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ブックマーク / ohnosakiko.hatenablog.com (89)

  • 「私が結婚しない理由」で考えたこと - ohnosakiko’s blog

    「役立たず」な人々 少子化、晩婚化。 このまま日の人口が減り続けると、大変なことになるという。国民総生産はガタ減りし輸入は途絶え会社は倒産し、年金制度は格的に破綻し貧しい老人が巷に溢れ、数少ない若者はますます働く意欲をなくし人心は荒廃し世相は乱れ、かくして日は先進国の仲間から脱落して貧しく混迷したアジアの弱小国となると。 きっとそのうち、結婚して子供の二人もいれば、将来の日のためになっている「聡明な人」(勝ち犬ではない)、なかなか結婚しない人は、みんなのことを考えない「役立たず」(負け犬ではない)ということになってしまうのではないか。 特に、結婚したのにわざわざ子供を持たない人生を選択した人など、相当「役立たず」な人である。私もその腺で生きてきたクチだが、どう生きようと個人の自由、自由にした責任は自分で負うという個人主義で許されると思っていた。 なのに、爆発的な人口増加で糧難が目

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  • 「マッチョ」と「ウィンプ」の何故何故論 - ohnosakiko’s blog

    「何故?」という問いを巡って、一部で盛り上がっていました。とても興味深く面白いテーマです。 「何故ですか?」「理解できない」に潜む否定的意味 - suVeneのあれ 【要約】 「何故ですか?」には、純然たる質問の場合と、相手の意見に対する否定的意味合いをもつ場合の二通りがある。ネットではどちらの「何故?」かの読み取りが難しく、問う側は前者のつもりでも後者と受け取られることもしばしばあるので配慮は必要。だが一方で、問われて(否定されて)神経を逆撫でされたと思う人は、自分の考えが「何故?」と問われないような「正しい」ものとの思いがあるのかもしれない。 否定的「何故ですか?」に潜むやっかいさ - しあわせのかたち ※現在このブログは閉鎖されている。 【要約】 suVeneさんの挙げた後者の否定的「何故?」についての各論。この「何故?」においては、ダブルバインド - 言語的メッセージ(文字通りの意

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  • 「ミソジニー」といかに付き合うか - ohnosakiko’s blog

    非モテ」と言うより「ミソジニー」の問題のような - NC-15 お前ら今日からミソジニーって言葉使うの禁止な - AnonymousDiaryミソジニー」は女性嫌悪、女性蔑視の意。男性→女性だけでなく、女性→女性もある。男性嫌悪は「ミサンドリー」(Wikipediaの解説)。 検索していたら、約一年前のこんな記事を見つけた。 マスメディアでの男性批判が、男性を女性嫌悪に走らせる - ARTIFACT@ハテナ系 ミソジニーで思い出したのが、内田樹の『エイリアン3』の分析だ。 エイリアン3 [DVD] シガニー・ウィーバーAmazonエイリアンシリーズの中で興行的に失敗だったとされる3は、ヒロインのリプリーが「常習的・遺伝的な性犯罪者」のみが収監されている囚人星に漂着し(2で助けた子供と仲間は死亡)、そこで囚人達の強烈な反発、憎悪、セクハラに晒され、最終的には彼らと共にエイリアンと闘うと

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  • 「爆笑問題のニッポンの教養」7月15日放映が酷かった件 - ohnosakiko’s blog

    爆笑問題が東京芸大を訪ね、学長の宮田亮平氏と「激論」を交わすという企画。私が見たのは後編だけで、番組冒頭にざっと紹介された前編ダイジェストを見るに、まず「表現の現場」みたいなものを紹介する感じだったようだ。 で、後編。宮田学長が太田に「当のことを言ってない」とツッコむところから始まるのだが、なんかもう‥‥酷かった。 「言葉が多過ぎる」という学長の批判に太田はキレ気味。言葉で勝負している芸人が「言葉が多過ぎる」と言われても困ると思うが、学長は「表現とはもっとシンプルなものであるはず」と言っていた。「ものつくり」系の人に非常にありがちな言い方だ。 「表現していることが伝わらなければ意味がない」と言う太田に対して、「伝えたい思いが重要」と言う学長。そんなの大前提だろうと思う。しかし「ものつくり」を自認する人は、よく言うのである。「能書きはいらない」と。「考え過ぎるとダメだ」と。学長も同じような

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  • 三次元ヌードへの拒否反応 - ohnosakiko’s blog

    今日のデザイン専門学校のデッサンの授業は、ヌードクロッキーだった。私の行っている学校では、全コースの一年生が一度はヌードクロッキーをすることになっている。美術系のヌードモデルをしているベテランのモデルさんが、毎年来る。彼女から、アニメ専門学校に仕事に行った時の興味深い話を聞いた。 クロッキーの授業が始まってしばらくしたら、気分が悪いと言って退室する学生が幾人か出たという。初めてヌードモデルを描くという緊張感で気分が悪くなったのか? 後で教官に訊くと、どうもそれだけではなかったらしい。 アニメーションコースに来るような学生は、だいたい女の子の絵を厭というほど描いている。実物の女のヌードを目の当たりにする前から、女の子のヌードの絵も描いている。そこで頭の中に、かわいくて理想的な女の子の身体イメージというものが、既に確立されている。 しかし。現実の女性はアニメ絵とは違う。ずっとずっとナマナマしく

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  • 「外部」をめざす内在的絵画論 ––––『無くならない アートとデザインの間』を読んで - ohnosakiko’s blog

    変わったタイトルである。「無くならない」が大きく表示されてタイトルっぽく、「アートとデザインの間」がサブタイトルの扱い。 帯には、「20世紀の思想だったデザインやカウンターとしてのアートがある使命を終えようとしている。」の文言。「はじめに」では、アートとデザインの「ジャンル中間領域」の話でも、「両者の融合」ということでもないとある。 読み進めていくとわかるが、この「間」とは、「アート」として成立する以前、「デザイン」と呼ばれる以前の、名付け得ない行為を指している。今あるようなかたちのアートやデザインがなくなっても、その行為というか営みだけは「無くならない」ということだ。 「描く」という、人間の「無くならない」営みについて、「アートやデザイン以前」から根源的に考えようとする、非常に奥行きの深い内容だった。 著者の佐藤直樹は『WIRED』日版創刊からアートディレクターとして関わり、長年デザイ

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  • 「一生懸命勉強するしかないって感じ」「あなたはとっても可愛かった」 - ohnosakiko’s blog

    実家で、母や夫と一緒に、昔の家族のアルバムを見ていた時のこと。 「お母さん、美人だねー」「◯◯ちゃん(妹)、可愛いなぁ」などと褒めた後、夫は私の小学生の頃の写真に、「うーん。これはもう、一生懸命勉強するしかないって感じだな」と言った。なんだとぉ‥‥。 「いやだって、女の幸せが顔かたちで決まるってのは、ずっとあったじゃないか」ということを、モゴモゴと彼は抗弁した。自分は、そういうジェンダー規範が強かった現実社会を前提として、モノを言っただけだと言いたいらしい。 だがそんなことを言えば、「じゃあ、あなたが私と結婚したのはなぜ?」と聞かれると予想できるだろうに、人は予想していない。そして案の定聞かれて(別に今更答えが欲しいわけではないがお約束なので)、「わからない」「忘れた」と答える。脇が甘い。 それはともかく、確かに客観的に見て若い頃の母は美人だし、妹は私より可愛い。あまり可愛くなかった私が

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  • 「教えて下さってありがとうございました!」と「悪いということを知らなかったんだから」 - ohnosakiko’s blog

    大学の授業内で時々ミニレポートを書かせ、その提出をもって出席票に替えている。その日、家に帰って80人あまりの学生のミニレポートを読んでいたら、ほぼ同じ内容のミニレポートが続けて四枚出てきた。内容もそっくりなら書体もまるでそっくり。すぐに、これは全部一人の学生が書いたなと感じた。 おそらく、四人の中で一番文章量の多いAさんが「主犯」。あらかじめ頼まれていたAさんが、欠席している残りの三人の分も書いたのだ。そして次回は、その三人の中の誰かが「主犯」を引き受けるのだろう。他の学生の出席票も書いて出すとか、代返をするとかと同じ、昔からある大学生の不正互助行為である。 にしても、それを堂々とやっているのにちょっと驚いた。普通はバレないよう、内容や言葉遣いや書体を多少は変えるものだ。これでは「見つけて下さい」と言っているも同然。自分のも含めて四人分を時間内に書かねばならないということで、小細工している

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  • 雨宮まみさんについてのとても個人的な覚え書き - ohnosakiko’s blog

    急逝されたのをネット上で知ってから鉛の塊を呑み込んだような気分になっているこの数日、関連の記事のブックマークやtwitterに断片的に書いていたことを、少しまとまった文章にしておきたいと思う。 1976年生まれの雨宮さんより私は一回り以上も上の世代で、ものを書き始めたのは40代後半と遅い。彼女のweb連載「弟よ!」を見つけて、「すごい文章を書く人だ。こういう方向性じゃ太刀打ちできないから、同じようなテーマでも自分は別の角度から書かないと」と思ったことを覚えている。 2006年に出た『エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること』(安田理央、雨宮まみ/翔泳社)も、半分は彼女の名前で買った。私はAVを見ないけれども、女性がまとめるAVについての文章なら読んでみたいと思った。 その後に、はてなダイアリーで書かれているのを知り、ちょくちょく読むようになった。AVライターとしてあちこちで発言さ

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  • 「嫌悪感の表明」と「相互理解」の間 - ohnosakiko’s blog

    最近話題になっていた、セクシュアルマイノリティへの施策をめぐる千葉市長の一連のTweet(わかりやすくするため番号を振った) 1 先ほど定例記者会見で、性別が同一である者とパートナーシップを形成している職員が介護休暇や、結婚休暇に相当するパートナー休暇を取得できる制度を発表。 既に事実婚でも休暇の取得が可能なもので、性的多様性に配慮できる項目と判断しました。事実婚で許容されている分野・趣旨を今後も精査します— 熊谷俊人(千葉市長) (@kumagai_chiba) 2016年11月10日 2性的多様性の話でよく少子化の話をする人が居るのですが、では子供が出来ない年齢での異性婚も認めないということなのでしょうか?今でも性同一性障害の方は性別が変更できるのですが、それに反対しましたか?そもそも多様性を認めなければLGBT等で苦しんでいる方は異性婚に行くと思いますか? https://t.co/

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  • 「理想」と「欲望」は切り分けできないし、「萌え絵」は「日本美術」ですよね(どっちかというと) - ohnosakiko’s blog

    「萌え絵」が批判されるのは歴史がないからじゃない - 最終防衛ライン3 結論が最初の方に書かれている。 「萌え絵」も「理想」のひとつであろう。「萌え絵」が批判されるのは、誇張表現だからだし、誰かにとっては「理想」ではなく「欲望」にしか見えないからだ。現在「芸術」として残っている「裸婦像」は多くの批判に耐えて残ってきたものである。果たして「萌え絵」はそれに耐えられるだけのバックグラウンドを形成できるだろうか。この点を無視して時間や歴史が解決すると結論付けるのは、いささか楽観的すぎるだろう。 「独りよがりの「理想」はしばし、欲望の発露として捉えられるだろう」ともあったが、「欲望」の発露と捉えられてはいけないというのは何故かなと思った。「理想」であり同時に「欲望」の発露でもある、ということではいけないのだろうか。ヌード絵画から少女マンガまで、ほとんどの絵がそうじゃないですか? ”「欲望」それ自体

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  • 制作だけで食べていける人、いけない人 - ohnosakiko’s blog

    才能のない子にどうやって美術への進路を思いとどまらせるか 芸大を出て、作家活動をしながら十数年美術系の予備校講師、その後美術系大学非常勤講師(六年前に美術作家は廃業した)をしてきた立場から見ると、いろいろ思うところはあるが、基的にはどんなに反対してもやる人はやるし、それでえなくてもやり続ける人はいる。というか、大概は制作だけでは生活していけないので、先生稼業をしながら続けるケースがやはり多い。 私の同級生(東京芸大彫刻科1982年学部卒業)で言うと、21人のうち、母校の先生になった人が一人いる(それ以外の大学でもいるかもしれないが知らない)が、作家活動が注目されて名前を美術手帖などでよく見るような人は今は一人もいない。たぶんひっそりと続けている人はいると思うが、一つ上の学年でも同じようなものだ。 ちなみに日比野克彦はデザイン科の同学年(今、芸大の教授)、村上隆は三年下の日画科。奈良美

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  • 「嫁が欲しい」「頼れるのは娘」という母親たちの言葉 - ohnosakiko’s blog

    去年の夏前だったかいつものように、義父の家に行って庭の草取りをしていたら、近所の年輩の主婦の人がやって来て、垣根越しに「まあよくやってらっしゃること」と声をかけてから、「いいわねぇ、うちも嫁が欲しいわ」と独り言のように言った。そこの家の息子さんは実家を出て一人暮らしをしている。 こういう時に「嫁が欲しい」って言うのかと思った。「嫁」つまり息子のは、別に草取り要員ではないですよ。義父は高齢の独り住まいで、夫が単身赴任でこちらにいないので、私が時々来て手伝っているのです。私しかいないから、それは当然なのです。もちろん時間のある時しか来れません。別に「嫁」だから何でもする、できるってわけじゃないです。 ‥‥‥と言いたかったが、私は曖昧に笑った。さすがにそういう時にムッとしないでやりすごす世間知はある。 年末にお歳暮を贈った伯母(亡き義母の姉)から御礼の電話が来た時も、義父の家に行っていることを

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  • 元祖・黒髪白シャツ男 - ohnosakiko’s blog

    漫画家の東村アキコがネットに発表している『ヒモザイル』が話題になっている。アシスタントへのセクハラ、パワハラとの批判も出ているが、ここで書きたいのはそういうことの是非ではなく、第二回で登場する「これが大人の女が好む「抜け感男子」だ!!!」という「図解」について。 ラフなボサボサ黒髪だが不潔感はなく、普通の洗いざらしの白いシャツの腕をまくってて、ベージュのチノパンにサンダルかコンバース履いてるという「抜け感」のあるファッションだ。 これな‥‥。すごくわかるわ。50代半ばの私でも。オシャレ過ぎず、さわやか過ぎず、無難過ぎずの絶妙なライン。普通〜痩せ形でないとちょっと厳しいかもしれないが。 無造作黒髪・無造作白シャツ男の元祖は、おそらく豊川悦司だと思う。 1995年のTBSドラマ『愛していると言ってくれ』の中で、豊川悦司が演じた聴覚障害者の絵描きの青年が、いつも無造作な黒髪(当時だから少し長め)

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  • 「わたしのきれい」とか「みんなのうれしい」とか - ohnosakiko’s blog

    最近、広告のコピーなどで使われている表現で、気になっているもの。それは形容詞をそのまま名詞として使う言い方だ。たとえば、 ・私のきれいを支えてくれる ・みんなのうれしいを実現します 「きれい」「うれしい」というポジティブで明るい形容詞を印象づけるために、さまざまな言葉が省略されている。正しく言うなら、「私がきれいであり続けることを支えてくれる」や「みんながうれしいと感じる状態を実現します」だが、それだと長いし硬い。 コマーシャルのコピーとしては、感覚的な掴みでわかりやすくていいのだろう。でも個人的には、好きではない表現。なんか首筋がゾワッとする。 「きれい」「うれしい」「楽しい」「悲しい」「面白い」‥‥。形容詞にはしばしばシンプルな主観が盛り込まれる。だから子どもは形容詞から覚える。ディズニーランドに行って「面白い!」。マンガを読んで「面白い!」。変な虫を見つけて「面白い!」。その場その場

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  • きものを「貴族の文化」にしたのは何か - ohnosakiko’s blog

    英国人の日文化論が「正しすぎる」「ぐぅの音も出ない」と話題に - with news(ウィズニュース) タイトルがちょっと煽り過ぎというか大袈裟に感じるが、小西美術工藝社のデービッド・アトキンソン社長という日文化に詳しいイギリス人が、きものの価格の高さについて苦言を呈している内容。以下は最後のところ。 そもそも伝統が伝統になる前は、ちゃんとビジネスになっていたはずなんです。消費者の意向を探り、自ら変わり続けた。だから伝統になれた。着物が存続するためには、真っ当なビジネスにするしかありません。もっと価格を下げて、手に取りやすい着物を増やす取り組みが、最低限必要だと思います。 最近またちょっとしたきもの流行りで、若い人向けの雑誌も出て、気軽にきものを楽しめるよう様々な提案がされていたり、手にしやすい価格帯のきものが売られていたりするが、街を歩いていて頻繁にきもの姿を見るところまでは行ってい

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  • 「〜かなと思います」という言い方 - ohnosakiko’s blog

    少し前に、「〜させていただきます」という言い方の不自然さについて記事が上がっていた。 丁寧"のつもりが、"慇懃無礼な印象"に?!『させていただく症候群』 - NAVERまとめ 視点・論点「させていただきます症候群」|視点・論点|NHK 解説委員室|解説アーカイブス この言い方が多用されておかしな感じになっていることに違和感を覚える人は結構いるようで、検索してみると7、8年前からその手の記事があるようだ。 私がここ最近気になっているのは、「〜かなと思います」という言い方。テレビの街頭インタビューでも識者のコメントでも耳にするし、ネットの書き込みでもよく見る。若い人に限らず、老若男女まんべんなく使っているようだ。 「〜したらもっと良くなるかなと思います」 「〜していくべきかなと思います」 「〜ってのはつまらないかなと思います」 「な」は「な?」と上げる。この「かな?」はたとえば、幼稚園の先生な

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  • ヌードクロッキー - ohnosakiko’s blog

    女の裸、男の裸 デザイン専門学校の授業で、なぜかヌード・クロッキーがある。 女性の裸を描くという西欧の長い美術の歴史は、ジェンダー的な観点からいろいろ問題も指摘されているが、それがそのまま日の芸術教育にも受け継がれ、専門学校のカリキュラムにまで登場しているわけである。 男も同じように描けばよいではないか? でも男のヌードを描いたり作ったりするケースは、女に比べて非常に少ない。そういうことに疑義を呈してか、美大では受験時に男性(短パン穿いてる)を描かせるところもあったりする。しかし大学では女性のヌードを描いたり作ったりしていることが、圧倒的に多い。 高校が美術科だったので、学校にはモデルさんがよく来ていた。やはり女性オンリー。 高三の夏休みに受けた予備校の夏期講習でも、女性のヌードモデルが来た。学校で描き慣れているので、平気だ。しかし普通科から来ている男子は、見るからに緊張していた。 そり

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    kaeru-no-tsura
    kaeru-no-tsura 2015/04/04
    ヌードデッサンはやったことないなぁ。絵画・彫塑系だと必ずあるのかな
  • 岡田斗司夫と「おじさん×若い女」のあるある感 - ohnosakiko’s blog

    頭の悪そうなタイトルしか思い浮かばない自分の頭の悪さが恨めしい。今回も自分のブコメの長い補足として。 岡田斗司夫、流出キス写真は物 過去の驚愕「80股!」も告白 :J-CASTニュース ohnosakiko 男女 「80股」って言ったのはこの「スキャンダル」をトンデモ方向の笑いに包んでこれ以上「醜聞」ぽくしたくないという元オタキングの大衆心理操作()じゃないかと睨んでる。だとしたらなんか考えることがカワイイと思った http://b.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20150112#bookmark-238825254 最初「偽物」だと言っておいて証拠が出たら認めるところがみっともないという声が多いが、多分人もそれは自覚していて、その空気を思い切り斜め上方向に持っていって「この人、一般人の常識じゃ測れないわ」という苦笑と諦めを引き出すために、「80股」と言っているような

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  • 「芸術鑑賞法」と「既知の器」 - ohnosakiko’s blog

    「好き」「嫌い」を越えた芸術鑑賞法があるとしたら - (チェコ好き)の日記 自分のブコメ。 [アート]「自分の人生に真摯に向き合って」「生涯をかけて」「あなただけのために作られた作品」を見つけ出せって。修行して心眼を鍛えろみたいな。コツコツ美術史勉強するより難易度高いがな。 と思ったのは、言葉の選択に(ブログ主も書いているように)スピリチュアル感が濃厚に漂っているからだけど、「自分の人生に真摯に向き合って」「生涯をかけて」いったら、それは一般的な意味での「審美眼」を磨いていることにならないか?とも思ったりした。 元記事の主旨と大幅にずれるかもしれないが、個人的にはガリガリ噛み砕きたい方なので、そういうふうに解釈して書いてみる。 「審美眼」とは、一般的には「美を見極める能力」のことです。なんだそれ、結局美術史とかを勉強して知識を身に付けろってことか、と思うかもしれませんが、ちがいます。美術史

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