納豆好きとかいってるくせに、好きな納豆の種類も無いやつ。 A「俺さー納豆好きなんだよね」 私「どんな納豆が好きなの?」 A「どんなって、普通なのだよ」 私「普通って、例えば?」 A「普通は普通だよ……おかめ納豆とか?」 はい、でたー。おかめ納豆でましたー。なんだよ、おかめ納豆って。 ラーメン好きな奴が好きなラーメン聞かれて日清カップヌードルが好きですっていうかー? 納豆の知識をまともに深化させていく気もねえ、何となくスーパーで納豆買ってるだけの 意識が低い納豆好きは納豆好きを名乗るなよ。
![意識の低い納豆好きが嫌い](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/b1638cdb5807a4788e4ba3c1109a984166e095fc/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fanond.hatelabo.jp%2Fimages%2Fog-image-1500.gif)
わたしはとにかく句点が嫌いだ あれを文中に用いることは、文章を作り上げることに対する怠惰だと思っている 一つのことを表現したければ潔く一つの文章を作り上げるべきであり、それを疎かにするようにすました顔で現れる句点をみていると本文の内容にかかわらずそれだけで筆者の底が知れてしまうような気になってしまう 長い文章を、それでいて読みづらくなくすとんと頭に入ってくるようにリズムよくつむぎ出せることが文章力なのではないか 当然表現方法の一つとして否定するわけではなく、ここぞという時に今までの流れの一切を断ち切るようにあらわれる句点の使い方には頭が下がる わたしが言いたいことは、終わりもしない、変化もしない文章のつながりにあらわれる句点がどうしても許せないということだ 大げさな話をすれば、句点を打つということはその文章の流れに死を与えるものと同意なのだ その覚悟なく、水気とコシのないそばのようにぶつぶ
一匹狼といえば聞こえがいいが、ただの部下無しのひとり営業課長なので比較的自由に行動が出来る。その自由を活かして営業活動中、時間が空いたとき、折を見て実家の様子を覗きに行っている。僕のマンションから車で30分もかからないところにある実家で70才になる母親はひとり暮らしをしている。超高齢化社会を迎えているせいか、最近、一人暮らしのお年寄りを狙った犯罪のニュースを見かけるようになった。そんなニュースを見るたびに僕は不安でたまらなくなる。母親は、幸いなことに持病もなく健康だが年齢も年齢、万が一が今日明日にでもやってくるかもしれない。僕がたびたび実家に立ち寄るようにしているのは母親が心配だからであり、自分の不安を緩和するためでもある。 四六時中見守ることは不可能なので、万が一のときや不測の事態には間に合わないだろうことはわかっている。警備会社と契約もしているけど万全ではないだろう。この世界に完璧なも
ネット上では、結婚生活がいかに馬鹿らしいか、夫や妻がいかにひどいか、という文章で溢れ返っている。まぁネットの性質を考えたら、それはそれでしょうがないと思う。だって何かを貶すのって、超楽しい。ストレス下に亢進した攻撃性を、現実世界ではなくネット上で解消するのは、むしろ適応的な行動とも言える。 それに比べて幸せ自慢なんて他人を不快にさせるだけなので、良識をわきまえた人間なら、ネット上だろうとどこだろうと、幸せトークをむやみやたらと披露するべきではない。みだりにのろける人間は、今すぐ永遠に止まらない下痢に襲われるべきなのである。 まぁとは言え、たまにはそういう幸せ自慢なエントリーがあってもいいんじゃないか。それによく考えてみれば、ネットに良識なんか不要であろう。好き放題のろけて他人を存分に不快にしてやれば、自分のストレスも解消されるというものである。 というわけで、以下に自分の妻の素敵な点を挙げ
天皇陛下は、新年にあたって文書で感想を表されました。 その全文は次のとおりです。 昨年は大雪や大雨、さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ、家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。 また、東日本大震災からは四度目の冬になり、放射能汚染により、かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。 昨今の状況を思う時、それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ、地域を守っていくことが、いかに重要かということを感じています。本年は終戦から七十年という節目の年に当たります。 多くの人々が亡くなった戦争でした。 各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切な
文中に、「好き」とか「愛してる」などの直接的な言葉が1つもないのに、読めばこれ以上ないほどの想いと気持ちが伝わってくるのが凄いです。 また、この時代(大正)に「まぶたをそっと撫でてあげる」なんていう表現を使うところもまさに文豪の極みです。 文ちゃん 先達は田端の方へお手紙をありがとう。(中略) 会って、話をする事もないけど、唯まあ会って、一緒にいたいのです。 へんですかね。 どうもへんだけれど、そんな気がするのです。 笑っちゃいけません。 それからまだ妙なのは、文ちゃんの顔を想像する時、いつも想像に浮ぶ顔が一つ決まっている事です。 どんな顔と云って云いようがありませんが、まあ微笑している顔ですね。(略) 僕は時々その顔を想像にうかべます。 そうして文ちゃんの事を苦しい程強く思ひ出します。 そんな時は、苦しくつても幸福です。 ボクはすべて幸福な時に、一番不幸な事を考へます。 そうして万一不幸
俺の親父はドケチだった. とにかくドケチだった. 口を開けば「カネがない」とグチった. 貧乏だった. お袋は貧乏が嫌で俺を置いて出て行ったらしかった. 食う物と言えばパンの耳,着るものと言えばボロ雑巾みたいな古着だった. ガキだった俺は友達が持っているスーファミが羨ましくて親父にせがんだ. 帰ってきたのはゲンコツだった. そんなカネねえ,と. ドケチなクソ親父め. でも俺はあきらめなかった. キャラクターをテレビの中で自由に動かせるのに,熱中していた. 根負けしたのか,なんとかしてやると言い出した. 俺は興奮で眠れぬ夜を過ごした. 翌週親父が持ってきたのは,中古のPC98だった. どうやら友人から譲ってもらったらしい. なんだか嫌な予感がしながら電源を入れたら,文字しか出てこねぇし,なにすりゃいいのか分からないし, まさに「コレジャナイ~」と泣きながら手足をバタバタさせてダダをコネたい気持
私は身長140cmちょうどしかなく、会社の上司や同僚に 「ちっちゃくて可愛いねー」とよく言われます。 私はちっちゃくないと可愛くないというふうに捉えてしまい、いつも憂鬱になってしまいます。 けれど、本当はちっちゃい自分が大好きなんです。 プライベートでは、小学生のコスプレをして街を歩いています。 ランドセルを背負って街を歩いているときは、とてもとても「私って可愛いなあ」という気持ちでいっぱいになります。 なので、恋人も小学生みたいに小さい女の子がいいと思っています。 もしくは、小学生と付き合いたいです。 女同士なら別に問題ないですよね? どうやったら、小学生と出会えますかね? オフ会にいけばいいですか?
ブロッギン・エッセイ~自由への散策~アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』) 「みんなちがつて,みんないい」という,金子みすゞの詩の有名な一節を書道家の人に書いてもらって,昨年3月までやっていた塾の玄関すぐの応接間兼事務所にずっと飾っていた。4,5年は飾っていただろうか。一人ひとりを大切に教育するという塾の方針にもピッタリだと思ったし,ちょうど金子みすゞの詩は小学中学・国語の教科書にも掲載されていたこともあり,それ以上のことは深く考えていなかった。が,思慮が浅かった。とんでもない取り違い,というか過ちを犯してしまっていたのだ。 当時は何らのクレームもなく,むしろ塾のイメージ・アップに貢献していたかもしれなかったと,今の今まで自分の中では何の疑いも抱いていなかった。ところが
宗教の根源は、自分の劣悪な肉体を呪わしく思うことである。肉体は感覚を生み出す装置であり、快楽と苦痛の発生源だが、たいていは苦痛の方が多いので、生きる悩みは深いのである。特に医学がない大昔の世の中では宗教に頼ったに違いない。業病を患い床に臥せる人間は肉体を呪うが、決して肉体が根絶やしになることを願っているのではなく、病に蝕まれた肉体が発する塗炭の苦しみから逃れたいだけである。本当は健康になりたいのである。多くの人間にとって、自分の肉体は理想的ではなく、その劣悪な肉体が原因で現実から掣肘を食らわされる。ハイスペックで健康な肉体を手にするという僥倖に見舞われなければ、身体に疼痛と苦悩が繁茂し、深く根を張り、生き生きとした世界から疎外されるのである。 グノーシス主義やカタリ派がキリスト教の異端とされるのは、肉体というものを物質的な悪の牢獄と考え、いずれ精神はその肉体から逃れ、非物質的な天国に行くべ
今にも離婚してしまいそうな夫婦。妻は夫に、彼女を毎日抱き上げるように求めました。文章はSnopes.comさんのものを和訳させていただきました。拙劣な文章ですが、最後まで読んでいただけると幸いです。 ※3/14追記:エンタメウス読者の方から「引用文が途切れている」とのご指摘を頂き、修正いたしました。ありがとうございます! また、誤字を修正いたしました。 離婚の条件は「最後の1ヶ月は毎日私を抱きかかえること」When I got home that night as my wife served dinner, I held her hand and said, I've got something to tell you. She sat down and ate quietly. Again I observed the hurt in her eyes. その晩、家に帰ると妻が夕食の
処女じゃなくなったけど、処女じゃなくなったことよりも勃起している男性器を生で見たことの方が印象的だった! 処女じゃなくなるっていうのは、もっと感慨深いものなんじゃないかと思っていたけど、勃起をはじめて見るほうが圧倒的に衝撃が強いとは…。まあ、「処女じゃなくなる」には新たな情報はないけど、勃起した生の男性器は新たな情報の塊だからなあ…。 ただ普通の状態から勃起していく過程を見損なってしまったから、家に帰ってから動画サイトで検索して、どこかの男性が自分撮りしている勃起過程動画を見たよ。インターネットってすごいね。 非童貞の人が、童貞を捨てても童貞だった頃みたいな卑屈さから進歩できない、性格も暗いままだしリア充になれない…と嘆いている文章を何度か見かけたから、私もそういう虚しさとか感じるのかと思ったけど、全然そんなこと無かった。 むしろなんで童貞を捨てても暗い気分なのか全然わからない。一生セック
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 今日は(俺的には)週末なのですごく忙しかった。 のに、なんだかふと今まで長い間放置してたmixiが気になって、あんどろいど用のアプリを落として、超久々にログインしてみたら、すっかり変わってて驚いた。俺の大っきらい!大っきらい!大っきらい!なツイッターのつぶやきも反映されてて、ショック! ツイッター中毒の人ってさ、イラン大統領選をめぐる暴動でツイッターが果たした功績がーとか、今だってエジプトでー、とかもっともそうな事言うくせに、いざ自分のつぶやきはと言うと、ファミチキ買ったwとかさ、おはありとか、ただいまー!とか言ってるだけで1ミリも誰かの役に立つつぶやきなんてしたことないじゃん。何が革命だよ。ふざけんなよ。そんなのは言葉じゃなくて、ただのノイズだろ?もう一回言うけど、おまえのつぶ
わたし的棚ぼた一万円選書 急に千葉さんに手渡された封筒、開けてみたら1万円札が1枚。何ごとかと思えば、同期の出張を代わったお礼をもらったらしい。 「葵はワンオペで育児してくれたから」と半分わけてくれました。 泡銭の1万円 これはもう、わたし的1万円選書をしろという思し召しなのでは……
最近、「了解」は失礼だという説が出てきているようです。 どこの誰が言い出したのか知りませんが、ごく最近であることは確かです。 少し前のマナー本には、そんなことは書いてありません。 たとえば、2003年のこれだけは知っておきたい! 改訂版 ビジネス・マナーハンドブックには、次のようにあります。 しかしそうしたルールができていない社外の人からのメールを受信したときには、「メール、受けとりました」「その件、了解しました」など、簡単でよいからすぐに返信し、… また、2005年の「こんなことも知らないの? 大人のマナー常識513」というマナー本には、次のような記述があります。 内容に疑問のあるときにはその点を記して送信しますが、そうでなければ「メール拝見しました。○○の件は了解しました」などと簡単な返信でかまいません。 しかし、2008年の「信頼される社会人へのパスポート敬語検定」*1には、次のよう
最近リザヴェータは家の空気が変わったと感じていた。リザヴェータは17歳だが大学生なので、大学のある日は学生寮にいるのだが、大学が休みの日は実家にいる。今までであれば、リザヴェータが実家に戻ると、カチェリーナが姿を現すことが多かった。まるでリザヴェータの帰宅を待ちかまえていたかのように、廊下の向こうからカチェリーナがやってくるのである。一日中カチェリーナのことを考え、カチェリーナに心酔し、カチェリーナの絵ばかり描いているリザヴェータとしては、これがとても嬉しかったのである。しかし最近はカチェリーナが近寄ってこない。帰宅時に出迎えないだけでなく、リザヴェータの部屋にもやってこない。それではカチェリーナがどうしているかというと、妹のグルーシェンカの御機嫌取りをしているのだ。以前はこのふたりは仲睦まじいわけでもなく、お互いをリスペクトしつつも反発しているような関係だったのだが、このところは妙にベタ
リザヴェータがカチェリーナをモデルとして描いた絵は、予想以上の高い評価を得て注目を集めていた。写実的な画風でカチェリーナの裸体を描いたため、興味本位で見られる部分も大きかったが、話題を呼んでいるのに間違いはなかった。このリザヴェータの成功を複雑な想いで眺めていたのが妹のグルーシェンカである。リザヴェータとグルーシェンカは天才姉妹として評判であるが、グルーシェンカはこの大好きな姉の才能が花開くのを喜べないのである。グルーシェンカは懺悔室に向かうような気持ちでカチェリーナの部屋を訪れた。 「実はわたしは今まで誰にも話してないことがありまして」 グルーシェンカが切り出すと、ベッドに寝転がっていたカチェリーナが半身を起こした。いつ見てもグルーシェンカはその金色の髪の美しさに打たれるのだが、今はひときわ悲劇的な輝きを持っていた。リザヴェータが描いたカチェリーナ像と実物のカチェリーナが美しさを競い合い
生まれてから家族に愛されることもなく、友達もいないカチェリーナだったが、ようやくソーネチカという素晴らしい友達が出来たのだ。もう孤立した自分に引け目を感じて登校する必要もなかった。それこそ有頂天で鼻高々に通学することが出来るのである。授業中に後ろからソーネチカを見ているだけで眼福の至りだった。ソーネチカは決して絶世の美少女というわけでもなく、特別な秀才でもなかった。ありがちな優等生である。しかし、ガサツなところが一欠片もなく、世界の細部まで注意力が行き渡っている。これこそカチェリーナの求めていたものだった。見ているだけで心臓が早鐘を打つような気品ある少女が友達になってくれたのだ。 放課後になると、ソーネチカがカラオケに誘ってくれた。他の三人の仲間と連れだって、学校の近くのカラオケボックスに入った。カチェリーナはこういう学校生活に憧れていたわけである。名門お嬢様学校に入っても、その可憐な少女
子育てハラスメントってないの? http://anond.hatelabo.jp/20130922230538 ハラスメントだ!と騒ぐ人の論理子育ての写真 → 子宝に恵まれない私へのハラスメントか! ディナーの写真 → アレルギーに悩む私へのハラスメントか! 仕事の話題 → 就職に失敗した私へのハラスメントか! デザインの話題 → 色弱の私へのハラスメントか! 車の写真 → 交通事故で後遺症を負った私へのハラスメントか! 幸せな人の論理子育ての写真 → 子宝に恵まれなかった私にかわって、がんばってほしいね! ディナーの写真 → 私はアレルギーで食べられないけど、楽しそうな食事でなにより! 仕事の話題 → 私は就職に失敗しちゃったけど、お仕事も大変だよね。がんばってね! デザインの話題 → 色弱でデザイナーの道を諦めたけど、やっぱりデザインっていいものだね! 車の写真 → くれぐれも気をつけ
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