教育を手段か目的かと考えるとき、それを自分にとってのもの・あるいは自分の子供にとってのものというふうに個人的な立場で考えると、個人にとっていいものという価値判断的な要素が入ってくる。そうすると、手段というのは何か価値的には貶めてしまうように感じるので、教育そのものが価値をもつような目的的なものとして捉えたくなるのではないかと思う。 しかし個人を基礎にして物事を考えると、個人によって感じ方の違うものは主観に左右されてしまい、客観的な判断というものが出来なくなる。科学的に扱うことが難しくなってしまう。教育を目的として捉えた場合、ある個人にとってはいいものが、別の個人にとっては最悪のものになる可能性もある。特にイデオロギーに支配された思考から目的が決まってくるような教育はその傾向が強くなるだろう。 これは右でも左でもそれほど違いはない。右にとっていいものである日の丸・君が代も、その押し付けを最悪
二つの被爆地の平和教育に大きな違いが出ている。 「8月6日が何の日か知っている人は?」 広島県内の小学校で、教師の問いかけに手を挙げたのは、東京から来た転校生だけだった――昨年、この転校生から母親が聞いたエピソードだ。 投下日時知らぬ児童半数 広島に原爆が投下された1945年8月6日午前8時15分。広島市教育センターの2005年の調査で、この日時を答えられない広島市内の小学生(4年生以上)が50・4%、中学生でも32・4%いた。調査は95年から5年ごとに行われ、初回は小学生44・3%、中学生25・3%。2000年には、小学生が64・8%、中学生も37%に増えた。 調査結果に危機感を持った市教育委員会は、具体的な教科に即した「平和教育の指導資料」を作り、昨年ようやく、8月6日を意識させる登校日を設けるよう、各校に通知を出した。 6日を登校日にしたのは、前年度までは10校足らずだったが、昨年度
学問の世界にも科学主義がある。学問の世界で科学主義はいいことだと思う人がいるかもしれないが、学問の社会性という視野を欠いているので、その見地は汚染されているとみるのが普通の見方だ。 同様に、教育にもその見地をほとんどそのまま引き継いだ科学主義がある。これはいろんな形で現れる。本日は、その一つについて。 食育と称する教育が推進されている。そこで、農文協が食育の試みに補助金を出す制度がある。学生がこの応募書類を持ってきた。 その説明やこれに応募する側に、典型的な科学主義がある。 食物の栄養バランスを子どもに教えるプログラムを考えることになっている。 あくまで、三食バランスよく食べる栄養学的な根拠を教える、それだけなのだ。 食品の安全性、不規則な食事となる社会的原因、食料生産が環境破壊をもたらしていることなどは、視野の外に置かれている。だから、リアリティに欠ける学習となる。 すると、最後は、上記
5月11日に開催された教育再生会議合同分科会の「議事次第」が本日(5月14日)夕刻、HPに掲載された。 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/goudou/1gijisidai.html しかしそのHPには肝心の「第2次報告(骨子案)」が掲載されていない。 「親学」について馬鹿な提案をしようとして、官邸から、そして文科大臣からも批判され、取り消したという曰く付きの骨子案である。 内容があまりにもひどくて国民には公表できないのであろう。このような秘密主義の中で井戸端会議、放談が行われ、教育政策の基本が決められていく。 もっと徹底した批判の声を挙げるべきである。野依座長の責任は重大である。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く