引越の片付けは止めて、一日原稿書き。 『論座』の「愛国心論」6000字。 家が変わり、パソコンの位置も変わり、なんとなくキータッチも変わり(コーヒーのしみを拭き取ったせいかもしれない)、いつものようにすらすら書き始められない。しばらく「助走」を重ねる。 夕方近くにようやく浮力を得てテイクオフする。 物を書くときは、この「テイクオフ」までの助走距離がとれるかどうかが質的な分かれ目となる。 「いますぐ書け」といわれれば、そこそこの字数のものは書けるが、「浮力」が得られないで書いたものは、すでに書いたことの焼き直しにしかならない。 そういうものを書いて送稿してしまうと、深い徒労感に襲われる。 わずかでも浮力を得て書かれたものにはたとえ一行であれ、「生まれて初めて思いついたこと」が書かれている。 その一行を手がかりにして一冊の本が生まれることもある。 愛国心についてはこれまでなんどか書いた。 当然
世界遺産にも指定されている 比叡山延暦寺で 滋賀県の嘉田由紀子知事に お目にかかった。 嘉田さんは、琵琶湖の水問題の 専門家で、京都大学から博士号を 受けておられる。 琵琶湖博物館の立ち上げや運営にかかわり、 京都精華大学で教鞭をとられた後、 前回の選挙に出馬して当選された。 琵琶湖水系が育んできた 生き方の美しさ、幸福のかたちは、 以前黛まどかさんがされている 「ええじゃないか」で高島市を 訪れた時に私の中に 初めて深く浸透してきた。 家の中に伏流水が引かれ、そこを 鯉が泳いで残飯を食べてくれる 川端(かばた)のことも、 その時知った。 嘉田さんは、水辺で生きものに触れる 喜びについて科学的、及び文化的視点から 考察され、その中で「自然水系と同じくらい 人工水系が大事である」という 大切な指摘をされる。 経験に照らしても、納得できる。 最近、東京の私の自宅の近くの 公園にビオトープができ
上田紀行さんとは、 今までどこかで出会っていても 良さそうなのに、 実は初めてであった。 長野駅でお会いした時、 「おおきな人だなあ」 と思った。 それから、「強い人だなあ」 と思った。 そのおおきさや強さが、 ご自身の苦しい体験を 乗り越えられたことから 来ていることが、お話 していうちに伝わってきた。 上田さんの著書『生きる意味』では、 現代人が「自分のかけがえのなさ」 を感じられなくなってきていることが 痛みをもって論じられている。 全てが代替可能となり、 人間がシステムを支える部品と なってしまう。 そんな現代の趨勢を怒りを もって描く上田さんの姿勢に 共感する。 「怒り」は、上田さんとダライ・ラマとの 対談を収めた『目覚めよ仏教!ーダライ・ラマ との対話』でも重要なモティーフになっている。 「愛」に支えられて、現状に対する 違和感を抱き、あるべき姿に向かって 力を尽くすならば、怒
2007年08月15日15:30 カテゴリValue 2.0Money ものは減らない(イイ)ワケ 同感。 らいおんの隠れ家 - ポール・グレアム「もの」 私はあまりに多くのものを持ちすぎている。ほとんどのアメリカ人はそうだ。 実のところ、貧しい人ほど多くの物を持つようだ。 なのだが、このことは、ものに囲まれてはじめて気がつくことでもある。 Graham御大は、イタリアでの生活でこれを発見したようだが、私は実家全焼でこのことを知った。しかし、このことを知っている Grahamにしても、未だ必要以上のものに囲まれて生活しているようだし、私もそれは同様だ。 なぜだろう。 もし、経済活動に関わる誰もが「知足」して、必要なモノを必要なだけ作って買うようになったらどうなるのだろうか。 おそらく、必要なモノを必要なだけ手に入れるだけの収入が手に入らなくなるのではないか。いや、もう少し正確に言うと、そう
司馬 遼󠄁太郎(しば りょうたろう、1923年〈大正12年〉8月7日 - 1996年〈平成8年〉2月12日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。本名は福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼󠄁(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」からきている。 大阪府大阪市出身。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。『街道をゆく』をはじめとする多数の随筆・紀行文などでも活発な文明批評を行った。 1923年(大正12年)8月7日、大阪府大阪市南区難波西神田町(現在の浪速区塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気の
<昔はよかったのか? ほんとに> まぁ、これまでにも似たようなこと言ってきたけどね、 「世の中がどんどん悪くなっている」とか、 「モノが豊かになって、こころの豊かさが失われた」 というご意見は、どうなんだろうね。 いや、そう感じる人は、 「わたしは、そう感じている」ってことだから、 感じるなよ、とは言えないんだけれど、 ちょっとだけでもさ、 「いや、まてよ」とか「ほんとかな?」と、 疑ってくれてもいいと思うんだよね。 ぼくも、江戸時代とかって 「いいなぁ」と思うところはあるけれど、 当然、いまより、ずっと激しい格差社会だよ。 「落語の世界は、ひとつの理想のひな型です」 とは言ってきたけれど、 それは、落語の物語のなかに、 町人の「あらまほしき理念」みたいなもんが 込められているってことでさぁ。 「日本国憲法」みたいな法のかたちで、 国民の理念を語ることもあれば、 「落語」という物語の体系を
私はかつて、ふたつの会社で人事の責任者として、千人以上の人を面接してきました。独立後も、ベンチャー経営者をはじめ数多くの人たちと会い、いまもリーダーシップやキャリア研修で、年間600~700人と接しています。彼らを見ていると、確かにラッキーなことばかり起こる人と、そうでない人が明確に分かれていることがよくわかります。 そもそもラッキーな人とは、どんな人なのか。興味を持って観察していると、ラッキーなことが起こる人は、起こるべくして起こっていることがわかります。彼らは共通して同じ考え方、行動をとっています。日ごろからラッキーを呼び込むような状態を保ち、ラッキーを自分から探し出すような行動をし、ラッキーを取りに行く。そして、ラッキーを一度つかんだら、モノにするまで決して放さないのです。 そういう人たちは、はたから見ると努力とは無縁なようでも、陰では理にかなった効率の良い努力をしているものです。逆
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