インターネットから隔絶された状態になると、ネットはエゴイズムを可能な限り損なわないようにしつつ「社会との接続感」を保つことのできるツールなのだと改めて感じる。誰かに拘束されない状態で社会に接続されているかのような幻想を抱くツールとしてはつい最近まではテレビというものがあったわけだが、そのテレビにしても複数の人間で見ている場合にはやはり映像を見ている人間の集団という一時的コミュニティに拘束される。まあ簡単な例を挙げれば、かつての核家族(ニューファミリーという不思議な言葉もあったが)にはテレビという「社会への窓」を共有するコミュニティのような面もあったわけだ。共有されている場である以上、エゴイズムは調整され、部分的に抑制されざるを得ない。具体的には「チャンネル権」が存在したことがそれを象徴している。 だが、テレビが高級機器ではなくなり個人が所有するものになってしまったとき、チャンネル権が所有者