ブックマーク / chikyuza.net (2)

  • イノセントな学者的欲求が犯す罪─「怒り」の理由 - ちきゅう座

    <子安宣邦(こやすのぶくに):大阪大学名誉教授> 私の批判への島薗氏による卑小な反論に釣られて卑小な回答の言葉を連らねる愚を避けて、端的にまず私の「怒り」の理由をのべよう。 現在、「国家神道」をめぐる問題があるとすれば、「国家神道」概念の見直し論としてある。この見直し論とは、アメリカの対日占領政策にもとづくいわゆる神道指令が廃止を指示した国教としての神道、すなわち「国家神道」の定義の見直しを要求するものである。神道指令はこの「国家神道」を「非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道の一派(国家神道或ハ神社神道)ヲ指スモノデアル」と規定している。したがって見直し論はこの規定中にある神社神道の側から、「国家神道」概念の見直すことの要求として出されてきた。 だがこの見直し論は、ただ「国家神道」概念の見直しを求めるだけのものではない。現行憲法を占領軍の押しつけとして、それを見直し、自主的な改訂

    kogarasumaru
    kogarasumaru 2010/11/04
    前作だけならば多少言わんとすることの分からないわけでもなかった気がするが、今回のこれは…/研究に関してのモチベーションと立脚点という話を逸脱している
  • 「怒りを忘れた国家神道論」―島薗進『国家神道と日本人』批判 - ちきゅう座

    <子安宣邦(こやすのぶくに):大阪大学名誉教授:日思想史> 1 村上重良の怒り 村上重良は『国家神道』(岩波新書、1970)を激しい怒りをもって書いた。その怒りとは、日台湾・朝鮮をも含んだ)国民の肉体とともに精神を支配し、抑圧した〈戦争する日国家〉の原理であり、装置であるものに対してである。彼は国家神道こそが、1945年に至るまで国民を支配し、抑圧した国家的原理であり、装置であるとみなした。戦争の終結から四半世紀を経過した1970年に村上は、国家神道の復活の動きに接し、怒りを新たにする形で『国家神道』を書いたのである。私もまた度重なる小泉元首相の確信犯的な靖国参拝に対する怒りを『国家と祭祀―国家神道の現在』(青土社、2004)として表明した。私は村上の国家神道概念をそのまま継承することはなくとも、彼の怒りは正しく継承した。 国家神道批判は日国民のこの怒りに基づくものである。怒り

    kogarasumaru
    kogarasumaru 2010/10/20
    関心のある議論/ただいまいち子安先生の議論を素直に読めない/島薗先生の立場こんな感じなの最近?/新書読んで考える
  • 1