真田昌幸は有名な真田幸村の父親で、当人も優れた軍略家として知られた人物です。 しかし一方で「表裏比興(ひょうりひきょう)」の者、と評されたりもしています。 これは老獪なくわせ者、といった意味で、その才覚を褒めているような、嘲っているような、微妙なニュアンスが込められています。 どうして真田昌幸はそう評されるようになったのか、そのあたりをこの文章で書いてみたいと思います。 【真田昌幸の肖像】 真田家の三男として生まれる昌幸は信濃(長野県)の豪族・真田幸隆の三男として生まれました。 兄が2人いましたので、この時点では真田家の相続権を持っていませんでした。 真田家はこのころ甲斐(山梨県)と信濃を支配する武田家に仕えており、昌幸は7才の時に人質として武田信玄の元に送られます。 幼い頃から信玄にその才能を見出され、寵愛を受けたと言われています。 その後、成長した昌幸は跡継ぎのいない武藤家の養子となり
小早川秀秋は関ヶ原の戦いにおいて西軍を裏切り、東軍の勝利を決定づけたことで知られています。 その一点でのみ歴史に名を残している、と言ってもよいでしょう。 しかし秀秋がどのような来歴の人物であったのかはあまり知られていません。 この文章ではそのあたりに触れつつ、秀秋がどうして東軍に寝返ったのかについて書いてみようと思います。 【小早川秀秋の肖像】 秀吉の養子になり、後継者候補として育つ秀秋は天下人・豊臣秀吉の義理の甥として誕生しました。 父は木下家定といい、秀吉の妻・ねねの兄です。 本能寺の変が発生した1582年に生まれています。 3才の時に実子のいない秀吉の養子として引き取られ、ねねの元で成長することになりました。 元服して羽柴秀俊を名のり、わずか6才の時に諸大名からの起請文を受け取ったり、秀吉の代理として天皇への誓いを受け取るなど、公的な場での活動が認められます。 (秀秋は生涯で何度か姓
真田幸村は大坂の陣で活躍し、「日本一の兵(つわもの)」とまで称された武将です。 戦国時代の最後の戦いを飾った武将として半ば伝説化したため、美化して語られることが多い人物でもあります。 この文章では、そんな幸村がどのような生涯を送った人物だったのか、について書いてみます。 【真田幸村の肖像画】 実名は信繁「幸村」というのは後世の軍記物などに記された名前であり、「信繁」というのが歴史上では正しい名前です。 この文章では、よく知られた幸村の名で呼んでいきたいと思います。 さて、信繁は父の真田昌幸によって付けられた名前ですが、これにはどのような意味が込められているでしょう。 信繁というと、同名で著名な人物に武田信繁がいます。 武田信繁は武田信玄の弟で、人望が厚く、兄をよく補佐し、その代理として戦場で大将を務めることがあるほどに信任されていました。 上杉謙信と信玄が争った「川中島の合戦」で戦死してお
織田信長を本能寺で殺害し、織田氏の覇権を打ち砕いたのは明智光秀ですが、その後さらに織田氏の力をそいでいったのが羽柴秀吉でした。 明智光秀と羽柴秀吉、このふたりには意外と多くの共通点があるようです。 この文章ではそのあたりに触れ、どうして信長によってその身分を大きく引き上げられたこの2人が、織田氏を衰退させるふるまいに出たのか、そのあたりを考えてみたいと思います。 【明智光秀の肖像】 明智光秀と羽柴秀吉、それぞれの不鮮明な出発点明智光秀は美濃の豪族・明智氏の出身で、もともとは城持ちの家に生まれたと言われています。 明智氏は美濃を200年に渡って支配した名門、土岐氏の一族であったとされ、事実だとするとなかなかの家柄だと言えます。 しかし土岐氏の支族は美濃に数十家もあり、土岐氏の一族だったとしても必ずしも身分が高かったとは言えないようで、むしろ低い身分の出身だったという説もあります。 伝聞調で続
以前、掲載している広告が原因(「google play」の文言が出ていたらダメ)でリジェクトされたアプリですが、再審査の結果が返ってきました。 広告の表示の設定を変えたのがよかったのか、今回はその点ではひっかからなかったのですが、今度は別の点でひっかかり、再度リジェクトされました。 リジェクトの理由は「アプリのタイトルにキーワードや説明をいれてはいけません」というものでした。 アプリ名を「計算機++無料 式と履歴が見れる電卓 消費税と割引計算に対応」というキーワードがてんこ盛りの状態にしていたのですが、これが原因のようです。 キーワードは設定する箇所があり、ここに記入しておけば検索にひっかかるので、アプリ名には入れなくてもいいです、という指摘でした。 自分でも入れ過ぎかな、と思ってはいたのでリジェクトされるのも無理はないかと思うのですが、実は有料版は上記とほぼ同じアプリ名で審査に通っていま
黒田官兵衛は名軍師として知られる戦国時代の武将ですが、「策が多く野心に満ちた人物であった」と見なされることが多い人でもあります。 しかし官兵衛は、生涯で一度も主君を裏切ったことはありません。 初め小寺政職に仕え、ついで羽柴秀吉に仕え、と主君を一度変えていますが、これは小寺政職に裏切られたことによってやむを得ずそうなっただけであり、自ら望んで主君を変えたわけではありません。 しかしながら、小寺政職に裏切られた点から見ても、どこか主君から全幅の信頼を寄せられない要因を備えていたようでもあります。 【黒田官兵衛の肖像】 秀吉と官兵衛その天下取りに対しておおいに貢献した秀吉からもあまり信用されず、その功績の割には豊前(福岡県)に12万石(後に検地によって17万石に変更)という過小な領地しか与えられていません。 これがなぜ過小と言えるかというと、秀吉子飼いの加藤清正、福島正則、小西行長、石田三成とい
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