台湾ひとり食事旅(前編) 台湾へ行ってきた。チケットと宿を予めおさえていたものの、台湾地震の発生で予約を一度はキャンセル。その後の台湾観光庁の旅行に来て大丈夫だよ、という声明を確認してやはり行くことに。 目的はシンプルで、台北周辺で美味しい食事をたくさん食べること。そして自宅…
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deadletter @deadletterjp 戦後の強制労働に関する数々の訴訟についての国の冷たい態度。「要は金が欲しいんだろ」と彼らを蔑む日本の相当数の保守。「靖国の死者」・「死んだじいちゃんたち」は物を言わないからさぞかし彼らにとって扱いやすい(幾らでもダシにできる)ということなのだろう。 2010-06-17 17:43:18 deadletter @deadletterjp 東浩紀は、自身のしていることが、元々「禁止する」機運などないものについて、あえて・わざわざ・ことさらに「南京事件否定論自体は自由なのだ」と言い立てる「政治性」を帯びた行為に他ならないということについて、明らかに「知らないフリ」をしている。 http://ow.ly/22ywI 2010-06-24 13:29:51
日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動 The Labour Year Book of Japan special ed. 第五編 言論統制と文化運動 第五章 芸術運動 一般に文学の分野においては、後述する俳句・短歌の場合や地方の小文学サークルの場合を除けば、組織的な形をとった抵抗の運動というべきものはまったく見られず、個々の作家の孤独な動きに止まった。個々人の抵抗という場合でも、多くは芸術至上主義的な韜晦の形か、あるいは公然たる時局への妥協と協力の「擬装」をとっておこなわれ、とくに後者の場合は客観的には侵略戦争の下請に転落し、軍国主義「国策」の推進に大きく役立たせられた。 文学作品にたいする発禁・削除については、先に「言論弾圧」の項でみた通りであるが、一九三七年六月の島木健作「再建」と翌三八年三月の石川達三「生きている兵隊」の二つの発禁事件は、たんなる行政処分ではなく、それに対応す
社団法人大日本言論報国会(だいにほんげんろんほうこくかい、だいにっぽんげんろんほうこくかい[注釈 1])は、1942年(昭和17年)12月23日に、大東亜戦争遂行のための言論統制を担当していた情報局の指導のもとに設立された団体[1]。情報局の外郭団体であり、戦時下における事実上唯一の評論家団体であった[2]。 1942年5月に設立された日本文学報国会が、数多くの文学者を網羅的、半強制的に会員としたのに対し、この大日本言論報国会は、戦争に協力的とされる評論家たちの中から、情報局職員の立会いのもとで会員を選んだ[1]。これら会員は情報局や軍部の庇護の下で新聞・雑誌で戦争遂行キャンペーンを展開し[1]、一方で、言論報国会が中心となって『思想戦大学講座』(1944年)などを編纂した[1]。 沿革[編集] 前史[編集] 前身は、1940年(昭和15年)に設立された「日本評論家協会」である。 1939
1. はじめに 終戦の年から50年以上の歳月を経た今、このようなテーマを取り上げる必要があるのかという考えを持つ人の数は少なくないだろう。日本でしばしば耳にする言葉通り、「済んだことは水に流そう」式に従うなら、今回の発表は余り意味がない亊である。また、日本の国際化を必死に推し進めようという人から見れば、そのような過去の出来事に目を向ける必要はもはやないだろう。更に、もうすでにシベリア抑留の体験記は百冊以上存在するのに、今さらこのテーマを扱う必要がどこにあるのかと言う人もいるだろう。 しかし本当にそうであろうか。また、それをよしとすべきであろうか。自分の身内(父、夫、妻、息子、兄弟、姉妹など)の中で抑留された人、あるいは二度と帰らぬ人となり、未だに消息不明の多くの人々のことを考えると、「もう過去の出来事だ」と言って済ますことができるだろうか。 この50年以上の間に日本政府はこの実態
ブログというかネット全般にうんざりすることが多くて距離を置いていたら、久しい更新になってしまった。 ひと月ほど前になるが、雁屋哲氏がブログで「日本が過去に」「全部で2000万人とも言われる中国人を殺戮した」と書いたところ、それに対し、はてブで「ありえねー」的な反応だったり「むし返すな」と恐れたり「証拠は」と誤魔化したりと、まぁ、テンプレ通りの反応が多くあって、既にいくつかの批判するエントリが書かれている。 ・冷静になりましょう | 雁屋哲の今日もまた ↓ ・はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`) : 「尖閣衝突…まず日本は中国人2千万人虐殺謝罪しろ。尖閣に自衛隊?…日本がおかしくなる訳だ」…美味しんぼ・雁屋哲 - ライブドアブログ ↓ ・痛いニュース(ノ∀`) : 「尖閣衝突…まず日本は中国人2千万人虐殺謝罪しろ。尖閣に自衛隊?…日本がおかしくなる訳だ」…美味しんぼ・雁屋哲、のはて
〈問い〉 5月20日付「小説『銃口』のモデルは?」の中で、北海道綴方連盟事件で死亡した人がいると知りましたが、どんな方ですか?(京都・一読者) 〈答え〉 戦前・戦中のきびしい教育統制下、子どもたちを心から愛して、未来に希望をつないだ教師たちがいました。北海道綴方教育連盟事件で、死亡した横山真(まこと)(当時、十勝郡・大津小)もそうした一人でした。横山は、新婚2カ月目の1940年11月20日、治安維持法違反で検挙され、2年半の長期勾留中、危篤状態におちいり仮出所、小康をえたのもつかの間、43年10月12日、腸結核のため亡くなります。28歳の若さでした。 横山は、旭川師範学校を34年に卒業し、根室の厚床(あっとこ)小学校に勤めます。厚床の周辺は未開拓な原野で農民の生活は悲惨でした。長期欠席、欠食児童などを目前にして、若く多感な青年教師は悩み、生活のありのままをつづらせ、子どもたちに生きる意欲を
内田嘉吉氏(うちだ・かきち、1866〜1933)は、逓信官僚として日本の海事関係に関する法律の整備などに尽力し、また台湾総督も務め植民地行政に携わりました。後には貴族院議員や私立東京商業学校校長を務め、学校教育・社会教育の分野でも実績を残しました。千代田図書館の内田嘉吉文庫は、内田氏の蔵書約16,000冊を、氏の没後、昭和9年に当時の東京市立駿河台図書館(千代田図書館の前身)が受託したもので、外国語図書が70%以上を占めています。内田氏の仕事柄東洋交通関係の古刊書が豊富なことが、この文庫の特徴の一つです。そのなかでも有名なものとしては、中世末〜16世紀の古地誌と航海誌を網羅する大叢書として世界的評価を得ている「ハクルート協会」発行の叢書のうち、第1期刊行の100冊のほとんどを備えているところは世界的にも少なく、研究資料としての意義が高いと考えられます。 蔵書約16,000冊のうち、「内田
2010年12月04日22:49 就職は大恐慌時より今のほうが厳しいのです 昭和初期の映像がちょっと話題になっていたようです。 映像は結構なものですが、最近つけたとおぼしいナレーションで、大恐慌時は「大学卒業生の9割が就職口を得ることができなかった」なんて出鱈目を云ってるのはまことに困ったものですな。 文部省の統計によりますと、世界大恐慌に直撃された昭和5年(1930)の大卒就職率は前年より5.3%下がって55.8%。就職氷河期だった平成15年は大卒55.1%ですから、それより良かったのです。 しかも翌年の満州事変により始まった軍需景気と満州景気、高橋是清の見事なデフレ対策で大恐慌からいち早く脱して就職率もすぐに上向きとなり、昭和10年には69.5%まで回復しています。 一番底だった昭和5年に大卒で進学する人と兵役に就く人は合わせて10.5%。統計では一緒になってますのでそれぞれの数値は判
別件で上京した機会をとらえて、防衛省の防衛研究所史料閲覧室でなにかおもしろそうな史料はないか漁ってきました。 ちょっと使い勝手は悪かったですが、あそこはあそこで宝の山ですね! ぜひまた漁りに行きたいですね。旧軍関係者の回想録とか文書とかあそこ(一部東アジア歴史資料センターにもあるが、やっぱ史料閲覧室の方が豊富かね)にしかない史料がいっぱいって感じ。 あまり多くは読めなかったけど、その中でも特に「折田貞重大佐回想録」がお勧めかな? とても興味深いことがたくさん書いてあります(あと当人がすごいやる気になって書いています)。一部コピーしてきたので、そのうち著作権に反さない限りの引用で紹介します。 それはそうと、以下の二つのような防衛研究所の奇妙な対応も体験してしまいました。 ・閲覧不可になった毒ガス戦史料 日本軍毒ガス作戦の村―中国河北省・北坦村で起こったこと 作者: 石切山英彰出版社/メーカー
菅野完 @noiehoie 機関説論争の端緒となったのは、菊池議員(陸軍中将)による貴族院本会議での滝川事件に関する質疑。美濃部の著書の片言隻句を引用して、「学匪」「反逆者」と罵った。で、その後、美濃部は「一身上の弁明」として本会議で演説を行った。その日の貴族院は議席はもとより傍聴席も満員だったという(続く 2010-11-20 22:50:03 菅野完 @noiehoie (承前)美濃部は演説の中で「天皇主権説であれば、国際条約は天皇個人の契約となってしまう」等の例をあげながら機関説の妥当性を訴えた。一時間を超えたこの演説は、人々の共感を呼び、演説の最後には貴族院では珍しく議席からも傍聴席からも拍手が起こったという(続く) 2010-11-20 22:54:42 菅野完 @noiehoie (承前)この演説の結果、当の菊池中将から「徒に美濃部博士を侮辱したものではない。また博士の著作を通
先月末に放映されたETV特集「シンドラーとユダヤ人〜ホロコーストの時代とその後〜」に登場する生存者の一人は、「なぜシンドラーはユダヤ人を助けたと思いますか?」という質問に対し、私はそんなことは尋ねるなと言うことにしている、「なぜ?」と問われると不快になる、という印象深い答えを返していた*1。その意味するところを彼自身が明示的に語っているわけではないのだが、次のような解釈が頭に浮かんだ。 あの時代においてユダヤ人を助けることは、彼らを見捨てたりあるいは積極的に殺害に加担することに比べれば遥かに困難なことであったから、「なぜ助けたのか?」という問いが出てくるのは当然のことに思える。だがその問いは、本来問われるべき「なぜ助けなかったのか?」という問いを背景に退けてしまいかねない。彼らが助けられることに理由など必要なかったはずであるにもかかわらず。 *1:このやり取りは、上記番組の短縮版である「ホ
どの新聞だったか忘れたが、どこぞの大学教授が、 「日露戦争は予算を確保した上で戦ったからまだ良かったが、これが太平洋戦争になるとまったく財政を無視した戦争となった……」 というようなことを書いていた。 まぁコラム欄なので、説明に限界が生じるのはやむを得ないとしても、現役の大学教授ともあろう方が(しかも経済学らしい)、随分と粗雑な話をされていたことに少々驚かされた。 戦前の日本の指導部が、国家財政を無視して戦争を推進したのは、対米戦に限ったことではない。 すでに日中戦争が勃発した昭和12年(1937年)には、税収13億円に対して、一般歳出が35億円、臨時軍事費特別会計が20億円を計上する事態に陥っている。 税収の4倍もの予算は、当然借金(公債、借入金)によって賄われた。 ちなみに、昭和12年の国家予算内には一般会計軍事費もあるが、一般会計歳出の総額27億円のうち、軍事費が12億円と44%以上
古今和歌集、完全写本見つかる=漢字、仮名序文付きで最古−甲南女子大 古今和歌集、完全写本見つかる=漢字、仮名序文付きで最古−甲南女子大 最初の勅撰(ちょくせん)和歌集として知られる「古今和歌集」の歌がすべてそろった完全な写本が見つかったと、甲南女子大(神戸市東灘区)が20日、発表した。鎌倉時代初期の写本とみられ、序文として編さんの意義や目的を漢字で記した「真名序」と、ひらがなで記した「仮名序」がある完全な写本としては最古という。 同大の米田明美教授(日本文学)は「古今和歌集が現在の形になるまでの経緯など、和歌の研究上、貴重な資料だ」と話している。 古今和歌集は10世紀初頭、天皇の勅命に基づいて紀貫之らが選者となった最初の勅撰和歌集で、平安時代の貴族にとって必要な教養とされた。 見つかった写本は上下2冊で、縦約16センチ、横約15センチ。どちらも220ページ前後あり、約1100首すべて
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