幸福に関するkikuutanのブックマーク (49)

  • こんな時にしかできないことをやっていこう - 親鸞に学ぶ幸福論

    【精進(1)】 新型コロナウィルスで経済は冷え込み、 中でも旅行業、飲業など壊滅的な打撃を被り、 私の友人のセミナー講師も軒並みキャンセルで、 何もできず、家にいるとのこと、 オリンピックを目指していたアスリートや 開幕を目指して調整していたプロ野球選手なども、 いつ頃終息するかもわからぬ状態に、モチベーションを保つことが難しいようです。 収益も上がらず、仕事もできない、練習もままならない、 こういった不遇な環境に取り残されていくような不安を覚えたり、 投げやりになったり、周りに当たり散らしたり、絶望したり、 となっていくものです。 しかし一方で「窮すれば転ず。転ずれば通ず」。 こんな事態から始まった窮余の策からイノベーションが起きるのも世の常で、 願わくばこの未曽有の逆境をかけがえのないものと転じていきたいものです。 自由にできない不遇な環境にあって己を磨いて、 後に羽ばたくきっかけと

    こんな時にしかできないことをやっていこう - 親鸞に学ぶ幸福論
  • わかりやすく大衆に伝えた者が世界を制す - 親鸞に学ぶ幸福論

    【説法(1)】 ホモサピエンス史の著者ハリルはなかなかの毒舌家で、 研究熱心で正確だけど面白みのない筆致の学者のよりも、 読んでておもしろいので、つい手が伸びます。 たとえばこんな感じ。 「でっちあげの話を1000人が一ヶ月信じたら、それはフェイクニュース。 その話を10億人の人が1000年間信じたらそれは宗教で、 信者の感情を害さないためにそれはフェイスニュースと呼ばないよう諭される」 同じ事を言っていても、 いやむしろ正確なデータをそろえて論理的に展開する骨太のよりも内容的には薄くとも、 譬喩が豊富で、具体例も興味深く、風刺の効いたやわらかい文章なので、 大衆に受け、が売れ、結果的にその道の権威として認知されています。 この事実はまじめな学者たちにはそうとう不愉快な出来事かもしれませんが、 いつの世でも、どの分野でもこういうことがあって、 それはやはり人々に分かるよう伝えることに

    わかりやすく大衆に伝えた者が世界を制す - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 生きる明かり、生きがいがなければ生きられない人間 - 親鸞に学ぶ幸福論

    人生の目的(1)】 人間は生きる明かり、希望をなくしては生きていけません。 マラソンランナーが給水場で定期的に水分を補給しなければ42.195キロを完走できないように、 人間は未来に明かりがなければ生き続けられない存在なのです。 江戸時代の農村にも「ケ」と「ハレ」がありました。 「ケ」はいつもの日常、地道な野良仕事。 「ハレ」とは正月や村祭りの日、この日ばかりはごちそうをべ、酒を飲み、無礼講では目を外す楽しい日です。 「もういくつ寝るとお正月」という歌があるように、 村人は「ハレ」の日を明かりに指折り数えながら「ケ」の日を過ごしました。 代わり映えのない「ケ」の日を黙々とこなすことができるのも、 「ハレ」の日を希望にし、明かりにしているからなのです。 「あー、疲れた」と今年もう何回つぶやいたことだろう、 人間は生きる明かり、希望なくしては生きていけない存在です。 生きるにはどうしても希

    生きる明かり、生きがいがなければ生きられない人間 - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 若きアスリートたちに教えられること - 親鸞に学ぶ幸福論

    【忍辱(1)】 以前オリンピックを見ていて思ったことですが、 柔道の判定でも、物言いがついて勝者と敗者が逆転してしまったり、 体操のポイントでも抗議により総得点が入れ替わったり、というのが結構あります。 審判団の問題、とまでいかなくても 極限まで研鑽を重ねたアスリートたちのしのぎ合いなので 当にちょっとした判定のあやとか零コンマ零何秒の差で 歴然と結果が決められてしまっています。 何年もこの時のこと一つにかけてきたのですから 「こんなことのために」と どんなにか悔しい事態もあると思います。 そんな中でも偉いなと感心するのは、 駄々をこねたり、仏頂面でになったりせず 終われば自分を負かした相手と握手し、 インタビューでは言葉少なに「負けは負けです」と言い、 表彰台に登ればどんなに悔しくても笑顔は作るところです。 自分を支えてくれたコーチ、 オリンピックに出たくても出れなかった選手たちのこと

    若きアスリートたちに教えられること - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 禍福はあざなえる縄の如し、逆境は続かない - 親鸞に学ぶ幸福論

    【逆境(1)】 勤めていた会社の経営が傾き、リストラの憂き目に遭った30代の技術職の男性。 なんてオレは不運なんだ、といったんは我が身の境遇を恨んだものの、 まもなく彼の技術力を高く買ってくれる外資系のベンチャー企業があり、 そこで重要なポジションを任され、かつてないほどの充実を仕事から得ることとなりました。 こうなれば昔リストラにあったことは、彼にとって貧乏くじだったとは言えなくなります。 5年間付き合った男性から別れを告げられ、 一時は失恋の苦しみから7キロもやせてしまった女性。 しかし最近になって同じ職場の男性とお付き合いし、このたびプロポーズされ、 今では「あのときに失恋していなければ今の彼と出会えなかった」と つくづく当時の失恋という出来事に感謝しています。 「禍福はあざなえる縄の如し」とはよく言ったもので、 良かれと思ってやったことが思わぬ災いを招いたり、 災い転じて福となした

    禍福はあざなえる縄の如し、逆境は続かない - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 丸太橋の教訓、最も不幸な人とは - 親鸞に学ぶ幸福論

    【布施(1)】 最近でこそ少なくなりましたが、 一昔前の山間部の村では、川に一の丸太を横たえただけの丸太橋がいたるところにありました。 そこで生活する村人に伝わるのが「丸太橋」の教訓です。 お互いの主張がぶつかってけんかになりそうになると 「おいおい、丸太橋を思い出せ」といさめ合うのです。 丸太橋は一人しか渡れません。 左右から同時に渡れば、二人とも動けなくなるのは明らかです。 そんな時、 「先に譲った人が相手より幸せな人」 「譲られた人は、感謝して通ればまた幸せになれる」 「当然の如く通る人は、最も不幸な人である」 これが丸太橋の教訓です。 目的は双方が速やかに渡ることです。 どちらが先であろうが、そんなことはどうでもいいこと、 お互い譲らず、にらみ合っていたら、どちらも渡れず、お互い損するだけです。 ついこんな時、先に譲った方が負け組で、譲られた人が勝ち組のように思って、 誰が譲るか

    丸太橋の教訓、最も不幸な人とは - 親鸞に学ぶ幸福論
  • ルソー「人間は呼吸するために生きているのではない」 - 親鸞に学ぶ幸福論

    人生の目的(1)】 どんな行動にも目的があります。 【タクシーに乗る】という行動も、【どこそこに何時までに行く】といった目的があります。 目的がないのにタクシーに乗っていれば、時間とお金がどんどん無駄になるだけです。 【勉強する】という行動にも当然目的があります。 「なんで勉強してるの」と問えば、「資格を取るため」とか「明日試験だから」などと返ってくるでしょう。 【歩く】という人間の基的な行動も、 「ちょっとそこのコンビニまで」とか「気分転換に散歩」とか、目的は必ずあります。 このように人間の行動には目的があるのです。 では【生きる】という人間の行動、この目的は何でしょうか。 何を目的に私たちは【生きる】という行動を続けているのでしょうか。 タクシーに乗るのも、勉強するのも、歩くのも、 言ってみれば生きる営みの範疇に入るのですが、 さてその根ともいえる【生きる】のは、そもそも何のため

    ルソー「人間は呼吸するために生きているのではない」 - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 文明文化の進歩と幸福感が比例しない - 親鸞に学ぶ幸福論

    【流転輪廻(1)】 石器時代の人類は、1人が1日で消費するカロリーは4000カロリーでした。 これは物として摂取するエネルギーだけでなく、 道具、衣類、たき火などに使うエネルギーを含んでの数値です。 では現代に生きる平均的なアメリカ人はどうかといえば、280000カロリーです。 自動車、パソコン、冷蔵庫、テレビなど、 現代人は石器時代の人類より70倍近いエネルギーを使って生活している、というわけです。 だからといって私たちは石器時代より70倍幸せだと言う人は まずない、と言っていいのではないでしょうか。 もっとこうすれば火起こしが楽になるのではないか、 衣服をこうすればより暖かくなるのでないか 矢じりの形をこうした方が狩りで獲物をもっと獲れるのではないか この薬草で病が治るのではないか、 みんなで集まって住んだ方が安全でないか、 もめ事が起きないようこんなルールを決めた方がいいのではない

    文明文化の進歩と幸福感が比例しない - 親鸞に学ぶ幸福論
  • ノーサイドの精神を実生活にも - 親鸞に学ぶ幸福論

    【布施(1)】 南アフリカの優勝で幕を閉じたラグビーワールドカップ、 日中が盛り上がりました。 話題になった一つが、 敗れたチームが試合後に花道を作って勝者を称える「ノーサイドの精神」です。 多くの日人が感銘を受けました。 「ノーサイド」の精神とは、 戦意むき出しでぶつかり合っていた男たちがノーサイドのホイッスルが鳴ると、 敵も味方もなく健闘をたたえ合うラグビー精神のことです。 ラグビーだけでなく、スポーツを見ていて心打たれるポイントの一つはここです。 ボクシングでもゴングの前は鼻を突き合わせてにらみ合っていた両者が 決着がついた後、抱き合って相手に感謝の言葉をかけます。 オリンピックでも微妙な判定で負けてしまい、悔しくて号泣していた選手が、 それでも観客への敬意を忘れずチーム全員で一礼したり、 対戦相手と握手したりする姿に感銘を受けます。 またこれはスポーツだけではありません。 アメ

    ノーサイドの精神を実生活にも - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 「つい言ってしまう」こんな悪口に気をつけよう | 生きる意味が分かる親鸞の教え

  • 相手の立場に立つことの大切さを教えられた仏教の「布施」の教え | 生きる意味が分かる親鸞の教え

    こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。 仏教に教えられる善行の第一に挙げられるのが『布施』です。 『布施』とは、相手に与えること。 常に相手の立場に立って言動を考えるのも『布施』です。 人に何かを伝えるときは、相手が受取りやすいように常に相手に慮り、話していく『布施』の精神に心がけなければなりません。 今回は「相手の立場に立つ」というテーマでお話しします。 相手の立場に気付く「赤ちゃん目線」 「赤ちゃんがはいはいを始めたら、親もはいはいをしてみましょう」とアドバイスされます。 これを『赤ちゃん目線』といいます。 これすると、いろいろなことがわか

    相手の立場に立つことの大切さを教えられた仏教の「布施」の教え | 生きる意味が分かる親鸞の教え
  • 自損損他とはどんな意味か、具体例を紹介 - 親鸞に学ぶ幸福論

    【自損損他(1)】 仏教に「自損損他」という言葉があります。 『自損』とは自分が損すること、 『損他』とは他人を損させること、 よって『自損損他』とは、自らが不幸になり、人をも不幸にさせることです。 「自利利他」の対義の言葉です。 お釈迦様は、人を幸せにするままが我が身の幸せになる『自利利他』を勧められ、 逆に『自損損他』の言動をしてはいけませんよ、と教えられています。 ところが「言うは易く、行うは難し」で、 『自損損他』の言動をとってしまい、 人を傷つけ、自己も傷つけてしまっている人はことのほか多いです。 「あーあ、そんなこと言わなくていいのに・・・。人を怒らせ、自分も嫌われるだけでないか」 と傍から見ると他人の「自損損他」の言動にあきれることがあります。 プレゼン発表の同僚のスーツの肩のフケに気付いて、 「ここついてるよ」とそっと耳打ちするのは相手への優しさであり、 言われる相手も大勢

    自損損他とはどんな意味か、具体例を紹介 - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 忍辱(忍耐)の意味とは。仏教の六度万行の一つを具体的に解説する | 生きる意味が分かる親鸞の教え

    こんにちは、菊谷隆太です。 東京、大阪、名古屋を中心に仏教講座を主催する仏教講師です。 専門は浄土真宗で、「教行信証」「歎異抄」を学び、皆さんにもお伝えしています。 このサイトは「どんな人にでも生きる意味がある」と宣言された親鸞という方の教えを知っていただきたいと思い、開設いたしました。 仏教では、幸せの花が咲く六つの種の一つに「忍辱(にんにく)」が説かれています。 今日の言葉で言えば「忍耐」、腹が立つ心を抑えて耐え忍ぶことです。 「忍辱(にんにく)は、私たちを幸せに導くすばらしい行いですよ」と釈迦は説かれています。 今回は忍辱についてお話しします。 忍辱の行が試されるとき「ならぬ堪忍 するが堪忍」 「ならぬ堪忍、するが堪忍」ということわざがあります。 “堪忍”とは“耐え忍ぶ”こと。 「ならぬ堪忍」とは、「今度ばかりはもう堪忍できん」という時の言葉です。 「こんなことで腹は立ててはと、今ま

    忍辱(忍耐)の意味とは。仏教の六度万行の一つを具体的に解説する | 生きる意味が分かる親鸞の教え
  • 治らない人のための情報がない - 親鸞に学ぶ幸福論

    【人身受け難し(1)】 仏教に教えられているのは「なぜ生きる」の答えです。 「なぜ生きる」とは砕いて言えば 「(必ず死ぬのに)なぜ生きる」ということであり、 「(どんなに苦しくても)なぜ生きる」ということです。 人は必ず死んでいくのに、 なぜそれまでさまざまな苦しみに耐えてでも、 一生懸命生きねばならないのか、 この問いが仏教で言うところの「なぜ生きる」です。 「なぜ生きる」一つの開顕が釈迦45年の教えでした。 世の中には「どう生きる」を教える人は多くあります。 どうしたら健康になれるか、 どうしたら稼げるか、 どうしたらあの人とうまくやっていけるのか この「どうしたら」でみな一生懸命ですから、 そのニーズに応えんとして 「自分はこうして健康になった、もうかった、仲良くなれた」と実体験を交え、 あるいは心理学や物理学や経済学や医学の根拠を用いて 説得力ある「どう生きる」の答えを提供する人は

    治らない人のための情報がない - 親鸞に学ぶ幸福論
  • どんな人でも心がけ一つで幸せになれるとブッダが説かれた『無財の七施』とは | 生きる意味が分かる親鸞の教え

  • 「慶ばしき哉」で始まる親鸞聖人の『教行信証』 - 親鸞に学ぶ幸福論

    【慶ばしき哉(1)】 「よろこばしきかな」で始まり、 「よろこばしきかな」で終わる親鸞聖人の主著『教行信証』は、 絶対の幸福に救い摂られた聖人の、 書いても書いても書き尽くせぬ喜びがあふれています。 文芸評論家の亀井勝一郎氏は 「『教行信証』全巻には大歓喜の声が響きわたっている」 と驚嘆しました。 私たちも時に「ああ、幸せ」と高揚感に包まれることがあるにはあります。 しかし決してその幸せは続きません。 何かことが起きれば、たちまち喜びは霧散してしまい、 あの幸福感はどこへやら、失望のため息、悲嘆の涙に変じます。 いや何も起きる前から、いつこの幸福の座から引きずり下ろされるかと 憂な思いが胸一面を襲い、 自己の幸せを脅かすものすべてに疑心暗鬼の目を向け、心ひそかにおびえています。 時にそれは「こんなに悩むくらいだったらいっそのこと幸せになんかならなければよかった」と思うほどです。 親鸞聖人

    「慶ばしき哉」で始まる親鸞聖人の『教行信証』 - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 縁を選ぶことの大切さを説く仏教 - 親鸞に学ぶ幸福論

    【縁(3)】 仏教では、万物事象は因と縁が結びついておきる、と説かれています。 【因】に【縁】が加わると、【果】が生じる、 と説かれたのがお釈迦さまです。 お米を例に考えてみましょう。 米はモミ種から作られますから、米の【因】はモミ種です。 しかしいくらモミ種があっても、畳の上にまいていては 何十年待っても、米という結果は得られません。 土や温度、水や空気など、いろいろな条件がそろって初めてお米が取れます。 仏教では、これらのものを【縁】といいます。 すべてのことは、因と縁が和合して、初めて結果が現れる。 これを「因縁果の道理」といいます。 結果は因と縁によって生じるのですから、 結果を変えようと思ったら、 因を変えるか、縁を変えるか、しなければなりません。 因を変えれば結果は変わりますし、 縁を変えても結果は変わるのです。 先日から2回にわたって縁の大切さを話してきました。 公金横領で逮

    縁を選ぶことの大切さを説く仏教 - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 気軽な借金ができる恐ろしい環境 - 親鸞に学ぶ幸福論

    【縁(2)】 明治時代の小説などに、親戚に借金を頼む場面が出てきますが、 あの時代、借金といえば親族や友人に借りることだったとわかります。 これは相当借りる人にとって恥ずかしく、屈辱的なことなので、 借金自体に心理的ハードルが高かったと思います。 当時もう一つお金を手に入れる方法として、 質屋で自分の服や宝飾品を質入れするという手もありました。 しかしこれにしてもその街に一つだけの質屋に、 しかもその質屋が知り合いであったケースも多かったでしょうから、 やはりハードルが高かったことと思います。 「早足で質屋ののれんをくぐる」といわれるのも、 近所の人に見られたくない、恥ずかしいことだからこそでしょう。 それが今日はどうか、 借金も「キャッシング」などと言って、 カード一枚で、誰にも見られるのでもなく、簡単に金を引き出すことができます。 スマホやパソコンで、ちょこっと情報を打ち込むだけでも

    気軽な借金ができる恐ろしい環境 - 親鸞に学ぶ幸福論
  • 人間の幸福感は複雑だ - 親鸞に学ぶ幸福論

    【幸福(2)】 先回のメルマガで、アウシュビッツ収容所の労働者が、 一日一回支給される水のようなスープの中に たまに入る数粒のまめ、一切れのじゃがいもに 大きな喜びを感じ、人生に感謝した、というエピソードを紹介し、 こんな極限状態でも幸福感を抱く人間の心とは何だろうと考えさせられた、と述べたところ、 それを読んだ知人から「こんな実話もある」と聞きました。 ある年収300万円のサラリーマンが人生を変えようと思い切って起業したところ 事業が大当たり、わずか2年の間に月収入500万円、年収6000万の成功者になったそうです。 ところがその成功者が最近気を許す友人に 「お金というのは部屋の暖房のようなものだ」 と述懐するのだとか。 寒い部屋で暮らす人は、何よりも暖房(お金)に憧れます。 「暖かい部屋に住めたら、どんなに幸せだろう」と。 しかし実際に暖房の効いた暖かい部屋は、 入った最初こそ幸福感に

    人間の幸福感は複雑だ - 親鸞に学ぶ幸福論
    kikuutan
    kikuutan 2019/08/19
    !
  • フランクル『夜と霧』に幸福とは何かを思う - 親鸞に学ぶ幸福論

    【幸福(1)】 フランクルの「夜と霧」には、人間の幸福とは何か、考えさせられる記述が多々ありますが、 今回はその1つを紹介します。 人間とは現在、自分の置かれている環境と比較して、 幸、不幸を判断するものだと思い知らされるエピソードです。 アウシュビッツ強制収容所での一枚の写真が、世界に衝撃を与えました。 蚕棚のような段ベッドにぎゅう詰めになって横たわり、 ガリガリの身体でうつろな眼差しを撮影者に向けている収容者たちの姿を撮った一枚でした。 その写真を見る人みな「なんておぞましい」と顔をしかめましたが、 強制収容所の実体験のあるフランクルにとってその写真は、 「どこがおぞましいんですか」としか言いようのないものでした。 「どこがって、このひどい顔といい、何もかもがですよ」という周りの声に フランクルは「そうですか」とだけ答え、その場ではそれ以上何も言わなかったそうですが、 フランクルは、そ

    フランクル『夜と霧』に幸福とは何かを思う - 親鸞に学ぶ幸福論
    kikuutan
    kikuutan 2019/08/17