自己責任論乙。
ニュース解説「時論公論」です。「京都アニメーション」のスタジオが放火され34人の命が奪われ、34人が重軽傷を負った事件。理不尽な犯行への怒りと悲しみが広がっています。被害はなぜここまで大きくなってしまったのか。多くの人を巻き込む殺傷事件が相次ぐ背景に何があって、防ぐ手立てはないのか。今夜は消防を取材している私と堀家委員のふたりで、突きつけられた問題を考えます。 堀家) なぜ何の落ち度も無い多くの人が命を落とし、将来を奪われなければならなかったのか。事件の動機や背景の解明が欠かせません。この事件では放火や殺人などの疑いで、さいたま市に住む青葉真司容疑者に逮捕状が出ています。ですが、全身に重いやけどを負っているため、事情聴取が行えず犯行の動機など詳しいことはわかっていません。一方、住んでいたアパートで騒音トラブルが起きていたことや近所付き合いが無かったと見られることが明らかになっています。こう
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「ひきこもり」という言葉が大きな注目を集めるようになったのは2000年前後。それから十数年。なぜ、今も多くの人がひきこもるのか。どう理解し、支えていけばよいのか。精神科医の斎藤環さんとともに、回復へのヒントを探ります。 ある青年の場合 きっかけは就職活動でのつまずき 新潟県に暮らす俊行さん(35)。6年間にわたるひきこもりから脱し、今、就労を目指しています。 中学・高校では「学級委員」を務めるなど人望がありスポーツも万能、たくさんの友達にも恵まれていた俊行さんがつまずくきっかけとなったのは、大学時代の就職活動でした。当時は「就職氷河期」。友人も皆就職活動で忙しく、また「心配をかけたくない」と思うあまり、家族にもSOSを出すことはできませんでした。 俊行さんは就職先が決まらないまま大学を卒業し、地元へと戻ってきました。23歳のとき「何とか正社員として働きたい」と考え、近所の小売店に“店長候補
先日、少し前に書いた記事がきっかけで東京FMのタイムラインというラジオ番組に出演させて頂いた。 これも日々記事を読んでくださる皆様のおかげである。誠に感謝申し上げる。 ラジオでは、無敵の人とネット福祉について話させていただいたのだけど、せっかくなのでラジオでは話せなかった事も含めてちょっと記事に書き起こしてみようかと思う。 無敵の人を作る、2つの条件 改めて無敵の人の定義を確認しておくと、彼らは”人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない”人達の事である。 無敵の人という単語が一般的に通用するようになったのは2008年の秋葉原通り魔事件である。この事件は当時は衝撃が強すぎた事もあり、色々な報道がなされた事もあってあまり正しく理解されていない。 この事件を正しく読み解くためには、犯人である加藤智大氏の書かれた”解”という著書が参考になる。恐らく殆どの方が
日本全国、どこでもSNSで他人とつながり、Googleで調べればどこにでも行ける世の中ーー私たちはそう思い込んで暮らしている。でも、それは本当の「つながり」なのだろうか。そんな毎日から、こぼれ落ちている視点や感情はないだろうか。 デビュー以来、多くの作品で「地方や郊外に生きる普通の女性」の内面を描いてきた作家・山内マリコ。彼女が新刊『選んだ孤独はよい孤独』で主題に据えたのは、2000年代以降の日本に生きる男性の葛藤だった。そこには、「つながり」に縛られ、他人からどう見られるかを常に意識する現代人の「孤独」が描かれている。 山内氏と、かねて親交のあるライター・編集者の速水健朗氏が、「つながらざるを得ない社会」との距離感を語った。 (撮影:丸山剛史) 毎日、どこかが燃える世界で 速水:山内さんが作家としてデビューされたのはいつでしたっけ? 山内:最初の本(『ここは退屈迎えに来て』)が出たのが2
政府が2017年版「子ども・若者白書」を閣議決定しました。そのなかで若者と居場所、悩みを相談できる相手の有無に関する意識調査があります。 ・共同通信:無職だと孤立の恐れ 居場所少なく、若者白書 ほっとできる「居場所」や悩みを相談できる相手の有無に関する若者の意識調査を掲載。無職だと居場所が少なく相談相手も限られ、孤立状態となる恐れが大きくなることが浮かび上がった。 出典:共同通信 ・時事通信:若者に「居場所」を=17年版「子ども・若者白書」-政府 調査は昨年12月に全国の15~29歳の男女6000人を対象に実施。「自分の部屋」「家庭」「学校」「職場」「地域」「インターネット空間」の六つの環境から「居場所」と感じる数と、生活の充実度の相関を調べた。それによると、居場所が一つもなく「生活が充実している」と回答した人が25.3%だったのに対し、居場所が六つで「充実している」と答えた人は89.9%
すくらむ国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。 一昨日、NHKスペシャルで「無縁社会 - 新たな“つながり”を求めて」が放送されました。 「無縁社会」については、このブログで2度レポートしています。(①NHKスペシャル「無縁社会 -無縁死3万2千人の衝撃」 -壊れる家族・地域・仕事 、②NHK「無縁社会」の衝撃 - 若者を無縁社会の悪循環に追い込む自己責任社会 ) 今回は、20代や30代など働く若い世代の無縁化に焦点をあてています。同じNHKスペシャルの「ワーキングプア」のシリーズでは、貧困状態の中でもなんとかそれぞれの働く姿があったわけですが、この「無縁社会」では「職場」も「家族」も「地域のつながり」も失われ、自分の居場所さえもない「死に追い詰められる人たち」の姿がありました。「人はつながりの中に自分の存在や役割を感
すくらむ国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。 「無縁社会」という言葉は、「2010年新語・流行語大賞」のトップテンに入り、NHK「無縁社会」制作チームが表彰されています。「流行語」にまで浸透させたことには一定敬意を表したいと思うのですが、厳密に考えると、今の日本社会を「無縁社会」と言って批判してしまうと、昔のような「有縁社会」に戻ればいいと主張しているかのような誤解は招きやすいでしょう。 実際、上武大教授の池田信夫さんは、ブログで「『無縁社会』キャンペーンの恥ずかしさ」 と題して、NHKに対し、「日本は本来『有縁社会』で、その縁が失われるのは嘆かわしいという湿っぽいノスタルジアだ」、「『無縁社会を解消』して古きよき有縁社会をいかに取り戻すかというノスタルジア」、「個人主義にもとづく市民社会は快適ではないが、日本が自由
2010年04月13日01:20 カテゴリ本科学/文化 無縁・公界・楽 NHKの「無縁社会」という特集が、大きな反響を呼んでいるらしい。グーグルで検索すると、129万件も出てくる。私もちょっとそれにコメントしたら「変節したのか」とか、逆に「やっとお前も市場原理主義の弊害に目覚めたか」といったコメントが寄せられた。それぐらい、この問題は日本人の琴線に触れるのだろう。 人間は生物学的には個体として生まれ、個体として死ぬ「無縁」な存在だが、それは個体群のメンバーとしてしか生存できない。そこには、個体としての生存と集団防衛の矛盾という群淘汰の問題がある。このパラドックスによって多くの悲劇が生まれ、多くの文学が書かれてきた。 最近では、この問題は社会科学でもコミュニタリアニズムとかソーシャル・キャピタルなどという形で、学問的に論じられるようになった。鳩山首相の「新しい公共」円卓会議の座長になった金子
今夜、NHKでは追跡!A to Z「『無縁社会』の衝撃」が放送されていた。 一月に放送されたNHKスペシャル「無縁社会」のオンエアー中にTwitter上の#muenなどでつぶやかれた発言や反響をうけ、今回は前回よりぐっと年代を下げた30代や20代の、今まさに無縁の状態にあり、自分の将来に不安を抱えているという人たちを取り上げた内容だった(話は逸れるが、テレビとTwitterのインタラクティビティというのは、これぐらいがちょうどよいのかもしれない。「生放送中にTwitter上のつぶやきを紹介…」みたいな企画を何度か見た記憶があるが、どうも上手くいかない。前者と後者では、流れている時間のスピードからして違うのだろう)。 □□□□ 僕の視聴後の感想を一言で言えば、「半信半疑」。 まず、「疑」の部分。孤独の環境があたかも絶対悪であるかのような描き方には違和感ある。孤独の中から醸成されるものだってあ
きょうから「今日のコラム」を「OPINION」にバージョンアップして、執筆者も増やすことになりました(スケジュールは調整中)。 NHKの「無縁社会」というシリーズの番組が、反響を呼んでいる。ちょっと前の「ワーキングプア」の老人版という感じだが、ワーキングプアの実態がいかがわしいものだったのに対して、無縁社会は現代のかなり本質的な問題である。 無縁といっても、文字どおり親戚も友人もゼロという人はほとんどいない。故郷を離れてそういう縁が切れたり、本人がそういう束縛をきらっているというケースが多い。日本の場合は、都市で地域のコミュニティがほとんど機能しなくなったことも大きな原因だ。特に集合住宅では、隣の人の名前も知らないことも多く、老人が死んでから1週間も気づかれなかったといった事件も起こる。 これは日本の都市化が急速に進んで都市コミュニティが形成されなかった一方、会社という擬似コミュニティがで
先月末から、秋葉原通り魔事件の加藤の公判が始まっている。 事件後、会ったこともないのに勝手に「改革が悪い」と便乗していた政治家や活動屋もいたが、 出てくるのは「ブサイクに人権は無い」といった個人レベルの疎外感だけだ。 会社からも疎外されたじゃないかというロジックはおかしい。 雇用に“愛社精神”とか“家族意識”なんて気持ち悪いことを求めるのは一部の日本企業だけだ。 この手の疎外感は、誰でも一定程度は感じているはずだ。会社や学校はもちろん、地域に親しい 人間がいない、家族とも疎遠、というか家族がいないetc... もちろん、普通の人なら暴発する水準まで鬱積することはない。大なり小なりある多くの感情の 一つとして消化していけるようになっている。 ただし、特定のイデオロギーがあれば話は別だ。それは日常に存在する疎外を、暴発する水準まで 引き上げてしまう。 本書も述べるように、ジハードの聖戦士たちの
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