2014年2月23日日曜日 [講演等][英語教育] 文法指導って何なのさ(の補足) LET中部支部外国語教育基礎研究部会第1回年次例会(2月22日、名古屋大学)において,「文法指導って何なのさ:目的・内容・方法」と題するワークショップの講師を務めた。まずは,この機会を与えてくれた事務局のみなさんに感謝したい。 この記事は,(100%私の不徳の致すところで)与えられた時間に収まらず,触れることのできなかった内容の補足を目的とする。 配布資料(公開版)はこちらで,こちらが使用スライド(公開版)。 (冒頭のスライドに示したリンクにアクセスすると,WS中に紹介した文法問題例に解答することができる。もうしばらく置いておく。) さらに,USTRESM中継までされしていただいた。→前半は幸い音声が入らなかったそうだが,興味ある方はこちら。 話せなかったのは,Issues on Organizi
引き続きTESOL Quarterly 46(3)を読む。前記事で触れた Shin, S.-K. (2012). “It Cannot Be Done Alone”: The Socialization of Novice English Teachers in South Korea. TESOL Quarterly, 46(3), 542–567. を読んだ。「教室に変化をもたらすのは容易ではない。学校教育の水準を高めるために無数の革新的政策が導入されてきたが,そうしたトップダウンの命令はたいがい失敗する」(Shin 2012: 542)とカッチョよく始まったので期待したものの,最後まで読んでみると,これから日本が通る轍を予感させて興味深くある一方で,背景の説明が十分ではなく,構図を単純化し過ぎのようにも思えた。 以下,雑なまとめ。 背景 前記事で述べたように,養成課程で学ぶことと現場
2011年9月16日金曜日 『明日の英語教育を考える』をめぐる「論争」で学習英文法シンポジウムをさらにふり返る。 かつて雑誌「教育」(国土社)において、黒川泰男『明日の英語教育を考える』(1979年、三友社)の書評に端を発する、号をまたいでの「論争」があった(菅野 1980; 小山内 1980; 早川 1980)。資料整理中に見つけて読み返してみると、30年以上前のやり取りであるにもかかわらず、先日の学習英文法シンポジウム(の提案・議論)が思い返されるところが少なくなかったのでまとめてみる次第(「われわれは歴史を知らな過ぎる」というコメントもあったので)。長文、ご容赦願いたい。 文脈の共有も兼ねて、発端となった菅野(1980)の冒頭を引用する。「『詩的な文法教材』はちっとも素敵ではない」と題する書評で、菅野(1980: 104)は次のように述べる(下線は引用者による)。 学習指導要領が
2011年9月12日月曜日 「学習英文法シンポジウム」雑感:"pedagogical grammar"概念の整理から 最中にTwitter (#keiopg)でも色々つぶやいたが、10日の学習英文法シンポジウム(慶應大学)に参加した。事前に資料も入手でき、多くの「気づき」を与えてもらった。まずは関係各位の準備や運営の労に敬意と謝意を表したい。ただ、各登壇者に松井先生が投げかけた問いを引き取って深めるやり取りが十分だったとは思えず、残念さも残った。それは、このテーマで論じるべきことの広さ・多さのせいとも言えるし、各人(登壇者・討論者だけでなく、参加者全員)の持つ前提やスタート地点の問題のせいの気もした。 特に気になったのは、つぶやきでも多少触れたが、「学習文法」という概念の整理や他との関連が曖昧なままだったこと。日本の英語教育におけるその必要性や歴史的変遷については江利川先生が触れたが、o
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