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ブックマーク / www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa (2)

  • ある多言語国家の経験

    私は5、6年ほど前から多言語社会研究会のメンバーになってはいるが、あまり真面目な会員ではなく、どことなく「余所者」意識が抜けない。そのような者が大会の場で「講演」なるものを行なってよいのだろうかというおそれのようなものを感じる。しかし、せっかく大会企画者によって機会を与えられたので、いわば「風変わりな会員」による「異端の問題提起」のようなものをさせていただき、ご批判を受けて、対話と討論のきっかけとすることができればと期待している。 そこで先ず、どういう意味で「風変わり」で「異端」の会員なのかということを説明しなくてはならない。第1は単純なことで、私は若い頃からずっと言語学に憧れていたが、それは漠然たる憧れにとどまり、実際には言語学も社会言語学格的に学んだことはない。また語学の才能に乏しく、多数の言語をマスターしているわけではない。多数の言語を操ることのできない者が「多言語社会」について

    karpa
    karpa 2007/12/28
    >ソ連解体に際しても、ロシア共和国政権のソ連政権への反逆がとどめを刺した。大英帝国にイングランドが反逆するとか大日本帝国に日本が反逆するというようなことは想像もできないことを思えば、その特異性は明らか
  • 論文の書き方 (Ver. 2.7) - 塩川伸明

    *この小文は、最初は学部学生のレポート執筆を念頭において書いたものだが、それにしてはやや要求水準が高すぎたので、むしろ大学院生向けの論文作法として書き改めた。そのようなものとしてみた場合、ある意味では当たり前のようなことを書いてあるが、実は、当たり前のようなことがなかなか実践できないというのが現実であり、「言うは易く、行なうは難い」ということを痛感する。私自身を含めて、既に研究者になった人間も、守るべき作法を当に守っているか、時々反省してみる必要があるのではないかと思う(2001年2月)。 大学生やあるいは社会人も種々の調査レポートを書いたり、研究発表をする機会がよくあるだろうが、「研究論文」というものは、それらと――似た要素ももちろんあるが――同じものではない。では、どこにどのような特徴があるだろうか。 「研究論文」とよばれるものの最大の特徴は、予め「正解」がどこかにあって、それを見つ

    karpa
    karpa 2007/12/27
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