ブックマーク / shukousha.com (3)

  • 王力雄が記録した写真──天安門事件25周年に当たり|集広舎

    ◀天安門事件の時の王力雄 1989年、私は北京で『黄禍(政治寓話小説)』を執筆していて、当時の天安門民主化運動に対しては、一人の傍観者であった。その時、私は「社会閑雑人員〔社会の雑多な閑人で、社会主義体制では排除・取り締まられる〕」、「無職の遊民」、「盲流〔移動の自由が厳しく制限されている戸籍制度化であちこち移動する流れ者との蔑称〕とされる身分で、民主化運動の側からも、弾圧する側からも警戒されていた。学生運動が発生してから、「六四(天安門事件)」の鎮圧まで、私は毎日、自転車に乗り、北京の至る所に「出没していた。 六月三日のあの夜、私はずっと天安門広場と周囲を駆け回っていた。人民大会堂の西側の道路で、間近に軍隊の掃射を体験した。その時、私とピッタリ身を寄せ合っていた二人は銃撃された。その場面は、今でも瞼に焼き付いている。私は、その一人の被弾した胸からあふれ出る血を止めようとした。彼はもう話す

    王力雄が記録した写真──天安門事件25周年に当たり|集広舎
  • 安源炭鉱の盛衰と見果てぬ夢|集広舎

    小社刊『安源炭鉱実録──中国労働者階級の栄光と夢想』巻末解説を、解説執筆者である劉燕子さんのご許可を得てここに全文を転載いたします。ご高覧いただければ幸いです。 一、于建嶸氏のプロフィール 于建嶸氏は、一九六二年、湖南省衡陽に生まれた。父は共産党軍の遊撃隊員であったが、文革では迫害され、一家は僻地に下放され、八年間も戸籍のない「闇人」として極貧の生活を強いられた。文革の終息後、一九七九年に于氏は湖南師範学院政治科に入学し、卒業後は「衡陽日報」に入社したが、一九八四年に「中華人民共和国新聞法(草案)」を起草して辞職した。その後、弁護士となり、二〇〇一年に華中師範大学中国農村問題研究センターで法学博士を取得し、現在は中国社会科学院農村発展研究所教授、同所社会問題研究センター主任である。 著書には『岳村政治──轉型期中国郷村政治結構的変遷』(商務印書館、二〇〇一年。日語版は徐一睿訳で日僑報か

    安源炭鉱の盛衰と見果てぬ夢|集広舎
    kinbricksnow
    kinbricksnow 2014/05/19
    【オススメ】“小社刊『安源炭鉱実録──中国労働者階級の栄光と夢想』巻末解説を、解説執筆者である劉燕子さんのご許可を得てここに全文を転載いたします”
  • 三月一四日の前に何が起きたのか?|集広舎

    今年(二〇〇八年)の三月一四日は、もう名前がつけられました。「三・一四事件」です。チベット全域において、これからまた「敏感」な日が増えました。中国中央電視台(CCTV)は、この事件を取りあげた番組を制作し、繰り返し放送しました。ふだんと異なる様子で、とても語気を強めて、いきなりこの日から語り出しています。こうにして、外に対して、次のようなイメージを作り出しています。 近頃、チベット各地で発生して世界を驚愕させた一連の事件は、この日から始まったのだと。言い換えれば、中国が世界に語った「物語」は、三月一四日に少数のチベット人が突然発狂したということです。 この三月一四日の前、チベットの中共の役人は、北京で開かれていた「両会」において、「現在はチベットの歴史において、最もすばらしい時期である」と表明していました。ところが、まさに三月一四日の前には、ラサで千人規模の僧侶の平和的な請願を、当局の動員

    三月一四日の前に何が起きたのか?|集広舎
    kinbricksnow
    kinbricksnow 2011/07/05
    チベットの民衆は目の前で起きた暴行を目撃し、当然、積年の怨みや怒りに引火し、みなが知るような大抗議行動となって爆発したのです。これが「三・一四事件」の経緯です
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