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2018年4月30日のブックマーク (10件)

  • 土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑩|高野寛のnote

    その10:坂龍一ワールド・ツアー - part3 無事国内ツアーを終えた一行は、香港・ヨーロッパの旅へと飛んだ。 日からずっと一緒にやってきた坂龍一バンドのメンバーは、イギリス人のバイオリニスト エバートン・ネルソン、オランダ系ニューヨーカーのベーシスト クリス・ミン・ドーキー、NY生まれのボーカリスト ヴィヴィアン・セサム、ブラジル系ニューヨーカーのパーカッショニスト バルティーニョ・アナスターショ、そして日人DJ&キーボーディストの森俊彦(ajapai)、と僕。共通語は英語音楽。 かつてトッド・ラングレンのスタジオでレコーディングしたときは、2度とも常に通訳が帯同していたので、ほとんど英語は話さなかったし、話せなかった。坂さんのツアーも国内にいる間は、あまり英語の輪には参加できなかったのだが、国内ツアーの後は通訳の同行はなく、メンバーと英語で話さなければいけない時間が圧倒的

    土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑩|高野寛のnote
    kahki
    kahki 2018/04/30
  • 土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑨|高野寛のnote

    その9:坂龍一ワールド・ツアー - part2 思いがけない展開から、坂龍一ワールドツアーのギタリストに大抜擢された高野寛。しかし、その大役は決して当時の実力に見合ったものではなく、長い試練が始まる。 まず、曲の複雑さ。坂さんの曲に使われているコードは、一般的なコードネームでは書き表せない独特な響きを持っているものが多い。元来「コードネーム」はジャズから派生した軽音楽の概念だが、クラシック・現代音楽を経て独自の世界を描く坂さんのハーモニーのセンスはその範疇からは大きく逸脱しているのだ。原曲にはギターの入っていない曲も多く、限られた知識とテクニックしかない自分のプレイをどうやってアンサンブルとして成立させるか、その解析に相当な時間を費やした。つまり、リハーサルの前の予習が大変だった。 「Sweet Revenge」の大きな特徴は、ヒップホップの大胆な導入とブラジル音楽の要素が取り入れ

    土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑨|高野寛のnote
    kahki
    kahki 2018/04/30
  • 土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑧|高野寛のnote

    その8:坂龍一ワールド・ツアー - part1 ※いつのまにかソリトンから離れた話題になってますが。このあたりのことは詳しく語ったことがなかったので、忘れてしまう前に記録しておきます。それは、アクシデントだった。 1994年のある日、寝耳に水のオファーが飛び込む。 「坂龍一ワールド・ツアーのギタリストをやりませんか?」 経緯はこうだ。 坂龍一さんは1994年にアルバム「Sweet Revenge」を発表し、国内13、香港・ヨーロッパ13のツアーを敢行することになっていた。ところが、予定していたブラジル人ギタリストの就労ビザの申請に何らかの問題があって、ビザが発給されないことがリハーサルの直前に発覚、来日できないことが判明。このままではツアーができない、でも、代役は誰に? 緊急会議が開かれ様々な案が出された。その中であるスタッフの口からこんな発言が飛び出したという。「高野寛はどうで

    土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑧|高野寛のnote
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    kahki 2018/04/30
  • 土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑦|高野寛のnote

    その7:僕と教授とテイ君のこと - part2 「土曜ソリトンSide-B」開始から遡ること一年前の1994年。この年、高野寛の活動はそれまでのポップシンガーとしての枠から大きく逸脱してきた。 まず、坂龍一さんのソロアルバム「Sweet Revenge」へのヴォーカルとギターでのゲスト参加。そしてテイ・トウワ君の「Future Listening !」のギタリストとしての参加。この2つの録音は東京で行われた。当時ADATというVHSテープを使ったデジタル録音の機材が開発されて、国境を越えて録音することのハードルがずいぶん下がったという背景もあった。それまでは何㎏もあるマスターテープを運ぶことでしか出来なかった国境を超えたレコーディングが、ヴィデオテープの郵送でも可能になったのだ。 テイ君の「Luv Connection」の録音の時、スタジオにはレンタル楽器のコーラル・エレキシタールが用意

    土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑦|高野寛のnote
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    kahki 2018/04/30
  • 土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑥|高野寛のnote

    その6:僕と教授とテイ君のこと - part1 その日、「土曜ソリトンSide-B」の収録現場は、それまでとは違う緊張感と興奮に包まれていた。坂龍一さんがゲストでやってくるのだ。 坂さんの出演した回のサイドBはそれまででもっとも高い視聴率を記録した。番組中、カラオケでは水原弘の「黒い花びら」を歌うというレアなエピソードが坂さん自らの口から語られると、翌日の某全国紙朝刊の「天声人語」的なコラム(実際にどの新聞だったかは失念)に「坂龍一のカラオケの十八番は「黒い花びら」だと知る」という一文が載せられ、その影響力の強さに驚いた記憶がある。 他のチルドレン同様、僕も「YMOの通信教育を受けて育った」話は前回も触れた。その「教育」の中心人物は文字通り「坂教授」だったのは間違いない。(そして21世紀の現在もETVでは「schola 坂龍一 音楽の学校」が続いているのだ)「YOU」の流れを汲

    土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑥|高野寛のnote
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    kahki 2018/04/30
  • 土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑤|高野寛のnote

    その5:ETVYOUYMO 「土曜ソリトンside-B」の放送は毎週土曜、午後10時からの45分だった。 そういえば「虹の都へ」のヒットのきっかけになった「ねるとん紅鯨団」(番組中のCMで繰り返し曲が流れた)も土曜の夜の番組だった。 NHKアーカイブスの解説ページによれば、土曜の夜の教育テレビ(現・Eテレ)は、ず〜っと「若者向け番組」の時間帯なのだそうだ。 http://www.nhk.or.jp/archives-blog/genre/variety/8287.html 10代、20代の若い世代に向けた番組の系譜は、1962(昭和37)年にスタートした『若い広場』(62年4月~66年4月、69年4月~82年4月・教育テレビ)に始まる。『若い広場』は、若者の生き方を通して時代に迫り、芥川賞受賞直後に出演した村上龍や、スタジオの音作りをテレビで初めて公開したオフコースなど、『若い広場』なら出

    土曜ソリトンSide-B : あれから20年⑤|高野寛のnote
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    kahki 2018/04/30
  • 土曜ソリトンSide-B : あれから20年④|高野寛のnote

    その4:相変わらずさ 1995年3月。阪神・淡路大震災から2ヶ月後、日を揺るがす大事件がまた起きた。 3月20日 - オウム真理教によって地下鉄サリン事件発生。13人が死亡、5,510人が重軽傷。 僕が契約していた東芝EMIは当時港区・溜池にあって、通勤中に被害にあった社員の方もいた。オウム部のビルもよく通る道沿いにあったので、報道陣が何ヶ月もビルの周りを取り囲んでいたのを今でも思い出す。事件がごく身近なところで起きてしまったことに驚きを禁じ得なかった。テレビも新聞も、オウム一色に塗られた。 あの頃も今も、大きな出来事の後には、テレビは取り憑かれたようにそのことを追いかけていく。20歳くらいから精神世界や宗教に関心を持って学んできた自分には、映像の力に無自覚な報道や、恣意的に編集されたワイドショーからばらまかれる「毒」がきつくて、テレビを観ることができなくなってしまった(ちなみに、今ま

    土曜ソリトンSide-B : あれから20年④|高野寛のnote
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    kahki 2018/04/30
  • 土曜ソリトンSide-B : あれから20年③|高野寛のnote

    その3:All over, Starting over 1995年1月。僕は月〜金でドラマの撮影をしながら、土・日でレコーディングをしていた。準主役、初めての演技、しかも運動が苦手な自分が、時にバイクに乗ったり(もちろん二輪免許はないので、バイクを降りるだけの演技をしたらあまりのぎこちなさにスタッフから苦笑が漏れて、それ以降は却下された)スポーツカーを駆る(急ブレーキで停めるシーンなどはスタントマンが代わりに)。そんな悪役を演じるという無理難題。 シリアスなプロットと常に張り詰めた空気の撮影現場。忙し過ぎて誰にも会えず、毎日必死で台詞と動きを覚え、自分なりに「役作り」していた。日は震災後の悲しみと不安に染まっていたけれど、さいわい友人・知人の無事が確認できた僕の日常はまた違った意味で、極めて不安定で特殊な、悲しんでいるヒマなんかない状況に置かれていた。 ずっと自分のイマジネーションだけを

    土曜ソリトンSide-B : あれから20年③|高野寛のnote
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    kahki 2018/04/30
  • 土曜ソリトンSide-B : あれから20年 ②|高野寛のnote

    その2:激しい時 ソリトンSide-Bの始まる直前の1995年1月〜3月、とにかく激しかった時代。番組の思い出を語る前に、あの頃のことを思い出してみる。記憶がかすれてしまう前に。 1月17日 - 午前5時46分「兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)」発生。 1995年1月17日火曜日午前11時過ぎ、僕は寝坊してあわてて身支度をして、外苑東通りを西麻布方面に向かって走っていた。事務所でTHE BOOMの宮沢和史くんからの電話に出て「いいとも!」と答えるために。 21世紀初頭まで「笑っていいとも」の友達の輪は、あたかもその場で友達に電話する体で進行していたが、そこはバラエティのお約束。実際は何人か先までスケジュールが決まっていて、あくまでその場でいきなり電話をする「ふり」をしていただけ。(でなきゃ、あんなにうまく次の人に繋がるはずないわけで) テレビを見る習慣がなかったので、そのとき関西で何が起

    土曜ソリトンSide-B : あれから20年 ②|高野寛のnote
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    kahki 2018/04/30
  • 土曜ソリトンSide-B : あれから20年 ①|高野寛のnote

    その1:プロローグ 「ソリトンSide-B、観てました」 いままで何度この言葉を聞いただろう。 『土曜ソリトンSide-B』は1995年4月から一年間、NHK教育テレビ(弦・Eテレ)で放送されたバラエティ。僕は緒川たまきさんと2人で司会を務め、毎週エンディングで弾き語りをした。「1年間だけだったんですか? もっと長かったと思ってました」と、これも数えきれないくらい何度も聞いたことば。 タイトルの「Side-B」は「レコードのB面」に由来している。「シングル盤のB面には埋もれた名曲が多くある。そんな、物事のあまり表に出てこない側面に光を当てて掘り下げる番組」たしか企画書の冒頭にそんな文言があった。 今でこそ「サブカル」という価値観は広く認知されているけれど、1995年当時はまだインターネット普及前、CSもなく、BSはWOWOWとNHKしかない時代。全国津々浦々まで届くNHK地上波の影響力は今

    土曜ソリトンSide-B : あれから20年 ①|高野寛のnote
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    kahki 2018/04/30