山名氏は十四世紀半ばから丹波から石見に至る山陰道に雄飛、但馬・因幡両国を二世紀にわたって確保、室町将軍家重臣の四職家(侍所所司家)の一つとして輝いた。徳川将軍家は山名氏が武門の名家であり、ともに上野新田氏のこうけ後裔という関係もあって、これを高家衆(大名の格)として遇し、乗地には故地の但馬七美郡内を与えた。江戸後期には村岡藩が成立する。 但馬の歴史は、しばらく山名氏とともに歩んだし、近代但馬の発展の基礎は山名氏の治政によって築かれたといえるのである。明徳の乱(一三九一)の六分一殿山名氏清、応仁の乱(一四六七~七七)の赤入道山名宗全はいわゆる「天下分け目」の合戦の大将として史上有名である。 山名氏の起こり 清和源氏の八幡太郎義家の三男の義国は下野足利郡内に土着した。当時、北関東の両毛地方には藤原秀郷の子孫が繁栄していた(嫡流は佐野氏)。義国の長男の義重は渡良瀬(わたらせ)川を渡って上野新田郡
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