以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 では、永正10年(1513)に将軍がわずかな供だけを連れて突如京都から出奔した珍事件の背景や、細川高国が京兆家当主となってから内衆の再編が進んでいたことなどを紹介しつつ、「義稙」と改名した将軍がどのような政権構想を抱いていたのかを探りました。 そして、大内義興が帰国した経緯については独立した記事として 『大内義興が帰国に至った背景―在京中に起きた「安芸国人一揆」と「有田合戦」の関係、遣明船の永代管掌権を獲得した件について』 で考察しました。 今回は主にその後の話、阿波より機を窺っていた細川澄元とその与党による上洛戦を通じて起きた将軍義稙と細川高国の関係の変化、そして澄元と将軍義稙を仲介した赤松義村とその重臣・浦上村宗の対立を併せて見つつ、なぜ高国と対立して出奔した将軍義稙の復帰が叶わず、高国