルケームの儀礼論】 (i) 「聖なるもの」への態度は,すべて「儀礼 (rites)」において表される.儀礼の形をとることで,人びとのふるまいの社会的意味を共同体全体で共有することができる. (ii) 儀礼の第一の機能は,聖なるものの聖性が汚されることのないように,聖なるものを俗なるものから分離し隔離することである.この場合,儀礼は基的に「?しない」という否定形で規定されるので,「消極的儀礼(仏 rites négatif 〔ママ〕)」と呼ぶことができる. (iii) 聖なるものの聖性が汚されないという前提のもとで,ある特殊な条件が満たされるならば,聖なるものと通じ合うことが許される.この場合,儀礼は「?してよい」という肯定形で規

    ja_bra_af_cu
    ja_bra_af_cu 2021/03/27
    "宗教でいう神などに相当する聖なるものは,言語においては個人の "face" ということになる" faith/face 儀礼/礼儀 守るべきプロトコルがあるという点では同じコミュニケーションの異なるあり方なのかも?