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高田明に関するjpnt-fanのブックマーク (28)

  • 株式会社A and Live

    ジャパネットたかた創業者 髙田明の秘書室ページです。 「今を生きる」こと、 「想いを伝える」ことを大切にする 髙田の日常をお知らせしていきます。

    株式会社A and Live
    jpnt-fan
    jpnt-fan 2023/04/11
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんの会社(株式会社A and Live)が3月31日で活動休止だそうです。
  • ジャパネット髙田明氏「テーマ曲やロゴ、こうしてできた」

    3月27日にジャパネットではBS放送「BSJapanext(ビーエスジャパネクスト)」をスタートします。私が社長のときはCS放送の許可をいただき24時間の自社チャンネルを持ちました。これがジャパネットにとって大きな転機となりました。しかし、時代とともにインターネットとの連携なども含めてテレビの世界は大きく動いており、ジャパネットもこれに合わせて、今の経営陣でCS放送からBS放送へ移行するという判断をしたのだろうと思います。 BSJapanext開局を聞いたとき、何よりもチャレンジしていくのはとてもいいことだと思いました。どんなことも時代の変化にどれだけ対応していけるか、だと私は考えています。ダーウィンの進化論と同じように、強いものが生き残るのでなく、やはり変化に対応し、さらに変化を自ら生み出していくものが残っていく時代だと思います。企業の場合、変化への対応にはコストもかかるし人材や設備投資

    ジャパネット髙田明氏「テーマ曲やロゴ、こうしてできた」
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    jpnt-fan 2022/03/22
    ジャパネット創業者の髙田明さんが語るテーマ曲やロゴの誕生秘話です。
  • ジャパネット髙田氏「1回きり5分だけ」のラジオ通販が変えた運命

    ジャパネットたかたを立ち上げてから経営を離れるまでに私はカメラやビデオカメラ、電子辞書、カーナビなどを何百万台という規模で販売してきましたが、その多くは日製でした。当時は日の家電メーカーが世界を席巻し、展示会に行くと「Made in Japan」の液晶テレビやプラズマテレビが何十台もずらりと並んでいて壮観でした。 あれだけ販売したカメラやビデオカメラなどは今ではほとんどスマホに置き換わってきており、日の影はとても薄くなっていると感じます。スマホがこのように普及する前は、ソニーの携帯音楽プレーヤー「ウォークマン」が世界で脚光を浴び、誰もが憧れる存在だったと思います。しかし、それに続くものを追求する力が日は少なかった。一方で他国は日に追いつけ、追い越せと研究を続け、力を付けてきた結果が今につながっていると思います。当時の国内メーカーの高い技術力を知っているだけに、やはり寂しい気持ちに

    ジャパネット髙田氏「1回きり5分だけ」のラジオ通販が変えた運命
    jpnt-fan
    jpnt-fan 2022/02/08
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんが語るラジオ通販で長崎から全国展開するまでの歩み。社名の由来など。
  • 暗転したテレビ通販10周年 ジャパネット・髙田明氏の決断

    テレビ通販に参入して10年。知名度も上がり、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続けていた。そんなときに訪れた1人の記者が持っていたのは、ジャパネットの顧客情報だった。「このままでは営業は続けられない」。自主的な営業停止は49日間にも及んだ。 髙田 明[たかた・あきら]氏 ジャパネットたかた 創業者 1948年長崎県平戸市生まれ。大学卒業後、機械メーカーを経て、父のカメラ店に入社。86年に分離・独立し、たかたを設立。99年にジャパネットたかたに社名変更。自ら通信販売で商品を紹介し、通販大手に成長させた。2015年に社長を退任し、経営を離れる。個人会社のA and Live(エー・アンド・ライブ)を設立した。(写真=菅 敏一) テレビの通販番組などを手掛けるジャパネットたかた(現在はジャパネットホールディングス傘下の中核子会社)の経営を離れてから6年になります。創業経営者である私に代わって、長男の髙田

    暗転したテレビ通販10周年 ジャパネット・髙田明氏の決断
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    jpnt-fan 2021/10/01
    日経ビジネス「ジャパネット創業者・髙田明氏の「不屈の路程」」の1回目です。
  • 「117歳まで生きる」と公言する髙田明 “1日1.5食”の健康法(日経クロストレンド) - Yahoo!ニュース

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    jpnt-fan 2021/07/05
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんが実践する“1日1.5食”の健康法です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(21)逆境を乗り越えた社員たち

    《平成22年、過去最高益を記録した》 16年3月の顧客情報流出事件で約2カ月の自粛期間を経て、通販事業を再開しました。その教訓からお客さまに人生の豊かさや感動を味わってもらうという企業のミッション(目的)の再確認や企業理念を共有するクレド(信条)の作成、社内研修にも力を入れるようになりました。年商は伸び、時代の追い風もあって22年には1759億円を売り上げ、136億円の最高益を記録しました。 追い風とは23年7月に控えた地上波デジタル放送への完全移行と21年にスタートした家電エコポイント制度です。デジタル放送対応のテレビ特需が成長を支えてくれたのです。しかし地デジに完全移行した後は、一転して2年連続で減収減益となりました。 《逆境のなか、あえて東京進出を決意。そして24年の年末、進退をかけた「覚悟の年」を宣言する》 24年に「ムーブジャパネット」というキャッチフレーズを掲げて、前に進もうと

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(21)逆境を乗り越えた社員たち
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    jpnt-fan 2021/07/01
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(20)顧客情報流出…甘かった認識

    《自社スタジオでの番組収録が始まった。試行錯誤を重ねながら、テレビ通販が軌道に乗っていく》 自社スタジオができたのが平成13年3月で、6月には地上波で生放送をやりました。社内からは放送事故を恐れて、生放送はまだ早いという声が大きかったのですが、僕は停電で放送が止まらない限りは何とかなるとの思いでした。また、放送局も生放送には非常に慎重で、念のために中継車を用意しての対応になりましたので、費用もその分かかりました。しかし、生放送には「今この瞬間」を視聴者と共有できる魅力があります。 19年3月、高知空港で着陸体勢になった旅客機の前輪が出ず、胴体着陸になったときも生放送でした。放送スタートの15秒前に見事に着陸したので、「みなさん、見てましたか。高知の旅客機、よかったですね」とスタジオで喜びの拍手をしながら番組をスタート。リアルタイムで視聴者とつながることで、番組を身近に感じていただけたのでは

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(20)顧客情報流出…甘かった認識
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    jpnt-fan 2021/06/30
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(19)自前のスタジオで放送開始

    《平成6年6月に地元KTNテレビ長崎で通販番組に出演した。テレビ通販への格参入が始まった》 ラジオショッピングを通して全国にネットワークを広げることができ、「もっと多くのお客さまに商品と感動をお届けしたい」という思いがふくらみ、さらなる挑戦としてテレビの通販番組に踏み出しました。 当時、アメリカの企業がテレコンワールドというテレビショッピングを深夜帯に放送し、すごい実績を作ったと話題になっていました。これに感銘を受けて、深夜の30分番組にチャレンジしようと思い、枠の確保に動いた。放送局の協力と地道な営業活動によって、念願の深夜の30分番組の枠を獲得でき、「ジャパネットたかたテレビショッピング」が誕生しました。 ラジオとテレビでは放送枠の料金も番組の制作費も規模が違います。制作会社に30分番組を2、作ってもらったら1000万円もかかったこともありました。しかし「これは会社を知っていただく

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(19)自前のスタジオで放送開始
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    jpnt-fan 2021/06/28
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(18)全国を網羅「ジャパネット」誕生

    《長崎・佐世保のカメラ店から全国の通販事業に打って出ていた平成5年、統一ブランド「ジャパネットたかた」が誕生する。社名になるのは6年後だ》 全国各地のラジオ通販番組に出演して電話で商品の注文を受けるとき、「はい。カメラのたかたです」では関西や関東、東北のお客さまは困惑しますよね。そのため九州地区での放送では「はい。通販九州です」、広島では「はい。通販中国です」と名称を使い分けていたのです。でも電話は全部、佐世保のお店の臨時回線にかかってくる。電話を受ける社員はお客さまの居住地によって名称を変えねばならず、かなり煩わしかった。 そこで全国で通販事業を続けていくには統一ブランドが必要だろうと考え、福岡のデザイナー、平松聖悟さんに相談に乗ってもらいました。まず「どんな名前がいいですか」と聞かれたので「全国をネットするような名前がいいのですが。極端に言うと『全国ネット』というような」と答えると、「

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(18)全国を網羅「ジャパネット」誕生
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    jpnt-fan 2021/06/27
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(17)偶然の出会いから「通販一本」へ

    《地元・長崎以外の放送局でラジオ通販番組に出演できないものか、できれば全国で…。そんな思いを抱いていた平成2年秋、2人の紳士がふらりとお店に立ち寄った》 NBC長崎放送のラジオに定期的に出演させていただいていた当時、うち以外でもすでに日の各地ではラジオショッピングは行われていました。しかし調べてみると、全国展開をしているところはない。そこで、僕はひらめいたのです。「ラジオで長崎から全国にネットワークを作ろう」、と。まずは九州に広げていくため、僕自身が営業担当として飛び込みで福岡や熊、沖縄などの放送局を訪ねました。でも県外の佐世保の小さなカメラ店が、いきなり「ラジオの通販番組に出演させてほしい」と頼んだところで、信用もなにもなく、すぐ「どうぞ」とはなりませんよね。何度かお伺いするうちに九州の局は出させてくれるようになりましたが、全国まで広げるには壁が高いなあと感じていました。 そんなころ

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(17)偶然の出会いから「通販一本」へ
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    jpnt-fan 2021/06/27
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(16)「ラジオ通販番組」の衝撃

    《平成2年にNBC長崎放送からラジオでのショッピング番組に誘われた》 最初の出演で紹介したのは富士フイルムのコンパクトカメラ「カルディア」です。わずか5分間でしたが、軽量で使いやすさを強調、ズーム機能などを説明したうえで1台1万9800円というお買い得感を訴えました。生放送でラジオカーがお店まで来てくれたので反響はすぐわかります。少しは注文がくるかな、とフリーダイヤルの臨時回線を2用意したのですが、番組終了直後から電話が鳴りやまない。結局、1日で50台売れました。5分間の出演でうちのカルディアの年間販売数を超え、売り上げが100万円。うなりましたね。 当時はNBCの通販番組は年2回だけ。僕は放送後、すぐ担当者に、「毎月やらせてほしい」と頼みました。1年くらいでようやく月1回になり、その2年後には毎週、出演するようになりました。その後も、週2回と出演を増やしていきました。 《通販番組での商

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(16)「ラジオ通販番組」の衝撃
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    jpnt-fan 2021/06/27
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(15)独立、そしてラジオとの出合い

    《昭和61年、実家の「カメラのたかた」から独立した。「ジャパネットたかた」の前身となる「株式会社たかた」の船出には、大手との価格競争という荒波が待ち構えていた》 一般家庭へのカメラの普及に伴い、佐世保にもフィルムの現像とプリントに大手の代理店が進出し、「安さ」でどんどん攻めてきました。1枚35円程度だったプリント代が30円、20円と急落し、「プリント5円」の看板が出たと思ったら、最後は0円に。プリント代は0円でも現像代を高く設定して、そっちで利益を出すのです。大手特有の戦略ですね。 でも大手は安い印画紙を使い、どんどんプリントするので色がよくない。せっかくの子供の写真も顔がつぶれたようになったりしている。佐世保の周辺には有田、伊万里、波佐見と陶器の名産地が多く、陶器が売れるか売れないかは写真にかかってきます。僕は陶器をはじめ、すべての写真を色が悪ければ何回も焼き直すようにしました。また長く

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(15)独立、そしてラジオとの出合い
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    jpnt-fan 2021/06/25
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(14)取次先から学んだ「苦い教訓」

    《昭和50年代半ばごろからコンパクトカメラが普及し始め、写真は自分で撮影する時代になっていった。仕事は徐々に変わっていく》 平戸時代から「観光地の記念写真やホテルの宴会でのスナップの撮影と販売」「持ち込まれたフィルムの現像とプリント」「カメラの販売」の3つが仕事の柱でした。カメラの普及で手軽に撮影する機会が増えたことや粗利が高くて収入源となることもあり、佐世保ではフィルムの現像とプリントに力を入れましたね。しかし遠くのお客さまに「営業所までフィルムを持ってきてください」とは言えません。そこで化粧品屋さんやお米屋さん、電器屋さんなどを回り、毎月手数料をお支払いする形で、お客さまからフィルムを預かる取次店になってもらった。全部で200カ所もの取次店と契約し、パートさんたちが回って集めたフィルムを営業所でプリントし、また取次店まで配達するという仕組みです。 取次店の交渉は飛び込みです。「取次店に

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(14)取次先から学んだ「苦い教訓」
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    jpnt-fan 2021/06/24
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(13)大一番で始まった佐世保の生活

    《昭和52年に平戸大橋が開通し、年間200万人近くもの観光客が平戸に押し寄せた。売り上げを伸ばした実家の「カメラのたかた」は翌年、佐世保市の三川内(みかわち)町に営業所を出し、初代佐世保営業所所長として赴任する。新しい仕事場はプレハブの作業所で、ここから「ジャパネットたかた」の歴史が始まった》 あのときの佐世保には大きなビジネスチャンスがあったんです。それはある宗教団体が隣町に造営していた総山の落成式で、完成すれば祝賀行事が10日間ほど開催され、その間は全国から延べ10万人以上の信者さんが集まって総山詣でをする。佐世保市内や周辺の市町村、さらに佐賀の名湯・嬉野(うれしの)温泉まで、近郊のホテルはすでに予約で満室でした。 兄が営業をかけて信者さんたちの記念写真と観光地での集合写真、夜の宴会などの撮影契約を結んでくれました。すべて「カメラのたかた」が担当です。「さあ、大勝負」となりました。

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(13)大一番で始まった佐世保の生活
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    jpnt-fan 2021/06/22
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(12)支店開設、新規顧客開拓へ

    《実家の「カメラのたかた」の社員として、長崎・平戸を訪れる団体旅行客の撮影、販売に追われる日々。仕事を通じた人とのつながりがビジネスを広げていくことを学んだ》 寝る時間を削って観光写真の撮影、販売に取り組んでいましたが、そのうちに目の前の仕事を全力でやっていると自然と次にやるべきことが見えてくることに気づきました。ホテルの宴会での撮影後、仲が良くなった旅行会社の添乗員さんに「明日はどこに寄っていきますか?」と聞く。「まず平戸大橋に寄って、そのあと佐世保を通って佐賀県鹿島市の祐徳稲荷(ゆうとく いなり )のお参りです」「じゃあ、その2カ所で集合写真を撮りませんか」。これで写真を買ってもらうチャンスが増える。携帯電話のない時代、平戸内外で使うのはトランシーバー。「今から30分くらいで訪れるよ」と連絡しあって、スムーズに撮影が進むようにしていました。 別の旅行会社の添乗員さんからは「今度、海外

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(12)支店開設、新規顧客開拓へ
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    jpnt-fan 2021/06/21
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(11)商売のコツ学んだ「観光撮影」

    販売していた宴会の写真。思い出になるということで、当時ではまだめずしかったホテル名を入れるサービスも行っていた 《長崎・平戸に戻った昭和48年、高度成長時代の団体旅行ブームは故郷にも及んでいた。観光写真の撮影・販売という25歳の再スタートは、目の回るような忙しさで始まった》 大手旅行会社が長崎を主とする西九州旅行を次々と企画していたころです。老人クラブがひいきにしていたある大型ホテルには、全国から1日500人くらいの団体が10日連続で泊まったこともありました。そのほか熊とか宮崎のバス会社などもツアーを組み、平戸にお客さんを連れてきてくれました。団体旅行のお客さんの楽しみは昼間の観光と夜の宴会。それを撮影して店に帰り、カラー写真にプリントして翌朝、ホテルを出発する前に買っていただくのが仕事です。 そのころのプリントは全自動でなく、シアン(青)とマゼンタ(赤)、イエロー(黄)を順に色付けする

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(11)商売のコツ学んだ「観光撮影」
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    jpnt-fan 2021/06/21
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(10)退職…実家のカメラ店へ

    《昭和48年、2年間勤めた阪村機械製作所を辞めた》 会社に不満があったとか、覚悟を決めて別の目的に進むとか、そういった理由はありませんでした。ただ幼なじみに、「いっしょに翻訳の仕事をしよう」と誘われ、軽い気持ちで辞めてしまったのです。アルバイトの延長のように入社し、海外勤務までさせてもらい、会社には感謝の気持ちしかありません。辞める直前、社長室に呼ばれたので「怒られるな」と思っていたら、「阪村で働いてよかった、と思うときがくればそれでいいよ」と言ってくれました。 社長にはジャパネットを始めてから、何回かお会いしました。亡くなられたときはお別れの会にも出席させていただいたのですが、その後、奥さまからいただいた手紙に「闘病中は高田さんをテレビでみるのを楽しみにしていました」とつづられており、改めて感謝の気持ちが深まりました。 幼なじみと始めた翻訳業ですが、うまくいくわけもなく、半年もすると貯金

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(10)退職…実家のカメラ店へ
    jpnt-fan
    jpnt-fan 2021/06/19
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(9)「虫歯」で動き始めた運命

    《入社2年目の夏、海外勤務となった》 ネジ製造機械メーカー「阪村機械製作所」に入社以来、契約書の翻訳などに追われていたのですが、2年目の夏、社長からヨーロッパ赴任の辞令をもらいました。念願の海外勤務、うれしかったですね。会社の拠点があったドイツのデュッセルドルフまで、アメリカ経由で渡ったのですが、ロサンゼルスで場の英語を聞いたときには会話のスピードの違いを痛感しました。デュッセルドルフのホテルに8カ月間駐在して、納入した機械がちゃんと動いているのかをチェックするために、京都の社から来た技術者を取引先に案内し、通訳するのが仕事でした。 ハンガリーのブダペストでは技術者の日語を僕が英訳し、別の通訳が英語ドイツ語に、さらに4人目でやっとハンガリー語になる。そして相手の返事も3人経由で日語に。日では経験できない光景でした。日が恋しいとか、べ物が口にあわない、なんてことはなかったです

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(9)「虫歯」で動き始めた運命
    jpnt-fan
    jpnt-fan 2021/06/18
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(8)何となく…バイト先に就職

    《大学4年生のときに開催された大阪万博で外国人観光客と交流、異文化へのあこがれが一気にふくらんだ。海外渡航という夢に向け、格的なアルバイトが始まった》 万博では、ESS(English Speaking Society 英会話サークル)で磨いた英語が外国人観光客に通用するのか、試したいと思って、来場していた外国人観光客に話しかけていたのですが、会話をするうちに日と違う文化に触れてみたくなりました。そんなころ、一緒に北海道旅行した幼なじみと話す機会があったのですが、「2年間ぐらい、一緒に海外を放浪してみよう」となったんです。高知大生だった彼は学校を休んで大阪の僕の下宿に泊まり込み、渡航費用を稼ぐため、ともに朝から晩までアルバイトをする生活が始まりました。 結果として僕は行けなかったのですが、彼は渡航しました。パリとドイツのシュツットガルト、そしてロンドンを8カ月ずつくらい、2年間でまわ

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(8)何となく…バイト先に就職
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    jpnt-fan 2021/06/17
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。
  • 【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(7)「通じる英語か」万博で腕試し

    《昭和41年、大阪経済大学に入学。英語を磨こうと、ESS(English Speaking Society 英会話サークル)に入った》 長崎の平戸島から商都・大阪へ、環境が大きく変わりましたが戸惑いはなかったです。僕はどこでも順応してしまう。大阪では焼き飯などのべ物にしょうゆやソースをすぐかけるので、最初は面らいました。ポテトサラダにもしょうゆをかけていたので、「さすがにこれは違うだろう」と思いましたが、まねしてみると結構おいしい。その後は抵抗なくかけていましたね。 ESSは大学で一番大きなクラブで、130人くらいが所属していました。初めての集まりに行ったら、当たり前ですが会話は全部、英語。名前を呼ばれると、みんなが「イエス、サー」と次々に立ち上がる。「ハイッ、じゃないんだ。かっこいいなあ」と改めて感じましたね。「ミスター・タカタ」「イエス、サー」と大きな声で立ち上がったのを覚えていま

    【話の肖像画】ジャパネットたかた創業者・高田明(7)「通じる英語か」万博で腕試し
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    jpnt-fan 2021/06/17
    ジャパネットたかた創業者の髙田明さんのインタビュー記事です。