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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/aureliano (18)

  • ぼくの名前 - ハックルベリーに会いに行く

    みなさん、こんにちは。初めまして、ぼくの名前は岩崎夏海と申します。今日は少し、ぼくのことについて書こうと思います。 ぼくは1968年(昭和43年)に生まれました。今年で41歳の、職業は会社員です。 ぼくは東京の新宿で生まれました。生まれてすぐ、親の仕事の関係でいくつかの場所を転々と移り住んだのですが、3歳の時に東京の日野市に落ち着きました。日野市は、東京の西、新宿からは京王線の特急で30分ほどの距離にあります。立川と八王子という二つの大きな市に挟まれていて、存在自体はマイナーですが、それなりに多くの人が住んでいます。日野市は多摩丘陵の一角に当たり、ぼくの住んでいた地区はとても坂が多いところでした。またその一帯は、昭和30年代に山林を伐り開いてできたベットタウンで、多くの雑木林が点々と散在している、とても自然豊かなところでした。ぼくはここで11歳までを過ごしました。ですので、ぼくにとってふる

  • 自己実現をはかれる人の7 つのチェックポイント - ハックルベリーに会いに行く

    ついひと月ほど前、転職活動をする中でさまざまなところを訪問し、さまざまな人たちとお話をさせて頂く機会があった。その中で特に印象に残ったのは、とあるベンチャーキャピタル(VC)にお勤めの方のお話しだった。名前を仮にAさんとしておく。Aさんは、職業柄さまざまなベンチャー企業の人たちとお会いする。特に社長と会う。その上で、彼らの会社が今後成長していくかどうかを見極めていくのだけれど、その際の評価基準となるのは、一も二もなく「社長そのもの」なのだということだった。こう言ってしまっては何だが、事業内容や設立趣意などはあんまり見ないのだそうである。感覚でいうと八割から九割が社長で判断するらしい。Aさんが言うには、社長は会社の顔であると同時に、会社の性格でもあるという。社長の性格が、会社の性格にもそのまま反映されるからなのだそうだ。大企業ではそういうことはないのだが、中小企業、特に新興のベンチャーにおい

  • 新人プログラマーがプロのプログラマーとして独り立ちするための7つの条件 - ハックルベリーに会いに行く

    ぼくは以前にIT関連の仕事をしたことがあって、ぼく自身はプログラムを組めるわけではないのだけれど、何人かのプログラマーさんと一緒にお仕事をさせて頂く機会があった。その中で生まれて初めてプログラマーという職業の方と交流させて頂いたのだけれど、彼らはなかなかにユニークで特異な個性の持ち主たちであった。もちろんプログラマーと一口に言っても色々なタイプがいて、必ずしもひとくくりにできるわけではないのだが、共通していたのは好奇心が旺盛で新しい物好きだということだった。そして少々気難しい面がありつつも、基的にはポジティブで、明日に向かって色々なことを前向きに、精力的に取り組んでいる人が多かった。 そんな中で、特に親しくお話しさせて頂いたTさんというプログラマーがいて、この方もなかなかに個性的で、ご自分の意見や主張というものをはっきりと持っており、ITのみならず世の中に対しても一家言お持ちであった。そ

  • コンピューターゲームにおける「水と器」理論 - ハックルベリーに会いに行く

    前にゲーム制作をする人から聞いた話。 ゲームウォッチは、今遊んでもそれなりに面白いのに、同じ内容のゲームを、例えばPCのFLASH上で走らせると、なんだか貧相に見えてしまうのはなぜだろうか? そこには色々な要因があるのだろうけど、一つには、ゲームとハードのスペックのバランスがあるのではないだろうかという話だった。 ゲームウォッチ上で動くゲームは、ハードのスペックをほぼ限界まで使っている。もともと貧弱なハードなのなのだから、例えゲームが貧弱でも、それほど気にはならない(むしろ「スペックの割には頑張ってる」と豪華にさえ見える)。一方PCでそれを走らせると、ハードのスペックの一部分しか使っていない。ゲームウォッチくらいの内容ならば、文字通り「小手先」で動かせることができる。そのため、ゲームの貧弱さというのが際立ってしまう。 それは、例えて言うなら「コップと樽に入った同じ量の水」だと彼は言った。例

  • 他人の気持ちを慮れないことが蔑まれた原因だ - ハックルベリーに会いに行く

    「勉強ができる」というのは別に蔑称でもなんでもない。蔑まれたと感じるのは、そう思い込んでいるだけだ。被害者意識をこじらせた結果である。 こういう記事があった。「勉強ができる」という蔑称 - 理系兼業主婦日記それ以来、私には「頭のいい子」という称号がついて回った。賞賛の意味でそう呼ばれることが多かったが、「変わってる」「すかしてる」という意味での蔑称として呼ばれることもあった。だから、私は「頭がいい」と言われることが、どうしても好きにはなれなかった。「まじめ」「いい子」という呼び名も、同じ意味で嫌いだった。 そう言って、この人は「頭がいい子」というのが蔑称であったと主張する。そうしてそれは、勉強ができる子に特有の問題だとする。日には、勉強ができる子を蔑むような風土があって、それで自分は苦しい思いをさせられてきたし、また他にもさせられている「勉強のできる」人々がいると。 確かに、そういう場合

    keisuke_yamane
    keisuke_yamane 2008/12/25
    for paradaise
  • フォークボールの投げ方 - ハックルベリーに会いに行く

    野球をやっていたという人はそれなりの数いて、草野球でもやろうものなら皆それぞれ昔取った杵柄を披瀝し合ったりするのだけれど、フォークボールを投げられる人というのはそう滅多に会うものではない。野球をやっていて、それこそ甲子園に出たという経歴を持つような人でも、野手だったらまずもってフォークボールは投げられないし、ピッチャー経験者にしたってそう多くはない。 フォークボールというのは不思議な変化球で、その存在は誰もが知っているけれども、高校生で投げるというのはほとんどいない。しかしそれがプロになるととたんにぐっと多くなる。名投手にフォークボールを決め球にしていた人は多くて、だから変化球の中でもどこか神秘的な、特別な地位にあるのがこの球種だ。 ぼくはこのフォークボールを投げられるのだけれど、別に野球をやっていたというわけではない。厳密に言えば小学生の時までは地域の野球少年団に所属していたが、それ以降

  • 0024「教えることを教える」 - ハックルベリーに会いに行く

    アイデア1000ノック教えることというのはとても勉強になる。ぼくは教育者ではないが、それでも仕事で何かを教えてたことはある。その時に気づいたのは、誰かに何かを教えようとする時、それは自分にとっても大いに勉強になるということだ。自分にとっても気付きとなる。 例えば子供を見ていると、「こうすればもっと良くなるのになあ」と思うことがある。そうして、それを伝えようとする。その時に、「あ、良いってこういうことだったんだ」と、自分自身気付かされるのだ。「面白いってこういうことなんだ」「良くなるってこういうことなんだ」というのが、教えようとした時に初めて気付かされる。 人を教育するというのは、その人自身にとっても教育になるのだ。だから、例えば高校の部活動などには、誰かに教えることをカリキュラムとして盛り込むと良いのではないか。例えば野球部だったら、近くの中学校や小学校に赴き、年下の子供たちに野球を指導

  • 目標を作り、与えられる人間こそ本当のマネジャーだ - ハックルベリーに会いに行く

    これまで生きてきて思うのは、「目標を作る」というのはそんなに簡単なことではないということだ。むしろ難しい。みんな目標を作れなくて苦労しているんだ。目標が上手く作れなくて、日々の生活が生き生きとしたものになっていないということはままある。 この目標というのは、誰にでも作れるものではない。それは努力とかとも無関係のような気がする。努力したからといって目標を作るのが上手くなるとも限らない。第一、そんな方法は誰も教えてくれない。目標は、やはり作ることの上手い人と下手な人がいるのだ。そして目標を作るのが上手い人というのは、これはもう圧倒的に上手い。彼は自分の目標を作るだけではなく、他人の目標までをも作ることができる。彼はビジョナリーなのだ。彼は他人のビジョンまで見通すことができる。そして他人の目標を作ることができる。他人の目標を作って、それを与えることができるのだ。 目標を作り、与えられる人間こそマ

  • 英語に圧倒的に一人勝ちする7つの言い回し - ハックルベリーに会いに行く

    英語というのはぼくはほとんど喋れないのだが、ぼくの友人英語に圧倒的に一人勝ちしている人がいる。彼は、なんでも行く先々で「お前はおれが会った日人の中で一番英語が上手いな」といつも言われるのだそうだ。しかし彼の英語は、確かに威勢と度胸は良いのだが、単語をそんなに知っているわけでもないし、発音だって日英語丸出しだ。彼自身もそれを自覚していて、だからなんで自分がそんなに上手い上手いと言われるのか、長いあいだ疑問だったのだそうである。 そんなある時、この日も初めて出会った人に「お前の英語は最高だな」と言われたもので、とうとうなんでそう思うのかを聞いてみた。すると、その答がふるっていた。なんでも、彼の英語は、聞けば一発で日人と分かるたどたどしいものなのに、実に気持ち良くコミュニケーションできるのだそうである。その人に言わせると「日人というのは、英語が分からないとたいていはにかんだような笑顔

  • 芸大に受かる受験絵の描き方 - ハックルベリーに会いに行く

    はじめにもうそろそろ11月になるけれども、受験勉強もこれからがいよいよ佳境というところだろう。そしてそれは、美大の受験生にとっても同じはずだ。美大の受験生にとっては、これからの数ヶ月間の過ごし方が当にだいじになってくる。 ただし絵というのは(特に受験に必要な「受験絵」は)、普通の勉強と違って、きっかけさえ掴めれば一夜にして上手くなる。一皮むければ、一気に合格圏内に突入できる。だから、だいじなのは「そのきっかけを掴むこと」だ。それは鉄棒の逆上がりのようなもので、ある日突然できるようになる。普通の勉強のように、コツコツとした積み重ねが必ずしもだいじというわけではない。だいじなのは脱皮することなのだ。一皮むけること。そのきっかけを掴むことである。もちろん、それを掴むためには、日々のコツコツとした積み重ねも当然必要なのだけれど、それ以外にも、ちょっとした発想の転換や視野の広げ方で、突然それができ

  • あの内藤はどこへ行ってしまったのだろうか? - ハックルベリーに会いに行く

    ネットの世界で今でもよく見られる「うはwwwおkwwwww」という言い回しは、もともとは2ちゃんねるのFFXIのネタを主に扱っていたネトゲ実況掲示板(通称ネ実)から2ちゃんねる全体に広まって、そこからさらにネット世界全体に広まったらしい。それ以前は、FFXIの中で、あるいはそれ以前のネットゲームのごくごく一部の者のあいだでのみ使われていたマイナーなスラングに過ぎなかった。 その頃のネ実には、そうしたスラングを生み出し、また広めるだけの大きな力があった。当時のネ実には魔力があった。そこにはとてつもない吸引力があり、面白いやつがどんどん集まってきた。そうして、その面白いやつらがどんどんと新しい文化を生み出し、新しい面白さを生みだしていった。いわゆる「ブロントさん」を生み出したのもネ実であるが、ブロントさんほど広まりはしなかったものの、それ以上に強力な「内藤」という概念をも生み出していた。 「内

  • 甲虫王者ムシキングの話 - ハックルベリーに会いに行く

    もう今は全くちっとも読んでないのだが、昔は「CONTINUE」という雑誌が好きで、舐め尽くすように読んでいた。その頃、ぼくはもうほとんど雑誌というものを読まなくなっていたのだけれど、ただ一冊読み続けていたのがこの「CONTINUE」だった。 その頃の「CONTINUE」には、流行を先取りするような興味深い記事が色々あった。中でも、まだ世間的にブレイクする前の木村カエラやGTAに言及していた記事は白眉だった。おかげでぼくは、ぼくの周りの人間よりはちょっとだけ早く、木村カエラやGTAのことを知ることができたのだった。またこの雑誌ではずいぶん前からPerfumeを数多く誌面に登場させていて、その意味でもずいぶんアンテナが立っていた。 この雑誌に、読んだ当時強烈なインスパイアを受け、今でも時々読み返す記事がある。Vol.25に掲載されていた「甲虫王者ムシキング」の特集だ。中でも、そのプロデューサー

  • http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081013/1223886213

  • 制限された条件下で作られたものの方が良いものができる - ハックルベリーに会いに行く

    面白いとは何だろう?当に面白いものというのは制限された条件下で作られる。人物金が潤沢な、開放された環境下では、かえって作られない。やりたいこと、実現したいプランはあるのに、技術が追い付かない。人手も予算も足りない。それくらいがちょうど良い。そうした時にこそ、当に良いものが生まれる。その足りないものを工夫で補おうとし、アイデアや新しい表現方法が生まれるからだ。また、要らないものをとことん削ることによって、シェイプアップされるということもある。 良い例がゲームだ。ファミコンの時代は、表現したいものはたくさんあったのに、技術が限られていてできないことが多かった。実現できるものが制限されていた。だから、みんなその中でしのぎを削った。そんな中で、どんどん工夫やアイデアや表現方法が生み出されていった。 しかし、技術の進歩と共に、やがて実現できることの幅は広がった。制限は限りなく少なくなっていった。

  • 『私塾のすすめ』を読んで「自己内対話のメソッド化」 - ハックルベリーに会いに行く

    いま、齋藤孝さんと梅田望夫さんの「私塾のすすめ」を読んでますが、とても面白いです(まだ途中ですが)。その中に、一つ気付かされたことがあったので、それについて書きたいと思います。それは「自己内対話」についてです。第3章「『ノー』と言われたくない日人」の中に、「自分のなかに私淑する人をつくる」という項があるのですが、その141ページにこんな記述があります。梅田 (前略)ただそこでも「自己内対話」はとても大切ですね。齋藤 「自己内対話」とは、自分でいつも自分と対話しているということでなくて、自分のなかの他者と対話するということです。自分のなかにどれだけ他者を住まわせられているかがポイントになります(後略)」これについて、ぼくは以前にとても感心し、また興味を引かれていたことがありました。それは脚家の三谷幸喜さんの話なんですが、彼は脚を書く時の物差しの一つとして、常に「ワイルダーならどうする?

  • ぼくの人生を変えたゲーム - ハックルベリーに会いに行く

  • 女子アナは置屋の芸姑と言った女子アナがいた - ハックルベリーに会いに行く

    昔聞いた話なのだけれど、その頃、自分を売り出すことにかなり意識の高い、戦略的な女子アナがいた。その時はまだ若かったのだけれど、スマートさ、クレバーさ、したたかさをすでにして備えた、かなり強い女子アナだった。ぼくはその女子アナ(仮にAとする)に興味を抱いていた。一緒に仕事をしたことはなく、テレビで見るだけだったのだけれど、画面を通しても明らかに異彩を放っていることが分かって、強く惹かれるものがあった。それで、Aと一緒に仕事をしたこともある旧知のテレビディレクターの何人かに「一体どんな人物なのか?」と聞いてみたことがある。するとそのディレクターたちも、Aに対してはぼくと同種の興味を抱いていたらしく、色々見聞きしたり知っていたりすることがあって、それをぼくに教えてくれた。それは、当時のぼくにとってはかなり「面白い話」だった。そこで聞いたAの話は、かなりインパクトのあるもので、ぼくは強いインスパイ

  • もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら - ハックルベリーに会いに行く

    はじまりもし高校野球の女子マネージャー(名前は仮にみなみちゃんとしよう)が、ドラッカーの「マネジメント」を読んだら、彼女はきっと驚くだろうな。なぜなら、そこには彼女が所属する野球部と、彼女自身のことが書いてあるからだ。「マネジメントなしに組織はない」「マネジメントは企業だけのものではない」「マネジャーをしてマネジャーたらしめるものは、成果への貢献という責務である」 「所属する野球部に何とか成果を出させたい。そのためには自分に何かできることをしたい」そう考えていたみなみちゃんは、このが「自分のために書かれたもの」であることを確信する。だから以降、そこに書かれていることを脇目も振らず実践するようになる。 野球部におけるマネジメントの役割みなみちゃんは、「マネジメント」を読み進める。するとドラッカーは、マネジメントには三つの役割があると説く。そこでみなみちゃんは、それらについて一つ一つ自分に当

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