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ブックマーク / tukinoha.hatenablog.com (3)

  • 日本近代史について議論する前に知っておくべきこと - tukinoha’s blog

    歴史を語るということは自分の歴史観を語ることと同義である、と僕は考えています。 ところでその「歴史観」という言葉についてですが、「あの時のAの判断は正しかった/誤りだった」という価値判断のことだと考えられていたり、あるいは「Bはあった/なかった」という事実認定のことだと考えられていたりと、使う人によって意味が変わるため議論にズレが生じる、というのもよくある話。 それに対して僕が「歴史観の定義とは○○だ!お前らはみんな間違っている!」と主張しても、所詮は「自分定義」ですから、何の意味もありません。ただ、仮に「歴史観」という言葉の定義が上に例として挙げたようなものであるならば、歴史観なんて無い方が良いんじゃないの?とも思うわけで。 つまり「Aは正しい。Bは悪い」という価値判断を歴史学に持ち込むのであれば、それは戦前の皇国史観と同じものか、あるいはそれを裏返したものにしかなり得ません。また「あっ

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  • 『らき☆すた』は日常を描いたのか? - tukinoha’s blog

    「こんなにスポーツ出来るのに、何で運動部とかに入らないの?」 「だって部活に入るとさぁ……ゴールデンタイムのアニメが見れないじゃん」 『あずまんが大王』が「ありそうでありえない日常」を描いたとすれば、この『らき☆すた』は「当にありそうな日常」を描いている、と感じさせる点で異質な作品であると言えるのかもしれません。「チョココロネは頭と尻尾のどっちからべる?」なんて「たい焼きは頭と尻尾のどっちからべる?」と同じレベルの、ごく日常的な会話ではありませんか。 このような固有性のない繰り返される日常を「物語」として成立させているのは形式であると言えます。そもそも京アニの作画が賞賛される原因として、単純に作画が優れていることと共に、形式を知覚させること、「ここは作画に注目だ」と視聴者に教えるような作品構造をとっていることが挙げられるでしょう。『らき☆すた』においてはOPとだけではなく編において

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  • 『Kanon』に見る「家族」の終焉 - tukinoha’s blog

    昨日実家から京都へ戻ってきたのですが、誰もいないアパートの部屋が広く感じられた……何てこともなく(事実狭い)、割と快適に過ごしています。家族と暮らすメリットというのもある、けれど、ひとりで暮らす人生がつまらないというのは偏見だ、と僕は思うのですよ。 いきなり自分語りから始まりましたが、つまり現代では「家族」を無条件で肯定するような見方はリアリティを失いつつある、という話です。「家族」がユートピアであるための条件はあまりに多く、もし「家族」がユートピアであると思うのであれば、それは誰かの努力によって必死に支えられているか、あるいは単なる思い込みじゃないの?と。 「家族や絆をテーマとして取り上げることが多い」とwikipediaに書かれている麻枝准、そしてkey作品においてもそれは例外ではありません。いや、むしろ家族を肯定しようとするkey作品においてこそ、家族という概念は変質せざるを得ないの

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