私のフェミはここから、はこれまでに何度か書いていて、それは自分の痴漢(強制わいせつ)被害から入って性暴力の取材をするうちにいつの間にかフェミになっていたよという話なのだが、同じことばかり書いていてもなんなので、今回は別の話にしたい。 私の心の中にある心地よい場所の話。たぶんそれは、私の中のフェミニズムの土台を支えている。 ◆校庭の向こうに国会議事堂の見える校舎で 登校初日から山手線の中で痴漢に遭い、それはしばらく誰にも言えないほどグロテスクな経験だった。1990年代の半ば、あの時代の高校生の多くがそうだったように頻繁に痴漢被害や、「援助交際」の声かけはあった。 けれど、それは当時の私にとって外の世界の話で、ドラクエで言ったら町や村ではない場所だから魔物が出るのは当然だった。学校の門を一歩くぐればもう、そこは楽園みたいに楽しかった。楽園に大人の捕食者がいなかったわけではないだろうが、大体の捕
私のフェミはここから、はこれまでに何度か書いていて、それは自分の痴漢(強制わいせつ)被害から入って性暴力の取材をするうちにいつの間にかフェミになっていたよという話なのだが、同じことばかり書いていてもなんなので、今回は別の話にしたい。 私の心の中にある心地よい場所の話。たぶんそれは、私の中のフェミニズムの土台を支えている。 ◆校庭の向こうに国会議事堂の見える校舎で 登校初日から山手線の中で痴漢に遭い、それはしばらく誰にも言えないほどグロテスクな経験だった。1990年代の半ば、あの時代の高校生の多くがそうだったように頻繁に痴漢被害や、「援助交際」の声かけはあった。 けれど、それは当時の私にとって外の世界の話で、ドラクエで言ったら町や村ではない場所だから魔物が出るのは当然だった。学校の門を一歩くぐればもう、そこは楽園みたいに楽しかった。楽園に大人の捕食者がいなかったわけではないだろうが、大体の捕
小学校1年生の頃の授業参観日のことだ。親たちが教室の後ろに並び、私の母もその中の一人として並んでいる。科目は国語だった。 教科書にはロシア民話をA・トルストイ(注1)が再話したと言われる「おおきなかぶ」が掲載されていた。それを先生が読んだか、みんながかわるがわる音読したかははっきり覚えてはいないのだが、とにかく授業の中で「おおきなかぶ」を順々に読み進めていった。 「おおきなかぶ」を知らない人に説明すると、あるおじいさんの家の庭にとってもおおきなかぶが生えたというのがストーリーの始まりである。そのかぶをおじいさんが引っ張っても抜けない。おばあさんが一緒に引っ張ってもかぶは抜けない。犬や猫などの引っ張る手伝いをどんどん増やしてかぶを抜こうとする。 「うんとこしょ どっこいしょ」 とみんなで掛け声を出しながらおおきなかぶを抜こうとするシーンが何度も出てくる。 そこまで読んで、先生は私たちにこう指
暮らしはじめて一週間も経てば、自然とリズムが生まれてくる。 私が起きたとき、だいたい夫(仮)はまだ寝ている。よくまーそんなに長く寝れるよね、と感心するくらい長く寝ている。逆に私は老人みたいに早く起きてしまう。 じっとり、ずっと雨の日。朝はパン、目玉焼き、紅茶。ぜんぶ夫(仮)が用意してくれる。完全にそういう役割分担。 午前中から新しい仕事場に行き、そこにはデザイナーの友達であるわっさんがいるから、会社に勤めてるみたいな感覚で仕事もたいへんはかどる。お昼は一緒に出てランチをする。これはもう、会社員ですね。人と同じ場所で仕事をしているだけで充実だ。会社員風生活は私に合っていたのだ。 最近は夜あんまり量を食べたくないし、この日もさほどお腹が空いてなかったので「夜はいいわ」とLINEしたら「シチュー作ったのにー」と返ってきた。「やっぱ食べる!」と返して、遅く帰ってから食べた。 なんだろ、これ。新婚み
7月20日はTシャツの日だという。社会人になってから、さすがに会社へはTシャツは着ていけないということで何年も買わない日々が続いたのだが、フリーランスになってまた、Tシャツを買うようになった。 3年前、ディセンデンツの「I Don't Want to Grow Up」の、マイロがオムツをはいている黄色いTシャツを、川端康成賞を頂戴した記念に買って、それを着ているときにあまりにも「自分自身になれた」という感じがするので、愛用に愛用を重ねている。それまでも、心を動かされたバンドを観たらだいたいTシャツを買っていたけれども、自宅の部屋着にするだけではなく、外にも着ていくようになったのはそれがきっかけだったように思う。 外に着ていくどころか、ここ一年ぐらいは、イベントや講演などのたまーに人前に出る機会や、取材などで写真を撮影される場合にも、常にバンドTシャツを着るようになってしまった。もう何を着て
〈タイポス〉というフォントがある。 「日本のタイポグラフィデザインの歴史をたどるうえで避けては通れない」といわれる書体だ。 誕生のきっかけは、1959年、美術大学の学生だった桑山弥三郎が、同級生の伊藤勝一、林隆男、長田克巳らと「グループ・タイポ」を結成し、卒業制作のために始めた新書体の研究だった。 それまで職人の専門領域であった「活字書体設計」に、いわば「素人」のデザイナーがはじめて参入したのだ。 ハネなどのアクセントを極力省いた直線と、垂直、水平に近づけた曲線。まるで文字をプログラミングするかのように、モジュール化された幾何学的なエレメント(要素)の組み合わせから成る〈タイポス〉は、従来のゴシック体や明朝体とはまったく異なるデザイン性を備えていた。 その登場は鮮烈で、1969年に写植書体として商品化されるや雑誌「an・an」や「non-no」の創刊号で全面的につかわれ、70年代の新書体開
朝日新聞デジタルマガジン「&w」大人気連載「東京の台所」著者がおくる台所エッセイ。この年でやっとわかった料理の「いろは」、そして数多の台所が教えてくれたものとは?[更新] 第2・第4木曜
3年ほど前のことになるだろうか。そもそものきっかけはインターネットだった。自分が子どもの頃見ていた「まんが日本昔ばなし」の話がいくつもアップされているのを知った私は、子どもたちを誘って夕飯の後などに、一緒に見るようになっていた。ある日「牛方と山んば」だったか「三枚のお札」だったか、多分その両方だったと思うが、恐ろしい山姥に追いかけられるこれらの話を一緒になって見ていてふと思った。山姥の出てくる話って他にもあるのだろうか。ためしに「山姥 日本むかしばなし」としぼりこんで検索してみると、たちまち10近くの話がひっかかってきた。夢中になって上から順に見ていくと、そこには、実にさまざまなタイプの山姥が存在していたのだ。仲人をする山姥、子どもを生み育てる山姥、おなかをすかせた子どもたちに果物をたらふく食べさせてくれる山姥、孤児に糸つむぎを教えて励ます山姥。もちろん化け物タイプの山姥もいるものの、その
今回のテーマは「カビ」ということで文章を書くのですが、ひとまず聞いてください。わたしは先日食中毒になりました。おにぎりを夜中に作って常温で置いておいたものを、次の日の夕方に食べたのですが、その1時間後に激しい嘔吐を繰り返しました。生まれて初めて、道で吐きました(側溝なのでどうか許してください)。道路のこっち側と向こう側で、1回ずつ吐くという珍しい経験をしました。出先と自宅であわせて20回ぐらい吐きました。3時間ぐらい大変な思いをしたのち、あっさり症状は引き、心が弱っていたのか、夜に放送されていたジロ・デ・イタリアの山岳ステージをぼーっと観ながら、なぜか涙が止まりませんでした。12月にこの連載(第五十三回)でとりあげた、イゴール・アントンのいたチームである元エウスカルテル・エウスカディの選手が活躍していたからかもしれませんし、久しぶりにアントン自身をテレビで確認したからかもしれません。ものす
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