―司箭院興仙を中心に― 細川政元が修験道に凝っていたことは、「足利季世記」(1)巻二の巻首政元生害之事の冒頭部にあたるつぎの一節などによって夙に知られている。 京管領細川右京大夫政元ハ、四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ、魔法飯綱ノ法アタコノ法ヲ行ヒ、サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ、或時ハ経ヲヨミ多羅尼ヲヘンシケレハ、見ル人身ノ毛モヨタチケル、 このような軍記物の叙述にじゅうぶんな根拠があったことは、当時の公家日記などに散見する細川政元関連の記事を見れば明らかである。そして、そのなかで最も興味深いものは、「後慈眼院殿御記」(2)明応三年九月二十四日条に見える唐橋在数の談話であろう。 又在数朝臣談、(中略)抑細川右京大夫、近日従安芸国所上洛之命山伏<司箭>、於鞍馬寺令修兵法、世人行天狗之法云々、不審之処、在数朝臣去十六日為通夜、与東福寺辺之僧令同導参当寺之砌、右京兆同詣、則与彼朝臣宿坊同在処也、仍少時