ベルギーに行った 先日、ベルギーに行きました。 マグリットの絵とルーベンスの絵を見るのが目的。 あまり時間もなく、ブリュッセルとアントワープを駆け足気味で巡ることに。 ミュンヘンから車で10時間近くかかり、なんでこんな無茶をしてしまったのかとも思いましたが、ヨーロッパの方…
目次 性の連続性 性の分化と多様性 セックスとジェンダー セックスの分解 ジェンダーの分解 性自認と性指向 パラメータの独立 パラメータの組み合わせ どのように評価すべきか 性同一性障害とは 参考文献 性の連続性 「人間の性別は2種類でない。16~32種類に分類される」と言ったら信じるでしょうか。多くの人は一瞬耳を疑うに違いありません。 西洋系の文化に於いては永らく、性別は2種類であると信じられてきました。日本に於いても、古代は良く分かりませんが少なくとも中世以降はそのような思想が広く見られますし、殊に明治維新以降、西洋の影響を受けて「性別は2種類」という信念は非常に強固なものとなったことが知られています。(……とわざわざ書くのは、2種類とは考えない文化もチベットなどに見られるためです) さて、一方で人類の歴史を通じて男女何れにも分類できない人間は存在し続けました。そして、20世紀の後半以
カレンダーをリストでマークアップ 2008-02-14 0 0 XHTML/CSS CSS, XHTML 先月,カレンダーをリストでマークアップするという記事をコリスさんのところで読みました。 [CSS]テーブル要素を使用しないで制作するカレンダー | コリス 元記事はこちら。 pixelspread : Tableless Calendar In Use カレンダーはtableでなければならないか ぼくも最初は「カレンダーをリストでマークアップってどうなの?」と思ったのです。脱tableレイアウトと言っても,tableを使うべきところはある。曜日をthに入れて,それぞれの日を曜日に関連づけることができる。ulやolにしたらそれはわからなくなる。なんて安易に考えていたのです。 しかし,我的春秋のゆうさんの記事を読んで,目からウロコ!でした。 一歩先のWeb標準 ♯10 | Webデザイナー
こんにちは。前年以上に暑い日が続いておりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか? (私はプライベートで熱中症になってしまいました‥本当に危ないので是非皆様もお気をつけください‥) 本日は当社での採用活動の取り組みの紹介と、採用活動に従事する中で私が感じた面接に対する所感やTipsを記載できればと思います。 新卒採用の開始 当社では今年度より新卒採用を開始しております。 これまでについては、原則として中途採用を基本としており、若手を中心とした採用というよりも、ある程度の年次を重ねた経験者の採用を中心としておりました。 今般、設立5年を迎えたことを契機に、今後の組織拡大や成長戦略も鑑み、25年卒を対象に新卒採用を行なっております。 今後も継続的に新卒採用については注力したい、且つ、今年度については新卒採用開始の初年度ということもあり、全てが万全にスタートできた訳ではないので、今年度の反省点も活
「その1」は2年近く前のエントリーになります。 綴方の指導 鈴木(1935)は、子どもに書くのが無理なものを書かせておきながら、綴方が伸びないという教師が多いと言っている。書ける題材から始めなければならないというのだ。題材が難しいと、自分が直接経験してもいないことを、経験したことのようにでっち上げて書いてしまう子どもが出てくるという。こうなると、文章を無理矢理こねくり回すようになってしまう。綴方の指導においては、子どもの経験し得ないような、難しい題材を与えるべきではないというのが、鈴木の主張である。 次に、鈴木は抽象的な課題で文章を書くことの難しさを指摘している。具体的な経験から離れた、こうした抽象的なテーマで文章を書くことは、大人であっても困難なことである。これを、例えば何が耐えねばならない経験であったかの分析ができない子どもに、「忍耐」という課題で綴方をやらせるのは無謀だというのである
すべての教科の基礎としての国語力、英語力の基礎としての日本語力 「生活綴方」というと、教育史や受験日本史で出てくる概念・用語というイメージしか浮かばない人が多いかもしれない。しかし国分(1962)に見られるように、綴方はすべての教科の基礎としての国語力の中核を形成しうる学習活動である。真にすべての教科の基礎としての国語力というものは、英語力の基礎としての日本語力としても機能するものである。そこで国分(1962)を中心に生活綴方について考えていくことにする。 生活綴方における題材 「生活綴方」は、その用語のために児童・生徒が生活経験を書く「生活記録的文章」のみを扱う印象を抱かれがちである。しかし国分(1962)では綴方における文章表現の題材として、次のようなものを挙げている。 生徒を取り巻く生まの自然や社会や人間や文化ととっくませ、その地点で、捉えた事実、発見したこと、確認したこと、感動した
■ブログを続けて書くことの効能は? 前々回エントリの関連であれこれ記事を読み、面白いものをたくさん見つけた。 たとえば前々回のエントリでは、ブログの更新頻度と人気の関係について書いた。その流れで「ブログは気が向いたときに書くのがいいか? それとも毎日書く方がいいのか?」を考察した記事が読めた。 毎日書くことの効能がわかりやすく述べられていて興味深い。 一般論的にいえば、 「毎日書く」ほうが圧倒的にいいのではないか、と思う。(中略) 毎日書く、と決めることで、 「何を書こうか?」という目線で物事を見るし、 そこから先へ進むと、何かに触れた時に、 「これってこう書けるな」とか思えるようになる。 そこが無意識にできるようになると、 どんどん書けるし、 今まで考えが及ばなかったところまで、 自分の思考がまわるようになる。 だから、圧倒的に毎日書いたほうがいい、と思っている。 ●じだらく『ブログは書
些細な事でも、非論理的だと思うとつい口を出してしまう。 「そこはこうこうだから、そう言うのはおかしくないか。あくまで○○としか言えないはず」 とか。 そうすると大抵嫌な顔をされ 「いやでもさぁー。実際、そうなったらこうするでしょ?」 とか言われても 「それとこれとは別問題だよ」 とか言っちゃう。 んで「屁理屈人間」とか「いちいち理屈っぽい」「なんでそういうこといちいち言うの?」って言われる。 子供の頃から何度も親を含めた大人たちに屁理屈だ屁理屈だといわれてきた。 そのたびにまた、「屁理屈って言うけどどこがどう屁理屈なの?どこか間違ってる?」って言ってしまってまた 「この子は本当に言い訳がましい」「理屈っぽすぎる」「いちいちうるさい」って言われてきた だからそのうち親や先生には何も言わなくなった。怒られたらただ黙るようになった。だって言っても「言い訳だ」「屁理屈だ」って言われるだけだから。新
つってもまぁ見かけるのはネットくらいだが 「ネットでたまたま多いだけで実際には少ないよ」なんて楽観的に言い切る事もできない以上怖い。 別にただ「女なんて」「スイーツ(笑)」とか言ってる分にはどうでもいいけど、 無視できないほどそういう意見が多いのはちょっとした恐怖だよ。 多いどころかネットの主流意見の一つですらあったりする。全てじゃないけど派跋のひとつくらいにはなってる。 勝手にネットで言ってるだけならいい。 でもこのまま増えて、そのうちその憎悪をリアルでぶつけてくる人がいっぱいでてきたらって思うと凄く怖い。 そんな大袈裟なって言われるかもしれない。ていうか大袈裟な話で私が杞憂しているだけなら寧ろ大歓迎だ。 今でさえ女ってことで色々不利くらってるのに、彼らが社会に出てきて更に不利益くらったり、 女ってだけで言われもない暴力や事件を起こされたらと思うと普通に怖い。 女嫌いになったって人は、そ
ブログ書き始めて1年と1ヶ月。 (そのうち5ヶ月は休んでたけど) そのうち2つだけが大きくヒットした。 異性をほぼ確実に落とす方法:あるSEとゲーマーの四方山話 ■ニコニコ動画が日本の政治を変えるかもしんない。 - don’t think... http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20080213/1202912821 これは昨日書いた記事。現在90はてブぐらい。 とても不思議だ。 僕としてはこの記事だけ手間暇かけたわけじゃなく 他の記事ではそれ以上の手間暇かけたものや、 自分で会心と思うエントリーは他にある。 でも、この2つだけが他を引き離して大きく共感を得ている事実! 「異性〜」の方は論理の組み立てと、そのひっくり返し方が良いのはわかるので、まあ納得はしても 「ニコニコ〜」の方は、他に書きたいことあって、これもついでに、、 ぐらいの軽いエントリーでしかない
このブログも既に二歳を超えるに至った。色々なことを書き残すのに役立てたり、誰かとお喋りをする為の文章を書き送ったり(トラックバック)するのに大活躍だ。ちょっとした文章を書き溜めたり誰かに送ったりするには便利なツールだと思う。 でも、ブログは日単位・エントリ単位でどうしても区切られてしまう。しかもログがどんどん前のページに送られてしまうので、もしもブログを使って全40回の連載をやるとなれば、もう他の種類の書き込みを一切しないという前提で連載するように、あくまでそれに特化しなければ多分難しく、日々異なるタイプの書き置きを繰り返す一般的なブログのスタイルでは、そのような大きなまとまりをでやるのはかなり難しい。勿論他の書き込みをいったんストップすればそれは出来なくも無いが、他の書き込みをストップしなくても可能なwikiやウェブサイトに比べれば面倒さが目立つ。 「木を書こう」とか「何回かに分けてちょ
少なくとも私はそれを読みたい。「なんか書かなきゃ」で書かれたエントリーよりも、「あ、これ書きたい」で書かれたエントリーを読みたい。 「あ、これ書きたい」だけで埋めつくされたブログって、きっとすげー面白いブログになるだろうし、いつか必ず誰かが突き当たって、「あ、すげー面白い」と感じると思う。Webの読者ってホント凄い。「誰かが面白いと感じる」ものを絶対に見逃してくれない。 で、重要なのは「あ、書きたい」と思うペースであって。それは多分脳みそが息継ぎをするペースっていうか、表現欲求が空腹を感じるペースっていうか、割と生理的なもの、てきとーなものであって。24時間なんて人工的なペースで規定出来るものじゃないんじゃないかなあ、と。 これ読んで、なんとなくそう思いました。まあ、ペースなんてものはそれこそ人それぞれなんだろうけど。 私は書きたい時に書きたいことを書くし、他の人が書きたい時に書いた記事を
毎年毎年、男女を一喜一憂させているといわれているバレンタインデー。しかし、以下の記事を読むと、一体バレンタインって何なんだと改めて首を傾げてしまわずにいられない。 http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080206/trd0802060816002-n1.htm バレンタインが生む心の重圧というと、ネット界隈では「貰えない男性」の悩みが話題になりやすいが、何のことはない、渡す側だって辟易している部分はあるということなのだろう。勿論、「この人にだけはあげたい」という人には嬉々として彼女達もプレゼントを贈るのかもしれないが、ここまでおおっぴらになってここまで慣例化・儀礼化してしまったバレンタインにおいては、もはや、本当に贈りたい人にだけこっそり贈れば良いというほど話は単純では無くなってきているし、貰う側も貰う側で「貰ったら嬉しい」というよりは「貰わなければがっ
今はあまり見かけなくなったが、以前、テレビでこんな番組をよくやっていた。それは、違う文明に生きるアフリカの部族を日本に連れてきて、そのカルチャーギャップに驚くさまを描くといったようなものだ。「田舎者を笑う」みたいな視線で申し訳ないなと思いつつも、電車やエスカレーターにビビリまくる彼らを見て、ついつい大笑いしてしまったものだ。 それはさておき、本書の著者は以前、『99.9%は仮説』をものして話題になった科学作家だ。その冒頭では、イキナリ「飛行機はなぜ飛ぶのか? 実はよくわかっていない」なんて議論が展開されている。翼で「圧力差」や「空気の渦」を作り出し、それが揚力となって機体は飛んでいる――。こういった“科学的説明”がまことしやかに語られているが、それはさまざまな経験則による推測にすぎず、決定的な根拠はないというのだ。 この話は刺激的だった。というのも、「科学には意外と“人間味”がある」という
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