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日本人で初めてチベットに入った人物は誰か。河口慧海(えかい)(一八六六― 一九四五年)の名がよく挙げられるが、それより先に実現した二人の日本人がいた。能海寛(のうみゆたか)(一八六八― 一九〇一?)と寺本婉雅(えんが)(一八七二― 一九四〇)という浄土真宗大谷派の僧である。その二人が日本に持ち帰った仏典などを紹介する大谷大学博物館(京都市北区)の企画展は、歴史に埋もれた二人の再評価を促しそうだ。(武藤邦生) 能海寛ら僧侶の軌跡 能海は島根県浜田市の寺に生まれた。東本願寺で得度し、慶応義塾、哲学館(現・東洋大)などで学んだ。 チベットへと目を見開かせたのが、英・オックスフォード大でも仏教研究をした南條文雄(ぶんゆう)だった。当時のチベットは、周辺からの侵攻にさらされるなど情勢が不安定で、旅には大きな危険を伴ったが、南條から仏教研究の方法論などを学んだ能海は、仏典を求めてチベット行きを決意。
南下するロシアの動き、幕府は蝦夷の実地調査を行う 1789(寛政元)年、松前藩の支配下にあった蝦夷地(北海道)でアイヌの人々の反乱が起こった。幕府は反乱の背後に、千島列島伝いに南下してくるロシア人の動きがあると見て、神経を尖らせ始める。 翌年の1790(寛政2)年、米国船が紀州沖に寄航。さらに次の年、1791年には別の外国船が対馬海峡を横切ったとの情報が伝わった。 1792年9月、とうとう歯舞群島近くの根室に一隻のロシア船が入港し、日本の漂流民を送り返すとの名目で、日本との交渉を要望してきた。 時の老中・松平定信は、日本に近寄った外国船に対して穏便な処置を取るよう指令する。海防体制が不十分なため、強硬な措置を講ずることができなかったからだ。 1794(寛政6)年、ロシアが千島に植民地を建設。国後島はすでに松前藩の支配下にあった。残る択捉島を巡って、日露が角を突き合わせる状況が展開してきた。
皆さんが4人の脱北者が船で日本に逃れて来たことに驚いている間に、僕は彼らの国との国境に行ってきました。40年前、文化大革命の嵐から逃れるため、僕が親に連れられ内陸の山東省から逃れて来た場所です。 僕が5年間住んでいた家は国境の河、鴨緑江に面する急斜面に家族が建てました。写真の僕は我が家のあった場所から数十メートル下に降りたところに立っています。対岸は北朝鮮です。 逃亡先は桃源郷 僕の家族は文化大革命で酷いいじめに遭ったため、国境の無人区を目指して夜逃げしました。住民が少なく政治闘争がないからです。遠い親戚が、そこに住む三叔(サンスウ)の一家を紹介してくれました。 僕たち一家は数日かけてSL(蒸気機関車)列車で国境に近い駅まで乗り継ぎました。さらに駅からは馬車に乗り換えて目的地まで移動しました。国境に近い村に着いた時はもう夜でした。 その先は道がないため、僕たちは月の光を頼りに凍りついた国境
質問 ANIMEやMANGAで、登場人物がどこか旅しているときに何度も小屋や屋根つきの小さな建物とでくわす場面がでてくることに気が付きました。あと、そこにはよく食べ物が置いてあります。米国西部で見られる丸太式住居のようなものですか。 回答 日本にはたくさん神社があって、とりわけ道端で見かける祠(ほこら)は日本古来の精霊信仰をよく表しています。ここ米国の丸太小屋は辺境開拓時代のなごりですが、日本の神社はそうではありません。日本の神社は歴史の遺品ではないのです。神社は日本人の信仰心を支える役目を担ってきました。 ここ米国での丸太小屋は、大陸奥に広がる未知の土地を自給自足で開拓した時代を思い起こす建物です。素朴だった時代の象徴として、アンティーク品の地位に今はあります。日本の神社は今のものではないにせよ、現代日本の価値観や信仰心を司る存在であることに変わりはなくて、つまり丸太小屋とはまるで違いま
「比叡山炎上」の件で、情報収集中。以下はとりあえずのメモ。 戦国期の貨幣単位がよく分からないので、確認のため、「戦国時代」&「貨幣制度」でネット検索してみると、とんでもないことが分かる。 ●戦国時代は貨幣不足? 平安期に鋳造された皇朝十二銭以来、500年、日本で公式に鋳造された貨幣はなく、輸入した中国の銅銭を用いる他は、物々交換、もしくは、金銀を計量して貨幣に代用する。 平安以降、貨幣が公式に鋳造されなかった理由は二つ。 【1】幕府は日本の代表ではなく、公式には鋳造権を持たない。 【2】金を作っても、その貨幣に信頼性が得られるほど、権威が確立していなかった。 鎌倉幕府も、室町幕府も、金を作らず、中国経済圏の共通貨幣である中国銅銭に依存していた。それも十分な貨幣量に達しなかったので、中世日本では貨幣不足によるデフレ傾向にあった。 ……足利義満が明貿易に精を出した理由もこのあたり。貨幣鋳造の代
血のバレンタインに向かって、締め切り収束中。 引き続き缶詰生活決定なので、頭を冷やすために、日記をつける。 ●ハワイの神社史 タイトル通りの一冊なれど、なかなかヘビーな神社史。 明治から戦前にかけて、ハワイ移民によって創建されたハワイの神社は57社に上ったが、太平洋戦争の勃発により、敵国の宗派として、解散、没収、閉鎖、神職の逮捕などの憂き目にあいつつも、信徒組織を維持し、戦後、少数が復活。 アメリカ社会の中で、20世紀末までハワイ州で生き残ったのがハワイ七社、すなわち、ヒロ大神宮、ハワイ大神宮、ハワイ出雲大社、ハワイ石槌神社、マラネア恵比寿金毘羅神社、マウイ神社、ハワイ金毘羅神社(およびハワイ大宰府天満宮)である。 ●擬人化たんの法則 先週の金曜日。 ライター科の生徒が『擬人化たん白書』を持ってきた。いわゆる何でも美少女化してみようという一冊。 当然ながら、早速、実習。 『擬人化たん』を作
犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。 存在論は、自分自身の人間存在に対する戦慄と恐怖の経験である。存在論の地点から見てみれば、人権論とは、このような恐怖のごまかしと緩和にすぎない。人権論は希望に満ちて語られる反面、堅苦しくて小難しい。また、明るく語られる反面、政治的な血なまぐささがある。 無罪の推定というイデオロギーがあるが、これも存在論からすれば大した意味はない。そもそも「無罪」という概念は、「有罪」という概念を前提としなければ存在し得ないからである。すなわち、「無が有る」ことを前提としなければ、それは「無罪」ではなく、「無」になってしまう。無罪を有罪よりも先に推定することは、論理的には不可能である。それは、1つの法政策の仮説としてのみ納得しうる。そして、仮説であればいつでも変更することができる。 ハイデ
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