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ブックマーク / lessor.hatenablog.com (92)

  • 被災した「最先端の老舗」をみんなで支える意味 - 泣きやむまで 泣くといい

    いま「被災」と言えば、北海道を思い描かれる方が多いのだろう。 9月4日に上陸した台風21号は近畿地方に大きな被害をもたらした。2週間が経ち、全国的には次第に忘れられつつある気もする。しかし、ここに注目してほしい台風の大きな爪痕がある。 「寝屋川市民たすけあいの会」の受けた被害だ。 先に書いておくと、以下は寄付募集と情報拡散(はてなブックマークやSNSでのシェアなど)のお願いである。自分はこうしたことをあまりブログでやってこなかった。そんなに長い記事ではないので、どうか読むための時間を少しください。 congrant.com ずいぶんと古めかしい名前の団体と思われるだろうが、「寝屋川市民たすけあいの会」のことを知る人は障害児者の支援や地域福祉と関わる人に多い。 大阪府寝屋川市で活動拠点を得て、現在の名前になったのが1978年。地域で生きていくための福祉サービスがひどく欠けていた時代。生きるた

    被災した「最先端の老舗」をみんなで支える意味 - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2018/09/18
    “どんどんシステム化されて理念を見失っていくこの国の福祉にとって、お手本となるトップランナーが深く傷つくのはあまりにつらい”
  • やりがい搾取どころじゃなかった - 泣きやむまで 泣くといい

    下の記事について、2日間で35,000くらいのアクセスがあった。励ましや慰めのコメントをたくさんいただけて、当に感謝している。年度末の衝撃の中で自分や母子会のコーディネーターが正気をぎりぎり保っているのは、共感してくださる方がいるからである。 ただ、事態はさらに悪いほうに進んでいる。 「アドバイザー料も認めない」との連絡が今日、入った。 「そんな金を払っているとは知らなかった」のだそうである。 昨年度末に担当の(前)課長と学識経験者の前で「アドバイザー」である自分がプレゼンテーションをして、予算書を確認されながら「このアドバイザー料というのはあなたに払うということなのですね」と言われて、そうだと答えた。「それならかまわない」と言われた。そして、事業を一年やった。 「知らなかった」のだそうである。 もはやただの嘘だ。 他団体の情報を得ようと努力したところ、今年度自分たちが支払ってきた時給以

    やりがい搾取どころじゃなかった - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2018/03/31
    “都道府県の事業でなく、市町村の事業であったならば、もう少し現場の声が日常的に届けられるのであろうけれど。地元の行政はこの件について深く心配し、同情” 女性と子どもは活かし殺すなの国だから、泣
  • 「普遍的なルールを順守させる」責任を背負った教育を観て - 泣きやむまで 泣くといい

    世間ではあまり話題になっていないのだけれど、映画『みんなの学校』をご存じだろうか。 大阪の住吉区にある「大空小学校」の教育を取材したドキュメンタリー映画で、制作は関西テレビ。フジテレビ系列局ではテレビ放送もあった。「平成25年度文化庁芸術祭賞大賞」をはじめ、受賞歴も数多い。 今年2月から全国で順次公開されており、ようやく地元でも上映があったので観に行ってきた。ふだん映画を観ることがほとんどなく、劇場で2時間拘束されることが嫌いな自分がわざわざ足を運んだのは、この作品の評価が「関係者」のあいだであまりに高かったからだ。 ここでの「関係者」とは「障害児」の教育や福祉に関わる人々である。大空小学校とはどんな学校か。公式サイトから引用したい。 大空小学校がめざすのは、「不登校ゼロ」。ここでは、特別支援教育の対象となる発達障害がある子も、自分の気持ちをうまくコントロールできない子も、みんな同じ教室で

    「普遍的なルールを順守させる」責任を背負った教育を観て - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2017/05/31
    「ただ、誰かに理解されることを目的として生きる子どもはいない。自分にとって苦痛を感じることなく安心を得られる環境の中で生きることを求め、それをどのように理解するのかは周囲に課された課題」
  • 「障害者」のリアリティをもって抗いたい - 泣きやむまで 泣くといい

    相模原の入所施設で凄惨な事件が起きた。障害者支援をしてきた者(かつ事業所の経営者)として、考えさせられることが多すぎて、2日のあいだ(職場の中でさえも)コメントできずにいた。 今回、亡くなられた方たちは性別と年齢のみが報じられている。このことについて、朝日新聞のヨーロッパ特派員によるツイートが強く批判されているのを見て、自分たちにとっての課題を少し記しておきたい、と思った*1。 神奈川県警「現場が障害者の入所する施設で、氏名の非公表を求める遺族からの強い要望があった」→匿名発表だと、被害者の人となりや人生を関係者に取材して事件の重さを伝えようという記者の試みが難しくなります。 https://twitter.com/shiho_watanabe/status/758178708859527168 これまで犯罪被害者の遺族に対する執拗な取材が、悲しみに暮れる人々に追い討ちをかけたり、誰のため

    「障害者」のリアリティをもって抗いたい - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2016/07/28
    あなたもわたしも大切な人。そんな当たり前なことが当たり前じゃなくなっているのか。
  • 分かち合える「親の会」の新鮮さ - 泣きやむまで 泣くといい

    不登校の子どもたちの親の会をはじめた。まだまだ緩いメンバーシップなので、元不登校とか不登校予備軍とかいろいろ混ざっているが、とにかくはじめた。 障害児の親の会とは各地で20年ほど関わってきたが、それらはみんな「事業」とともにあった。子どもたちの活動を作り、どこかから資金を引っ張ってくるために組織を作る必要があり、そうしてできた親の会は次第に「支えあい」「分かち合い」から逸れていく。親にしかできないことを絶えずアップデートして事業化できればよいのだろう。しかし「先輩から引き継がれたもの」を更新していくのは、普通の親になかなかできることじゃない。それは「伝統行事」みたいなものだ。受け継がれてきた伝統には逆らえない。 不登校の子どもたちの親の会は、今のところ完全に分かち合いの場としてある。子が学校に通えなくなるまでの経緯、子どもの行動の変化、学校に対する親の思いなど、静かに熱く語られていく。皆が

    分かち合える「親の会」の新鮮さ - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2015/12/20
    学校というシステムが合わないだけで、全人生が終わったみたいに行き場がなくなるってのは想像できないだろうなぁと。子どもも孤独だし、親も孤独だし。
  • 「ボーダー児」と親の孤独を描いたマンガを読んで - 泣きやむまで 泣くといい

    はざまのコドモ 息子は知的ボーダーで発達障害児 作者: 沖田×華,君影草出版社/メーカー: ぶんか社発売日: 2015/12/15メディア: 単行この商品を含むブログ (2件) を見る 偶然に書店で見つけた沖田×華の新作。ノンフィクションコミックエッセイ。原作者である君影草さんが、作に登場する子どもの母親である。ちなみに、原作は『はざまのセイカツ』というタイトルで、ウェブ上に公開されているマンガ。メジャーなマンガ家が描き直す「ワンパンマン方式」とでも言おうか。 障害児の子育てについて親の目線で描いたマンガはこれまでにもいくつかあったと思うが、いわゆる「ボーダー」の子ども(と親)の苦難を描いたものは読んだことがなかった。医学的な診断としては「障害」とみなされないが、学校生活や社会生活上でうまくやっていけない人はたくさんいて、その人たちは境界線上にいるという意味でしばしば「ボーダー」などと

    「ボーダー児」と親の孤独を描いたマンガを読んで - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2015/12/20
    「子どもを通わせている学校とのあいだで親が行き詰ったときの仕組みは何もない」ここ知らない親多いが、恐ろしいぐらいに手がないのに唖然とする。
  • 「子育て支援」の境界を崩す - 泣きやむまで 泣くといい

    ・障害児の親の会と学生たちで行う活動のおつかれさま会。参加が合計40人ちょっとか。 ・おそらくこの種の活動は廃れていく。それは活動の意義がなくなったということではない。ただ、意義を感じにくい時代になっていくだろう、ということ。 ・この活動のファンである保護者は減っていくはず。何もなかった時代には支援とつながるはじめの一歩だった。いまは一歩目になることに失敗している。それを防ぐための手立てはあるのだけれど、危機感自体が皆に共有されない。だから、何の工夫もされない。 ・すでに消極的と思われる保護者がちらほら。親の会役員になっちゃったから、仕方なく。わが子への価値が伝わってこないものから親は離れる。それだけのこと。伝える努力をしなければ、なおさら。 ・夕方のスーパーでカゴを持ったまま、保護者につかまる。まだ若い保護者も、もっと若い保護者とのギャップを感じている。昔から、同じ構図。同じだけれど、質

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  • 「できない」に対する「できる」ではなく - 泣きやむまで 泣くといい

    教育が「教える」のは「できる」ようになることを目指すからだ。何ができるか、の水準はいろいろあるけれど。 ・福祉が「できる」ようになることを目指すことがある。「福祉」にそれを求める親もたくさんいる。 ・支援には目標が大事だと言われる。そして、それを達成したかどうかが問われる。「療育」の「計画」に目標が書き込まれて、「できる」ことを支援者が目指す。 ・支援者の目標は、子ども自身の目標とは違う。とはいえ、子どもの「できる」といつでも切り離して考えられるわけでもない。「余暇を楽しむ」ことでさえ、能力と切り離すのは難しい。 ・「楽しむ」というのは「楽しめるようになる」ということでもある。楽しいから楽しい、ことばかりでなく、楽しいとわかるようになったから楽しい、ということがある。それはひとつの学びだ。 ・「できる」ことが子どもの自信や喜びにつながることがある。「できる」ことが子どもの快適さにつながる

    「できない」に対する「できる」ではなく - 泣きやむまで 泣くといい
  • 「この子は障害児じゃない」が否定するもの - 泣きやむまで 泣くといい

    なんで「この子は障害児じゃない」とか軽々しく保護者に言う「事業所」があるのだろう。さらに親の育て方を責めはじめるとか、自分の理解を超えている。 「障害」を診断のように「客観的」な基準に基づこうとするものとしてとらえずに、個人の主観が入り込むことをひとまず認めるとしよう。その支援者からみて「障害児」でない子どもがいたとして、それを「障害児じゃない」ということにいったいどんな意味があるのか。 事業所に来るのは、親が悩んでいるからであり、子どもが困っているからだ。「障害じゃない」なら当事者の感じている困難さは幻なのか。親は「うちの子が障害児だから支援してほしい」と願っているわけではなく、ただ「困っているから支援してほしい」のである。 にもかかわらず、ただ「困っている」と訴えるだけでは十分な支えが得られずに、あれやこれやと責任を問われる。そこで、支援を得るための根拠として「障害」というラベルを徐々

    「この子は障害児じゃない」が否定するもの - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2015/04/15
    親同士だとこっそり比べっこする部分があるっていうか。それぞれ困り感は違うし、いろいろなタイプがいるんだからと、フラットに受け止めて欲しいんだけどなぁ。
  • 発信・受信できる福祉のために - 泣きやむまで 泣くといい

    ずっと過酷な日々が続いていた。まだ続いている。 1月から新しい事業所を始められた。いわゆる放課後等デイサービス。国が「儲けすぎ」と標的にしており、間もなく公表されるであろう次年度の報酬単価でも何らかの影響が見込まれている事業である。 周辺地域でうさんくさい事業者が次々と放課後等デイを開設する中、収益性が高い支援にしか手を出さない人たちとはいっしょにされたくない思いは今もあるが、法人の今後を考えると既存のやり方ではもう限界だった。これで放課後の支援は経営的に少し改善される、はず。 営利企業なども含めて参入条件はどんどん緩和されていく一方で、建物等への規制は非常に厳しく、地域で事業ができる物件がほとんど見つからなかったことは、たぶん過去にも書いた。土地を借りて、小さな建物でも新築するしかないかと思っていたところ、大きめの建物が広さの割には安く使える可能性が出てきて、それから2年あまり。 助成金

    発信・受信できる福祉のために - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2015/03/02
    「周辺地域でうさんくさい事業者が次々と放課後等デイを開設」 事故を起こしそうで怖い。
  • 支援はデマンドに寄り添うことから - 泣きやむまで 泣くといい

    某所で安井(大友)愛美さんのお話をお聞きしてきた。はるばる北海道から来てくださっての5回連続講座。テキストは以前にも紹介したである。最後は、短い時間だが、トークセッションのようなことまでさせていただけた。主催者には、ただ感謝の言葉しかない。 やはりすごい人だった。何の制度にも支えられずに障害児者の支援をはじめた実践は、相手との関係、社会との関係、自分との向き合い方、すべてをいつも省みながら調整してきておられた。その結果としてたどりついた地点は、ソーシャルワークの教科書に書かれていることであったり、社会哲学としては素朴なことであったのかもしれない。大学でも勉強できることだ。しかし、そこに「経験」から改めてたどりつけるのは容易なことではない。 経験豊かな人間はどこにでもたくさんいるのである。現場で何十年と支援経験を積み重ねている者を見つけるのは簡単だ。にもかかわらず、そのすべてが優れた支援者

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  • 「ちょうどいい責任」だけを背負えない社会で - 泣きやむまで 泣くといい

    自閉症連続体の時代 作者: 立岩真也出版社/メーカー: みすず書房発売日: 2014/08/26メディア: 単行この商品を含むブログ (6件) を見る 一読した後に「自分にとってはそれほどインパクトのある内容ではない」と思ったのだが、いくつかのニュースと世間の反応を見て、やはり意義があるなのだと思いなおした。けっこう時間が経ってしまったのでタイムリーとは言えないけれど、書き留めておきたい。 もう数週間前のことになるだろうか。視覚障害をもつ高校生が白杖につまづいた中年男性に蹴られる事件が起きた。世間の反応は「なんてひどいことを」であった。少しして「蹴られる方にも非がある」という声があがりはじめた。すぐにそのような声に対する批判もまた巻き起こった。 そこに、どうやら犯人がわかった、という報道がなされる。知的障害の男性だったと言う。そして、その後の報道はあまりなされなくなったような印象もある

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  • コンサルからDMが届く福祉 - 泣きやむまで 泣くといい

    先週末に事務所のポストを開けると、透明のビニールに包まれたA4サイズのDMが。捨てるのにビニールと紙の分別だけしようと封を開けて、手が止まる。 ついに障害児を支援する「放課後等デイサービス」の起業や経営改善を促すセミナーの案内がコンサルから届く時代となったのだ。半日でウン万円。ちなみに場所は東京。こちらは関西某所である。受講には合計いくらかかるのだろうか。 ご丁寧にも短めのレポートがついている。もちろん事業の社会的な価値も伝えているものの「うまくやれば儲かりまっせ(大意)」とアピール。単なる「預かり」ではなく、「療育」で付加価値をつけて、他事業所と差別化していくことの重要性を説いている。 ああ、このようにして当事者のニーズから学ぶのではない事業所が増えていくのだな、と思う。 まだ利用者がひとりもいない状態であるのに、毎日の「プログラム」を強調したり、パンフレットのビジュアルがとてもきれいだ

    コンサルからDMが届く福祉 - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2014/08/27
    「ああ、このようにして当事者のニーズから学ぶのではない事業所が増えていくのだな」 ホントにね、もうかる商売にしたがるよね。
  • 誰か教科書を書いてください - 泣きやむまで 泣くといい

    臨床心理学第13巻第4号-特集 対人援助職の必須知識 発達障害のアセスメントを知る 作者: 辻井正次出版社/メーカー: 金剛出版発売日: 2013/07/10メディア: 単行(ソフトカバー)この商品を含むブログ (1件) を見る発達 第131号 特集:子どものためのアセスメント 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房発売日: 2012/07メディア: 単行この商品を含むブログを見る小児内科 2013年 08月号 [雑誌] 出版社/メーカー: 東京医学社発売日: 2013/08/08メディア: 雑誌この商品を含むブログ (1件) を見る子どもの理解と支援のための発達アセスメント (有斐閣選書) 作者: 郷一夫出版社/メーカー: 有斐閣発売日: 2008/08/04メディア: 単行 クリック: 9回この商品を含むブログ (4件) を見る発達障害者支援とアセスメントに関するガイドライン(アス

    誰か教科書を書いてください - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2014/06/15
    「障害児者と関わる福祉職は、大部分が「発達」について学んだことがない」 そうなんだ。
  • 親の遠慮にも配慮してほしいとは思うけれど - 泣きやむまで 泣くといい

    学校には連絡帳というものがある。仕事上、しばしば目にする。 自分が子どものとき、親と教師の間でどんなやりとりがなされていたのか、ほとんどもう記憶がない。いま小学校などで一般的にどんな使われ方をしているのかもよく知らない。それでも言えることとして、障害をもつ子どもの親にとって先生と交わす「連絡帳」の意義というのは、一般的なそれよりも大きなものではないかと思う。 なぜなら、帰宅後に学校での出来事を話せる子どもばかりではないから。そんな報告ができるのは、むしろ少数派だろう。報告やコメントというのは高度なスキルが求められる営みであって、とりわけ言葉をもたない子どもにとっては難しいコミュニケーションである。 学校でどんな授業があって、子どもがどう学んでいるのか。連絡帳に書かれている内容が親にとっての数少ない情報源となる。連絡帳は一方向的なものではなく双方向のものであるから、熱心な保護者は家での出来事

    親の遠慮にも配慮してほしいとは思うけれど - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2014/06/11
    情報の共有と管理と、その評価みたいなのを、きちんと先生も学んだ方がいいんじゃないかなぁ。変な話、アラートの場合は赤で丸く囲うとか、互いにサインを決めておいてもいい気がするなっと。
  • 差別を生むから「障害」を「症」に、ではない - 泣きやむまで 泣くといい

    「障害」を「症」に 精神疾患の新名称公表(産経新聞) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140528-00000557-san-hlth この記事は、精神神経学会の発表内容をだいぶ略していて、誤解を招く。以下に日語訳の全文と検討経緯の説明がある。 DSM-5病名・用語翻訳ガイドライン https://www.jspn.or.jp/activity/opinion/dsm-5/index.html#maintitle 説明には、こうある。 病名・用語を決める際の連絡会の基方針を以下に列挙する. 1.患者中心の医療が行われる中で,病名・用語はよりわかりやすいもの,患者の 理解と納得が得られやすいものであること, 2.差別意識や不快感を生まない名称であること, 3.国民の病気への認知度を高めやすいものであること, 4.直訳が相応しくない場合には意訳を考え

    差別を生むから「障害」を「症」に、ではない - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2014/05/29
    「「自閉」という言葉に世間が抱くイメージと、特性との間にあるギャップのほうがずっと深刻では」 これは思う。「個性」ではなく、「特性」として配慮が必要な時など、説明に苦労する。
  • 「親たち」が自由になるための本 - 泣きやむまで 泣くといい

    の紹介をしたい。著者は「障害のある子の親」であるが、以下に書くことは少しだけ読み替えれば「障害児者の親」に限らず「親」一般にも当てはまる部分が多いだろう。書名が「障害のある子の親である『私』」ではなく、「障害のある子の親である『私たち』」となっているのはちゃんと理由がある。著者がつけたのか出版社がつけたのかはわからないが、ここに込められた大事なメッセージこそがこのの大きな価値だ。 障害のある子の親である私たち 作者: 福井公子出版社/メーカー: 生活書院発売日: 2013/09/15メディア: 単行(ソフトカバー)この商品を含むブログ (3件) を見る 障害児者の親が書いたは他にもたくさんある。親が書いたに救われた経験をもつ親もいる。 子どもを産み、育てる過程での不安、ショック、悲嘆、自責。それらはひとりで抱え込むにはあまりに重く、誰かの支えを必要とする。自分のような支援者もその

    「親たち」が自由になるための本 - 泣きやむまで 泣くといい
  • 子どもにとって集団ってそんなによいものだろうか。 - 泣きやむまで 泣くといい

    公園で子どもたちと全力の鬼ごっこをする。もちろん仕事で。 もう何年も続けてきているのだが、自分が主に関わっているのは特定の支援が必要な子どもである。年月が経つにつれて、周囲の環境は変わる。特に「お友だち」の顔ぶれは変わっていく。 公園でいっしょに遊んでいる子どもたちの中に「発達の気になる子」は他にもいて、うまくいけばみんなが正しく人との関わり方を学べる場になる反面、下手をすると互いに傷つけたり傷つけられたりするコミュニケーションが加速していく。 低学年のうちは同級生の集団でうまいぐあいにやれていたが、多くの子どもは年齢があがってくると公園では遊ばなくなる。自分の印象では、年齢があがってきたのに公園で遊び続けている子どもの中に「気になる子」は多い。発達の凸凹が見られることもあるし、家庭環境の問題が垣間見えることもある。 「気になる高学年」と「その他たくさんの低学年」が交わるようになってきたの

    子どもにとって集団ってそんなによいものだろうか。 - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2014/04/09
    就学前はむしろ集団で育つのメリットはある印象で、高学年になると周囲の育ちの速さに追いつけなくなって、まさにこの状態に陥る子は多いのでは。ロールモデルになりそうな子がバディになってくれるといいんだけど。
  • 「おそれを知って、できなくなる」という成長 - 泣きやむまで 泣くといい

    「できていたことができなくなってしまうこと」は、一般にはあまり肯定的に捉えられない。 なぜできなくなったのか。およそ人間の能力というのは若いあいだ、伸び続けるか、せいぜい横ばいであると思われていて、できなくなるのは「老い」や「障害」の負の側面と理解されているのだろうと思う。 ところが、若いうちにも「できていたことができなくなってしまうこと」はある。障害をもつ子どもたちと関わっていれば、しばしば直面する事態なのだけれど、もっと普遍化することだってできるのかもしれない。「新たな体験へと踏み出していくことができなくなった」とか「挑戦する意欲がなくなった」とか言えば、多くの少年や青年にとっても耳慣れた話なのではないか。 さまざまな脳機能の障害の中には、実際に「かつて獲得していた能力が失われる」ためにできなくなってしまうケースがあって、それを前向きにとらえていくのはなかなか難しいことである。しかし、

    「おそれを知って、できなくなる」という成長 - 泣きやむまで 泣くといい
    kaerudayo
    kaerudayo 2014/04/03
    「口々にアピールしあうよりも前に、自分に何ができないのかを「自信のなさ」としてではなく「自分の力を正しく理解できるようになった結果」として語れるようにしていくところからはじめたほうが」いいのではないか
  • 白黒つけずに揺れ続けることのススメ - 泣きやむまで 泣くといい

    の紹介をしたいのだが、はじめに少しだけ説明がいる。 今から10数年前、障害児の地域生活を支える仕組みというのはほとんど無いに等しかった。切羽詰まった親や福祉関係者、ボランティアなど危機感を抱いた人々は各地で取り組みをはじめる。もちろん持続可能な運営を続けていくのは簡単ではない。 そのうちに一部の自治体が脆弱ながらも仕組みを作りはじめる。公費が入れば、自由な支援はできない。制度上でやってよい支援とやってはいけない支援が生まれる。わずかばかりの金をもらうがための代償を感じながら、それでも何もない時代よりは前進しているのだと自らを納得させながら支援は生み出されていった。 そのような中、北海道で一切の公費を受けずに障害児の支援をするところが現れた。入所施設を飛び出した女性が作ったのだと言う。あっという間に有名になった。その名は『ぴっころ』。時間あたりの単価を決め、あとは利用者がスタッフをどのよう