ブックマーク / khideaki.hatenadiary.org (30)

  • 田母神論文の論理的考察 6 - 数学屋のメガネ

    田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日は侵略国家であったのか」を考察してみようと思ったそもそものきっかけは、この論文の主張に共感する人が意外に多いということだった。僕自身は論理的な弱さを感じていただけに、自分の中には共感する気持ちが生まれてこなかった。どこが共感を呼ぶ要素になっているのだろうかということを知るために考察してみようと思った。 しかし、考察を始めて見ると、論理的な面の弱さが見えてくるだけで、ここが共感する部分なのかというのが見つからなかった。自分が共感を感じられないだけに、自分の中にないものを外に発見することが難しかったのだ。 そんなことを感じていたときに、ライブドアのブログに「CCMFさんからのコメント」をもらった。これが、僕が見えなかったものを見るために非常に参考になるものだと感じた。このコメントでは 「田母神論文に対する否定的評価の典型は、「論文としては稚拙であ

    田母神論文の論理的考察 6 - 数学屋のメガネ
    kaikai00
    kaikai00 2008/12/20
  • 田母神論文の論理的考察 5 - 数学屋のメガネ

    田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)は論文「日は侵略国家であったのか」で、前回に続く文章として次のように記述している。 「我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。」 ここで記述されていることがどのような意味を持っているかということは、直接記述されてはいないが、文脈から解釈すれば、日中国や朝鮮半島の近代化に貢献したということを主張したいのだろうと感じる。これが当に「貢献」になったかどうかという点については異論を感じるところではあるが、その真偽については今は問うことなく、それが論理的な流れの中でどのような意味を持っているかを考えてみたい。この事実を語ることで田母神氏は、実は自らが抱いている「侵略」というものの概念について語っていると解釈できるからだ。 「侵略」という言葉の概念は、物理的な属性のように対

    田母神論文の論理的考察 5 - 数学屋のメガネ
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    kaikai00 2008/12/19
  • 田母神論文の論理的考察 4 - 数学屋のメガネ

    田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)は論文「日は侵略国家であったのか」で、次に「張作霖列車爆破事件」を取り上げて、これが「コミンテルンの仕業という説」を紹介して日の正しさの一端を論証しようとしている。しかしこの論証は、あまり質的なものではなく末梢的な部分の主張になっているように感じる。 「張作霖列車爆破事件」は、日戦争拡大が「謀略」によるものであるということを主張するときの象徴的なものだと思うが、それは「謀略」であるということに関連しては重要だろうが、戦争全体が「侵略」であるかどうかという判断に関しては末梢的なものだと思われる。また「謀略」であるという考え方も疑問があるもので、日はそれほどきめ細かな戦略を持って戦争が拡大したのではなく、偶発的な事件を利用して、いわばチャンスだから「やっちまえ」というような、あまり深い考えなしに戦闘行為に入っていったように評価する人もいる。戦争

    田母神論文の論理的考察 4 - 数学屋のメガネ
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    kaikai00 2008/12/17
  • 田母神論文の論理的考察 3 - 数学屋のメガネ

    田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日は侵略国家であったのか」の中の次の「判断」を示す文章として以下のものを考察しよう。 「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。」 この文章も、「判断」を示す「で」「ある」という言葉が使われている。この主張においては、「被害者」という言葉をどう解釈するかが問題になる。僕はこの言葉に込められた意味を、「主体的な選択をしたのではない」「そうせざるを得なかった」というニュアンスで受け取る。そうすると、この言葉からは「戦争の結果における日の責任は大部分は免除される」という結論が導かれるのではないかと思っている。犯罪における「被害者」の位置づけもそのようになっているのではないだろうか。 さて、この結論に至る論理の流れを田母神氏の文章から拾ってこよう。それは次のように並べられるものだと思われる。 1)「日軍に対し蒋介石国民党は頻

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    kaikai00 2008/12/14
  • 田母神論文の論理的考察 2 - 数学屋のメガネ

    田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日は侵略国家であったのか」の中から「判断」を直接語っているように読める部分を探し出し、その「判断」が導かれる過程の論理展開を考えてみようかと思う。まず最初の考察の対象となるのは次の文章だ。 「現在の中国政府から「日の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。」 この文章が「判断」を語っていると解釈したのは、文章の終わりに「で」「ある」という「肯定判断」を示す助動詞が使われているからだ。これは「判断」を直接言葉によって表現している。文脈から、何らかの「判断」をしていると解釈できるのではなく、「判断」そのものが直接表現されていると考えられる。 この「判断」が提出される前段では、軍隊の駐留の正当性を「二国間で合意された条約」に求めてい

    田母神論文の論理的考察 2 - 数学屋のメガネ
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    kaikai00 2008/12/13
  • 田母神論文の論理的考察 1 - 数学屋のメガネ

    田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日は侵略国家であったのか」を論理的に考察してみようかと思う。田母神氏が展開している文章を、「事実」と「判断」と「意見(主観の表現)」とに分けて、「判断」に当たる部分の論理性を考えてみようとするものだ。 宮台真司氏によれば、田母神論文の問題点は、防衛省航空幕僚長空将という立場にいる人間が、公的に発した発言が、政府の公的な見解と異なっているところに質があるという。もし言論の自由ということで意見表明をしたいのなら、その立場を離れて自由な私人として主張すべきだというのが宮台氏の評価だった。あのような意見を表明したいのなら、防衛省航空幕僚長空将をやめてからやってください、というのが宮台氏が語っていたことだった。それがシビリアンコントロールからの見解だという。これはもっともなことだと僕も思う。 宮台氏によれば、田母神論文の問題は、論文の中身の問題ではなく

    田母神論文の論理的考察 1 - 数学屋のメガネ
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    kaikai00 2008/12/12
  • 集団自決という現象のディテール(細部あるいは末梢的なこと) - 数学屋のメガネ

    夜間中学には日語学級という、日語を勉強するクラスがある。今でこそ、そこは外国から日へ来た人々(結婚で来たり、再婚の母親に呼び寄せられたり、仕事で来日した父親の家族として来たり、その理由はさまざまである)が、日語の授業を受けるために必要な日語の会話を学習するためのクラスになっているが、発足のころは違っていた。 日語学級が発足したころは、戦後長いあいだ戦地になっていた中国などから、さまざまな事情で帰れなくなっていた人々が引き揚げてきたことがきっかけだった。いわゆる「中国残留孤児」という呼び方をされていた人々は、幼いころに中国に取り残されてしまったため、日人でありながらまったく日語が話せない・理解できないという状況にあった。 これらの人々が日へ引き揚げて、日で生活を始めたときに、生活のために必要な日語を学ぶ場所がなかった。そこで、夜間中学がとりあえずそのような日語の教育

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    kaikai00 2007/10/31
  • アルゴリズムの心地よさ - 数学屋のメガネ

    ナンバープレイス・イラストロジック・ループコースというパズルに共通するのは形式論理のみを使ってそのパズルの解答を求めるということだ。ナンバープレイスで言えば、ある数字がその枠に「入る」か「入らない」かという排中律と、同時に両方が成立しないという矛盾律を駆使して、その数字を決定する。イラストロジックでは、ある格子のマスを「塗りつぶす」か「塗らない」かということに形式論理を適用する。ループコースでは、正方形の4つの辺のうち、どの辺を実線で引くかという個数が示されている。この場合は、実線に「する」か「しない」かということに形式論理が適用される。 このパズルをやり始めた初心者の時は、どこに数字が入るか、どこが塗りつぶされるかを、一つずつ考えながら形式論理を展開していく。しかし、慣れてくるとそのうちに、このパターンは必ずこうなるはずだという法則のようなものがつかめてくる。一つのアルゴリズムが見えてく

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    kaikai00 2007/07/12
  • 無限の考察あれこれ - 数学屋のメガネ

    「2006年03月03日 実無限と可能無限」というエントリーのコメント欄で武田英夫さんという方が幾つかの疑問を提出しているが、これに対して数学的にどう答えるかということを考えてみたい。無限ホテルのたとえと無理数である円周率の有限小数表現については以前の「現実存在である人間が無限を捉えることの限界」で触れておいた。残りのコメントで語られているものについて考えてみようと思う。 まずは、紙幣と現金の問題について考えてみようと思う。財布の中身を、紙幣の種類として考えれば、どんなにたくさんの現金があっても、1000円札、5000円札、10000円札の3種類しかないと語ることが出来る。しかし、これを現金の問題として、いくらあるかということに対する答として考えれば、2枚の1000円札は2000円という額になる。紙幣の種類として考えるか、現金の額として考えるかで、答が違ってくる。 この矛盾は、形式論理的な

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    kaikai00 2007/07/10
  • 宮台真司氏の左翼批判 - 数学屋のメガネ

    無料で視聴できる第326回のマル激トークオンデマンドは、小林よしのり氏と萱野稔人氏を迎えてナショナリズムの問題を中心に議論をしていた。愛国心を教育法の中に盛り込み、愛国を叫んでいる安倍政権の中心にいるエリートたちがいかに愛国心に欠ける行為をしているかを皮肉をこめて批判しているところも面白いのだが、途中に挿入された、宮台真司氏の左翼批判が印象に残った。 宮台氏は、一つのエピソードを語りながらそれを左翼批判に結び付けている。それは、他の乗客がいるにもかかわらず、電車内で繰り返し強姦をしていた男がいたという事件に絡めたものだった。この男は、外見をやくざ風に装って、その行為を阻止しようとすれば自分が暴力的に襲われるように見えたらしい。だから、繰り返し同じようなことをしていたにもかかわらず、なかなかその行為を止めることが出来なかったようだ。 この男が犯罪行為を繰り返していたということは、その犯罪

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    kaikai00 2007/07/06
  • みんな仲良し教育の欠陥 - 数学屋のメガネ

    楽天ブログでmsk222さんが「みんなで仲よし、って…」というエントリーを書いている。ここに書かれていたことに、以前から問題意識を感じていたので、コメントを書かせてもらった。それは、みんな仲良し教育が、共同体主義を助長して、個人の主体性を育てることを阻害するという考えだった。 共同体の中で、よく知り合った仲間が阿吽の呼吸ですごすというのは、その中で何も問題が生じない時は、非常に幸せな気分をもたらしてくれるだろう。少々貧乏であっても、助け合って生きていくことに喜びを感じ、何が価値あるものであるか、何が善であるかがはっきりと決まっているという安心感を感じながら生きていくことが出来るだろう。 しかし、このような幸せな共同体は、前近代的な社会で過ごす場合にしか残らない。近代社会を構成する原則は、このような共同体を形式的には破壊してしまうことになる。近代社会は、さまざまな自由が認められ、もはや、生ま

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    kaikai00 2007/06/24
  • シェーマとしてのたとえ話 - 数学屋のメガネ

    シェーマというのは故遠山啓先生が、水道方式という計算体系の教育に際して、数という抽象的対象を教えるために考案したタイルという教具の特徴を指して使った言葉である。タイルという教具は、10進法の構造を教えるための教具であり、加減乗除の計算アルゴリズムの構造を教えるための教具として考案された。 タイルは、風呂の壁などについている正方形の板であり、これをつなぎ合わせ10個の細長い棒状にしたものや、縦横10個ずつの大きな正方形にして100を表したりしたものを使って数を教える。タイルの特徴は、つなぎ合わせたときの10個の塊や100個の塊を判別しやすく、10集まると桁が大きくなるという位取りの原理を、目で見て理解することが出来ることだ。 それまでは、計算棒というマッチ棒のようなものをたくさん集めたものや、お金を使って数を教えることが多かったらしい。しかし、計算棒は、10ずつ集まったという集合的な把握のイ

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    kaikai00 2007/06/24
  • 道徳と法律の社会法則 - 数学屋のメガネ

    板倉聖宣さんは、社会法則を学ぶための授業書として「生類憐れみの令」と「禁酒法と民主主義」というものを作った。これは仮説実験授業の授業書として作られたもので、社会にも法則性があるのだという科学的視点を教えるための授業所だ。過去にこういうことがあったという事実を知るためのものではない。 ここで語られている法則を抽象的に言えば、道徳を法律化したときの社会に対する影響というものがどういう現れ方をするか、ということを法則化したものと言える。道徳的に正しいことは、善悪の判断から言えば、いいことに決まっている。いいことだからそれを実現することが正しいと誰もが思う。そういうものは、人々の自発的な意志にゆだねて実現すべきもので、法律化して強制的に実現すべきものではない。もし、誰もがいいと思うことを法律によって強制化して実現しようとすると、予想に反して道徳的には堕落するという結果を招く。これが社会の法則なのだ

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    kaikai00 2007/06/23
  • 科学と信仰 - 数学屋のメガネ

    日曜日に、宗教的なパンフレットを持って訪問してきた人がいた。キリスト教の勧誘のための訪問だったのだが、僕は無神論者であることを理由に断った。そのとき、改めて自分の無神論というのはどういうものだったかというのに気づいた。僕の無神論は、神を必要としていないという状態から生まれたものであり、科学的認識のためには、始めに神がありきという信仰からスタートすることができないということから来ている。 三浦つとむさんは、徹底した唯物論者であり、自らが無神論者であることを公言していた。僕も、三浦さんが語る意味での唯物論者でありたかったと思っていたので、自分も無神論者だろうと漠然とは思っていたのだが、若いころは教会に通って、キリスト教の洗礼を受けようという寸前のところまでいったことがあった。信仰の中で生きることの心地よさに浸っていたいと思うときがあった。 僕は若いころにキリスト教に関心を持って聖書もよく読んで

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    kaikai00 2007/06/07
  • 萱野稔人さんの国家に関する考察を方法論として読んでみる - 数学屋のメガネ

    萱野さんの国家論というのはたいへんユニークで面白いものだと思う。国家論というのは、どちらかというとこれまではマルクス主義的な観点から論じられたりすることが多く、イデオロギー的な前提を強く持っていたように感じる。国家というものが民衆にとってどのような存在である「べき」かという「べき」論の観点から語られることが多く、対象の客観的認識よりも価値判断のほうが先行してきたように感じる。 マル激で宮台氏が語っていたが、「べき」論で考えてもいいのだが、それが現実にそうなっていなければ、いくら「べき」論を主張してもあまり意味がないということが出来る。価値判断的に、そのような方向である「べき」だと考えたとしても、現実には客観的法則性を認識して、その法則に従う方向で変革を考えなければ「べき」も実現しないと考えなければならない。 価値判断よりも客観的認識のほうを優先させて、まずは対象理解を徹底させるというのは、

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    kaikai00 2007/05/31
  • イデオロギーを排した思考の方法論と、イデオロギーに支配された思考の誤謬論 - 数学屋のメガネ

    イデオロギーとは、「政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的、社会的立場に制約された考え方。観念形態」と辞書的には定義されている。ということは、イデオロギー的なものに影響された思考というのは、その帰結が「歴史的、社会的立場に制約された」ものであると捉えられている。来ならば、その時代の特殊性に縛られているはずなのに、それを捨象してしまって普遍性があるかのごとくに勘違いするところに、イデオロギー的な誤謬の質があるような気がする。 これは、人間の思考がパラダイムという枠組みの影響を免れないということから言えば、そのパラダイムでさえも思考の対象に出来るという、時代の制約を超えた視点を持たなければ克服できない誤謬だ。これは、再帰性というものを反省の対象にすることが出来た近代になって初めて気がつかれたものではないだろうか。近代以前の社会では、どれほど優れた人間であろうとも、時代の制約そのも

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    kaikai00 2007/05/29
  • 治安問題に対する関心 - 数学屋のメガネ

    都知事選での石原慎太郎氏の圧勝を考えたとき、あるブログで見た「治安問題」への取り組みが大きな要素だったということに頷いたものだった。他の候補に比べて、石原氏が主張する治安対策のほうが、多くの人の信頼を勝ち得たという指摘は正しいものだと感じた。 治安対策というのは強権的な警察権力を有効に発揮しなければならない。その意味では石原氏の強い姿勢のほうが何となく安心できそうな感じはする。萱野稔人さんの指摘にもあったが、他を圧倒する強い暴力でなければ、暴力を制圧するという治安は保てない。弱い暴力では治安問題の解決には不安が生じてしまうだろう。 治安問題を主張すれば一定の支持が得られるというのは石原氏だけにとどまらず、保守政治家は気づいているような感じがする。自民党を離れた亀井静香氏も、今度の参院選での争点を治安問題に求めているようだ。多くの人が不安を感じている時代は、その不安をあおることによって、不安

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    kaikai00 2007/05/29
  • 国家とは何か - 数学屋のメガネ

    萱野稔人さんが『国家とは何か』(以文社)というを書いている。このの前書きに当たる部分の「イントロダクション」というところで、このが目指しているところの全体像について書いている。それは、タイトルにあるとおり、「国家とは何か」ということなのだが、その中に物事を考える方法論のようなものがあるのを感じた。 「国家とは何か」という問いに対して、こういうものだという答を提示するのがこのの目的ではない。そもそもこの問いは、国家というものがいかに捉えにくい複雑なものであって、単純に答が出せるような対象ではないのだということを自覚させるためにあるような気がする。 国家の捉えがたさは、国家というのは直接目で見ることが出来ないものだからだろうと思う。つまり、実体としての国家そのものはどこにも見出せないのだ。国家を構成するであろう要素や機能は見ることが出来る。国民一人一人という存在は、現実の我々自身であり

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    kaikai00 2007/05/27
  • マルクス主義の理論的誤りについて - 数学屋のメガネ

    社会主義国家に誤りがあったというのは、それが崩壊したという結果からほぼ明らかだろうと思う。前回の指摘が正しいかどうかは異論があるかもしれないが、社会主義という考え方に間違いがあったのは誰もが認めるだろう。もし、そこに間違いがなかったのなら、国家が崩壊するなどという結果を招くはずがないからだ。 国家の崩壊は具体的な事実であり、目の前でソビエトという国がなくなってしまったのを我々は目撃した。しかし、マルクス主義という理論は、ある意味では具体的な存在である国家とは相対的に独立していて切り離すことが出来る。だから、マルクス主義理論そのものは、そこに誤りがあるかどうかというのは解釈に違いが出てくるだろう。 マルクス主義の主張には多くの正しさがあったと思うが、根的なところで間違っていたのではないかと僕は今では考えている。マルクス主義の場合も、理論は正しかったのだが、その適用においてみんな間違えたとい

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    kaikai00 2007/05/25
  • 社会主義国家の誤りについて - 数学屋のメガネ

    社会主義国家が崩壊したとき、その現象をどう解釈するかというのはマルクス主義の陣営にとっては深刻な問題だっただろうと思う。これが、マルクス主義の理論的な誤りを証明する実験と捉えるのか、理論には誤りがなかったが、その現実の適用において失敗した実践的な誤りと見るのかは大きな違いがあるだろうと思う。 マルクス主義を信奉して、そのパラダイムで自分の思想を形作っていた人々は、その理論が間違っているという前提そのものの否定はなかなか出来なかっただろうと思う。目に付くのは、現実の社会主義国家の指導者たちの具体的な失敗のほうだ。スターリン主義に見られるような大衆の弾圧と強権的な政治に失敗を見たり、特権的な指導者層の物質的な贅沢さに個人的な堕落を見たりすることのほうが多かったのではないかと思う。 マルクス主義理論そのものの間違いを認識するというのはかなり難しいことだったに違いない。理論が間違えているのではなく

    社会主義国家の誤りについて - 数学屋のメガネ
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    kaikai00 2007/05/23