埼玉の講演会に、特別支援学校の先生が何人かいらしていました。 首都圏で公共団体が講演を開くとだいたい親御さんでいっぱい(教師はあまり来ない)という状況が多いので 三連休の最終日にわざわざお越しくださるというのは、熱心な先生ですね。 そのお一人から質問がありました。 今、特別支援学校高等部は知的障害を必ずしも伴わない生徒でいっぱいになりつつある。 従来から対象だった子どもたちとは背景も違う。 予算も増えない。人も増えない。 その中で「生きる力」を養ってもらうためにはどうすれば? という真摯な悩みでした。 本当に大変ですよね。 普通の学校が力を失ったから、特別支援学校に行かざるを得なくなったっていうのが一般的な解釈のようですが これがあたっているかどうか、私にはわかりません。 単位制の高校とか、色々新しい試みもあるみたいですけどね。 そしてそういうところに生き生きと通っているASDの高校生にも
Twitterは「残念」だったのか?はてな村は、なぜそう呼ばれるのか前半では、Twitterの「アーキテクチャ」を分析し、その上で日本のTwitterユーザーはどのようにTwitterを利用し、どのような活動を行ってきたのか、ということに焦点を当ててみました。さて、前半冒頭の問題意識に戻ってみましょう。この記事は「日本のTwitterは残念だったのか?」という問いから始まりました。この「残念」という言い回しは、梅田望夫さんの岡田有花記者によるインタビュー記事のタイトル、「日本のwebは残念」から取ったものです。そこで、まず、「なぜこの記事で、日本のwebは『残念』と呼ばれているのか」について確認しておきましょう。かつてweblogの発明を「一億総表現社会の到来」と言祝ぎ、進化していくウェブの姿を機敏に捉えた梅田さんはなぜ今になって「日本のweb」を見切らざるを得なかったのでしょうか。それは
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