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2007年4月10日のブックマーク (11件)

  • 2007-04-09

    石原慎太郎さん、3期目当選おめでとうございます。 サプライズは全然なく当然なるようになったとしか思えなかったので感慨めいたいものはないんだが、でも、この人の強さは尋常ではないとはあらためて思った。まずなんといっても、日の主流メディアが総がかりでも倒せなかったという点はあらためて注目か。小泉純ちゃんの時もそうだったが、むしろそうなるとさらに上積みができるという傾向さえあるように思う。つまり、今後は反メディア票分を読むべきじゃないかという感じ。 今回の票も、総得票可能数500万として、石原可能分が300万ぐらい(これは前回のという意味だけでなく前々回のいわゆる保守系の足しこみでそのぐらいあるから)、そこから多選、高齢、いうところの私物化がどうしたという批判で穏当に1割、最大2割落として240万。多選、高齢の候補者なんだから批判票がないと考える道理はあまりないので(動きのある選挙になれた都民で

    2007-04-09
  • 東京都知事選の結果の感想 - 我が九条

    私は東京都民ではないので今回の選挙結果について論評する資格はない。思いつきを少々。 もし私が東京都民だったら、今回外山恒一候補に「やけっぱちの一票」を入れるか、まじめに浅野史郎候補に入れるか悩んだと思う。そして投票所で「外山恒一」と書きたい欲望を抑えて、かろうじて「浅野史郎」と書いて午後8時過ぎに腹の底から「外山恒一」と書かなかった己を悔いる、と。 私は石原氏の政策には賛成しないし、まず「石原慎太郎」と書くことはあり得ない。しかし都民がそれを選択したのであれば仕方がないだろう。国旗国歌「強制」について反発している層はおそらく総出で「浅野史郎」と書いたはずだから、「国旗に起立、国歌斉唱」は当然というのが多数派の民意だった、ということだ。それは直視しなければなるまい。もし東京都教育委員の方針に反対で「石原慎太郎」と書いたとすれば、それは「アホ」だ。東京都教育委員会の方針に賛成で「浅野史郎」とか

    東京都知事選の結果の感想 - 我が九条
  • アンカテ(Uncategorizable Blog) - 公開できる5W1Hの量が会社の価値を決める

    ためしてガッテン:「週刊現代(4月21日号)の記事について」 〜NHKは「週刊現代」に抗議しています〜 週間現代が、NHKの「ためしてガッテン」という番組について「捏造がある」と報じた所、NHKは素早く反論文書を公開した。 一読して感じるのは、5W1Hが豊富で情報量が多いということだ。誰がいつどのように取材して、どのような実験を行ないどういう結果が得られたか、そういうことについて具体的な日時や人名も含め、詳しく番組が作られるまでの過程を開示している。 TBSが、不二家からの抗議に対して、一切反論できずにダンマリを通していることと対照的だ。(4/10現在、公開質問状への回答は一切なし) 一般的に、5W1Hを詳細に公開できるということは、何もやましいことが無いことを証明していると思う。その取材結果、実験結果をどう解釈していくかについては、異論があり反論があるかもしれない。しかし、少なくとも意図

    アンカテ(Uncategorizable Blog) - 公開できる5W1Hの量が会社の価値を決める
  • 極東ブログ: 営業力かぁ

    今の若い人に足りないのは営業力という話を先日ネットで見かけ、営業力かぁ……と考えることがあった。SEとかも事実上営業だしなとか。営業の仕事って今どうなっているんだろ。 私は営業の修羅場にいたことはないが、若造だったころ短期間というか不定期にその端くれにいたことがある。年配のおっさんとペアだったこともあり、これは実地で学ぶ技術だなと思った。 営業の技術は体系的な知識にまとめられる部分もあるのだろうが、なんともうまく言葉にならない部分もある。人柄が勝負ということも多い。あるいは、そういう人柄のようなインターフェースを作る技術かもしれない。 ペアだったおっさんはそうした「人柄」を顧客には見せたが、私にはビジネスライクでそれほど見せなかった。私がとっつきにくい若造だったからだろうが、あるとき、ぼそっと「やる気があるなら君には営業の才能があるよ」と呟いた。自分がそのころのおっさんの歳になりなんとなく

  • 木走日記 - マスメディアは絶対に報道しない「電通」というオバケ代理店の暗躍

    先日久しぶりに旧友I氏と会しました。 彼は男子高時代、一緒に授業をさぼり喫茶店や雀荘で遊んだりした私の悪友でして、まあ30年来の腐れ縁というやつであります。 今ではおたがい40代のオヤジでありまして社会的にもそれぞれしかるべき地位を与えられる身分になっております。 高校時代は一緒に授業をさぼったたりしてた決して優等生とは言えない私たちでしたが、なぜかI氏は卑怯(?)なことに真面目に勉強しなくとも成績が良く、有名大学に進学後、今では日経済新聞の役職記者なのであります。 で久しぶりに会したのですが、渡された名刺を見てまた驚いたのでありますが、役職がまた昇格しているのであります、相変わらずずるい男だ(苦笑) 朝日であれ産経であれTVにしろ、基的に日のマスメディアには批判的に対峙することをモットーとしている当ブログですが、マスメディアの内情については、このI氏と某民放キー局の政治部の友人

    木走日記 - マスメディアは絶対に報道しない「電通」というオバケ代理店の暗躍
  • uumin3の日記 - 道徳的詐術

    G★RDIAS:「当は、できるでしょう?」の原初的風景より たとえば、私がコンビニで200円のおやつを買おうとするという状況を想定する。 目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。 それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。 このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。 仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。 私は、そういうことを「まずは」嘘をつつみ隠すことなく言おう、と提起している。 これは、「正論の倫理学」なら主張するであろう、「その200円を募金すべきだ」という主張とは全く違う。 ただ、私は

    uumin3の日記 - 道徳的詐術
    k2low
    k2low 2007/04/10
  • http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20070403ddm013100079000c.html

  • http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20070404ddm013100016000c.html

  • 731部隊 - Wikipedia

    初代731部隊長石井四郎(1932年に撮影された陸軍三等軍医正(少佐相当)当時の写真、のち陸軍軍医中将) 満洲に拠点を置き、兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった[注釈 2]。そのために人体実験[5]や、生物兵器の実戦的使用[6][7]を行っていたとされる。 1925年、化学兵器と細菌兵器の使用を禁じるジュネーブ議定書が、締結された際、石井四郎は条約で禁止しなければならないほど細菌兵器が脅威であり、有効であるなら、これを開発しない手はないと考えた。その頃、石井は2年間の長期に渡り海外旅行を行ったが、帰国後に最強諸国が細菌戦の準備を行っており、日もその準備をしなければ、大きな困難に遭遇すると日陸軍省や参謀部幹部らに、説いて回った[8]。 1932年(昭和7年)8月、陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら

    731部隊 - Wikipedia
  • 731部隊元隊員が証言 「子持ちの慰安婦を生体解剖したこともあった」(増補版) - kojitakenの日記

    石原慎太郎の東京都知事選圧勝を伝える「読売新聞」(大阪社版)を読んでいたら、見逃せない記事に行き当たった。 「Yomiuri Online」を検索したら見つかったので紹介する。「中部発」とのことで、名古屋や大阪の紙面には間違いなく載っているのだが、東京社版ではどうなのだろう。 http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/070409_5.htm 以下引用する。 「病原体の生体実験 毎日2〜3人解剖」 731部隊元隊員証言 戦時中に中国大陸で、捕虜などに人体実験を重ねた旧日陸軍731部隊の衛生兵だった三重県尾鷲市の大川福松さん(88)が8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席、「毎日2〜3体、生きた人を解剖した」と証言した。当時の体験を人前で明かしたのは初めてで、「不正なことは、社会に、はっきり示さなあかんと思うようになったから」と語っ

    731部隊元隊員が証言 「子持ちの慰安婦を生体解剖したこともあった」(増補版) - kojitakenの日記
  • ブックオフ流「社長を育てる方法」:日経ビジネスオンライン

    ブックオフの次の社長は橋真由美さんだ、と発表したのが2006年5月16日ですから、まもなく1年になります。「パート主婦出身」「タレント・清水國明さんの姉」とずいぶん騒がれました。僕にしたら、1990年にブックオフを創業して以来、店の現場はほとんど橋さんに任せっきりでここまで成長してきたのですから、橋さんに社長を引き継ぐのは、とても自然な流れだったんですが。 橋さんが面接に来た時のことは、今もはっきり覚えています。 「この人、井戸端会議の司会役なんだろうな」と。 「こうやったら、きっと自治会費を上手に集められるわよ」とか言いながら、5人、6人集まったら、自然と話を交通整理するのがこの人なんだろうな、とね。面接でも、僕との会話はいつの間にか橋さんのペースで進んでいて、「来てあげてもいいわよ」といった雰囲気になっていた。 パート・アルバイト募集の広告を出したものの、応募してくるのはほか

    ブックオフ流「社長を育てる方法」:日経ビジネスオンライン