批評に関するkomogawaのブックマーク (74)

  • 「戦闘美少女の精神分析」とツンデレ=ヒステリー論 - 萌え理論ブログ

    議論の流れ 404 Blog Not Found:書評 - 戦闘美少女の精神分析 orangestarの日記 - 戦闘少女の精神分析とスキゾパラノ なぜ、フィクションの世界なのに、読者たちは♂の主人公に直接暴力(的妄想)を託すのではなく、そのカノジョたちに暴力を託すようになったのか? 現実世界における男子による暴力の封殺が、ほぼ完成の域にまで達したからではないか http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50878556.html 戦闘美少女とは、暴力を振るう存在であると同時に、暴力を振るわれる存在でもあるということだ。 http://d.hatena.ne.jp/orangestar/20070725/1185302690 オタクは戦闘美少女を通じて欲望する まず、「戦闘美少女の精神分析」の著者である精神科医の斎藤環の見解はこうだ。戦闘美少女とは

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  • 「被害者」「加害者」「患者」のいずれでもありうる「あなた」自身のために - pentaxx備忘録

    そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫) 作者: 日垣隆出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2006/10/30メディア: 文庫購入: 13人 クリック: 178回この商品を含むブログ (118件) を見る 私は、司法精神医学について専門家を自称できる人間ではありません。なにしろ書でもたびたび名前の挙がる、精神鑑定の権威・小田晋氏の研究室に在籍した過去があるとはいえ、自分が中心となってかかわった精神鑑定例はわずか一例しかないのです。だからこの解説を書くために、関連書籍や論文をいくつも読みました。そして、精神障害犯罪者に関する議論の難しさに、あらためて驚かされました。 そもそも法学と医学とは、その背景となる思想からしてまったく異質な学問です。簡単に言えば「判決」は常に結論であり、事実と同じ重みを持ちます。しかし医学的な「診断」は、常に治療と予防のための一時的な仮説でしかありえず、それゆえ常

    「被害者」「加害者」「患者」のいずれでもありうる「あなた」自身のために - pentaxx備忘録
    komogawa
    komogawa 2007/07/14
    >啓蒙と告発のための本が、時には厳密な中立性を崩してまで、「読まれる」ための物語性と、(あえて言えば)エンターテインメント性を取り込むことを非難すべきではない。
  • giorgio agamben & fujiko f. fujio

    その他の人々を見抜く方法 ジョルジョ・アガンベンと藤子・F・不二雄* 『d/SIGN』no 7, 太田出版, 2004年4月, pp. 122-129. 1. ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』 ジョルジョ・アガンベンは1942年生まれで, 現在61歳です. 1990年代には, 田崎英明さんをはじめとするほんの一握りの人しか日語では言及していませんでしたが, 2001年末には京都 (立命館大学) と東京 (東京外国語大学) を訪れ, 講演をしたので, もしかするとそこにいらっしゃったかたもおられるかもしれませんし, 今では少しは知られるようになっているかもしれません. 彼は現代イタリアの哲学者です. 1960年代後半からすでに執筆活動を開始しましたが, 当初はマルティン・ハイデガーやヴァルター・ベンヤミンの影響下で, また同時に, 図像学 [イコノロジー] への興味から, 美

  • え。山田風太郎の戦中派不戦日記って手つかずじゃなかったの?

    わー、すいません、もういちどご質問を読み直してみたら、ずいぶん寝ぼけた回答をしていました。 ご質問は、 ・記述に重複箇所が見られること ・その事実を鑑みるに、『不戦』は、内容的に、後の手が入っているのではないかと思われること というものだったんですね。 ごめんなさい。 初出誌含め、これまで出版されたすべての作品を丹念に比較するという文献学的手法をもって調べていけば、おそらくその真偽を確定することとは可能だと思います。 それをしないで推測で答えてしまうのですが、おそらくご推察の通りではないかと思います。 先の回答でも書きましたが、『焼け跡』は死後出版であるため、記述を書き加えたりすることは物理的に不可能であるからです。 >文章に斧鑿を加えるのって、えええ、ちょっと待ってください山田先生、って感じなんですが。『不戦』のあとがき(第二段落)でおっしゃってることと違ってません? とお書きですが、こ

    え。山田風太郎の戦中派不戦日記って手つかずじゃなかったの?
    komogawa
    komogawa 2007/07/12
    なんぞ
  • 「学者学」という奇妙な領域  - jun-jun1965の日記

    http://www.pipeclub-jpn.org/column/column_01_detail_06_03.html 更新しました。 −−−−−−−−−−−−−−−−− 1988年に「NICS」が「NIES」に変わったというのも、二十年近く前のことだし、若い人は知らないだろう。前者はNewly Industrializing Countriesの略で、二十世紀後半に経済成長を遂げた香港、台湾韓国、シンガポールをさしたものだが、香港や台湾は「国」といえるかどうか疑わしいというので、CountriesをEconomiesに変えたということである。1993年に翻訳が出たエズラ・ヴォーゲルの『アジア四小龍』(中公新書)はこの四地域を論じて、その成功の理由の一つとして、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資主義の精神』で論じたプロテスタンティズムの代わりに、儒教がその役割

    「学者学」という奇妙な領域  - jun-jun1965の日記
    komogawa
    komogawa 2007/06/29
    読み始めた次の日に。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、マックス・ヴェーバー
  • 認知科学に現象学は何を寄与しうるか

    認知科学に現象学は何を寄与しうるか                         柴田正良(金沢大学) 1. 現象学とは何をする哲学なのか? 何が売りなのか?  ということは、だれに聞いても多分、「絶対これだ」という自信たっぷりの答えが返ってきそうもないので、正面から問わないことにしよう。その代わりに、「事象そのものへ」とか、「質直観」とか、「現象学的還元」とか、「客観的世界の手前にある生きられた世界に立ち帰る」といったスローガンを頭に思い浮かべながら、認知科学における一つの具体例に即して、現象学という思考方法(?)が心の科学に何を貢献しうるのかを少し考えてみたい。要するに、目指すところは現象学の可能的ケース・スタディであり、そのケースとは、コネクショニズムによる素朴心理学消去の主張である。 2. 素朴心理学に対するコネクショニズムからの攻撃  素朴心理学(folk psyc

  • 内田春菊『私たちは繁殖している』7

    内田春菊『私たちは繁殖している』7 おなじみの内田春菊の出産・育児・家庭生活コミックエッセイ。 パートナーのユーヤの親と縁を切るために、ユーヤと形式離婚したようだ。 巻はこの義父母への攻撃に驚くべき分量が割かれている。 ユーヤという特定個人の親が誰であるかはかなり特定されている。そのうえでこれほど身も蓋もない形でその個人攻撃のために、公にされる刊行物を私して使うというのも凄まじいことだ。いやそりゃあ「あんたの著作」なんだから何したっていいんだろうけどさ。それにしたって自分は出版という「権力」をもち、相手は持っていないという節度くらいもってもいいだろうに。もちろんそういうものを「面白がって」、ぼくは買っているわけだが。 さらに、ユーヤの弟Tも攻撃。 以前の執筆分ではちゃんとTの「眼」も描かれていた、すなわちTは内田にとって好意をむける対象ないしは価値中立的な存在だったわけだが、攻撃対象とし

    komogawa
    komogawa 2007/06/20
    エッセイマンガの問題を如実に体現している作家。田島みるくが獲得しているもの。
  • Cultural Identity and It's articulation

    文化的アイデンティティ 1960年代後半に顕著となったアイデンティティの政治学は、女性や黒人からの運動、また対抗文化といわれるサブカルチャーの出現に代表される。今日では、ポストコロニアルやグローバルリゼーションの視点も踏まえ、人種、ジェンダー、性的嗜好、階級、宗教、エスニシティ、ネイション、世代など、様々なアイデンティティの枠組みが言及され、それら各相互の錯綜が焦点となってきている。それに伴い、これらの焦点をまとめるタームは、幾分自己防御的な意味合いを持った「アイデンティティの政治学」から、様々な抑圧や圧力から自己を開放する方向性を持った「差異の政治学」へと移行しつつある。 ' The Personal is Political.'という言葉に象徴されるこれら様々なアイデンティティの「政治化」では、とりわけ「文化的なもの」が取りざたされる。稿で使用するのは「文化的アイデンティティ」なわけ

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    komogawa 2007/06/19
    スチュアート・ホールの「アーティキュレーション」
  • 『ゼロ年代の想像力』に向けたメモ - ピアノ・ファイア

    S-Fマガジン 2007年 07月号 [雑誌] 早川書房 2007-05-25 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools 今にわかに話題の、宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を読了。こういう波風を立てる人が出てくること自体はいいことですね。 紙幅の関係で書ききれなかった部分かもしれないので、現時点では余計なツッコミにもなりえますが、あえて少しツッコミを入れてみます。 エヴァンゲリオンを「引きこもりモノ」と呼んで「生き残りモノ(=決断主義)」の反対に置くのは不完全な対置で、あの「アスカ復活」を無視していることになると思います。 シンジも最初は、目の前で倒れるレイを見て「逃げちゃダメだ」を連呼し、エヴァに乗り、「男の戰い」を演じ、でも最後はエヴァに乗らなくなる。 ここだけ見ると確かに「引きこもりモノ」ですが、一方アスカは「死ぬのはイヤ」を連呼し(シンジとの対比ですね)、

  • 伊藤剛『テヅカイズデッド』 - logical cypher scape2

    著者がこのに注いだエネルギー量が伝わってくるかのような。 吐くような作業だった、とブログで書いていたことがあったと思うのだけど、実際にこので述べられる理論を構築するに当たって、気の遠くなるようなエネルギー量*1を注ぎ込んだのだろう、と思う。 なおかつ、このは、書くに当たってそのエネルギーを細心の注意でコントロールすべく、さらなるエネルギーを使っている。 この熱意と注意深さを感じ取るだけでも、読む価値があると思う。 この野心と慎み深さは、自分でも身に付けたいと思った。 さて、内容であるが、いわばこのの肝となる部分は、色々なところから聞いたり読んだりしていたので既に知っていた。 もちろん、人から聞くのと直接知るのとではやはり違うわけで、個別の作品論は面白く読んだけれど、しかしとりたててここでもう一度要約するつもりはない。 何故、このを読んだのか。 三浦俊彦の虚構実在論とマンガあるい

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  • 三浦俊彦『虚構世界の存在論』 - logical cypher scape2

    分析哲学のアプローチによる虚構世界論。 と言われたところで、ほとんどの人には何のことかさっぱり分からないだろうが、問題設定自体はそれほど難しくない。 哲学には分析哲学と呼ばれるジャンルがある。 このジャンルは、もともと言語哲学というところから端を発しており、文が何を意味しているのか(真か偽か)を明らかにすることを目的の一つとしている。 そんな分析哲学、言語哲学にとって、厄介な文がある。 「シャーロック・ホームズの背中にはホクロがある。」 多分、コナン・ドイルのホームズをどれだけ読んだところで、この文が真か偽か分からないだろう ところで、この文は以下の文とは異なることに注意しよう。 「坂龍馬の背中にはホクロがある。」 やっぱり坂龍馬の伝記をどれだけ読んだところで、多分真か偽かは分からない。 しかし、坂龍馬に関していえば、彼の背中にはホクロがあったかなかったかどちらかである、ということは

    三浦俊彦『虚構世界の存在論』 - logical cypher scape2
  • 0007 文藝檸檬 - 福永武彦と1913年。

  • WWFNo.16 『迷宮の迷宮について』

    1 作品 CD「しあわせのかたち 水晶の滑鼠(マウス)」は1992年3月、OVAシリーズ「しあわせのかたち」の人気を受け、CD第2弾として、押井守脚・監督で発表されたCDである。押井作品で言えば、「機動警察パトレイバー」OVAが1988年、「機動警察パトレイバー THE MOVIE」が1989年、「御先祖様万々歳」OVAが1989年、1990年ゲーム「サンサーラ ナーガ」発売、1991年「ケルベロス 地獄の番犬」、そして1992年の10月に「Taiking Headトーキング・ヘッド」が公開された。実写、アニメ、ゲームと多彩な活動が行われている中、合間を縫ったような形で発表されたものである。 その後、1993年「機動警察パトレイバー2」、1994年小説「TOKYO WAR」、ゲーム「サンサーラ・ナーガ2」、1995年「攻殻機動隊」を発表している。こうみてくると、劇場版アニメが目立っていた

  • マリオ研究

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • アニメ・ゲームなどの批評に関する根本的な誤解 - 萌え理論ブログ

    難しくないといけないのか 批評飽きた。 小難しいことをちゃんと考えて、作品を観たら面白い意見を言わなければ、とか思って来たんだけど、もう飽きた。 潜在的に凄く多そうな誤解だけれど、別に小難しくなくてはいけないということはない。確かに批評の型はあるけれど、義務だと思って無理に難しくする必要は全くない。少なくとも、意味が分からないジャーゴンは使わない方がいいとは思う。またその裏返しで、みんなが分かりやすい最大公約数的なところに、必ず落とさなければいけないということもない。 ただ「それってやっぱりあれだよね」式にラフに書いてもいいけれど、「アニメは(○○は)こうあって当然」という固定観念からかえって抜け出せないという罠もある。だから、よそ行きの服を着るように、漠然とした「常識」「空気」「お約束」から距離を取るために、多少文体が硬くなることはある。でもそれは言葉が難しいから偉いとかではない。 お金

    アニメ・ゲームなどの批評に関する根本的な誤解 - 萌え理論ブログ
  • 椹木野衣インタビュー

    【お知らせ】 「椹木野衣インタビュー」はウェブでの公開を終了しました。(2007/11/9)

  • 漫画批評における、視点をめぐる諸問題 - リクィド・ファイア

    ■同一化技法という造語から 「主観ショット」という映画用語がある。また、漫画論の世界では「同一化技法」という言葉がある。 主観ショットとは、Point of View(視点)ショットとも呼ばれ、略して「POVショット」もしくは単に「POV」とも呼ばれている。カメラが映す映像を「登場人物の視点から撮影したもの」として見立て、登場人物の視線の向きを、観客の視線とほぼ一致させることのできるカメラワークを指す。そして主観ショットの効果を生み出すような演出は、(登場人物と観客の視線を同一にすることから)「同一化させる」などと説明される。 一方、同一化技法とは、漫画研究家である竹内オサムがその著作(『マンガ表現学入 門』など)の中で提唱した言葉であり、映画の技法を漫画に援用したものだと定義されている。しかし、映画用語の中には「同一化」という言葉こそあれ、実は「同一化“技法”」という言葉は見かけられない

  • 斎藤美奈子

    斎藤美奈子『妊娠小説』筑摩書房, 1994 → 筑摩書房, 1997 (ちくま文庫) 斎藤美奈子『紅一点論 : アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』ビレッジセンター出版局, 1998 → 筑摩書房, 2001 (ちくま文庫) 斎藤美奈子『読者は踊る : タレントから聖書まで。話題の253冊の読み方・読まれ方』マガジンハウス, 1998 → 『読者は踊る』文藝春秋, 2001 (文春文庫) 斎藤美奈子『あほらし屋の鐘が鳴る』朝日新聞社, 1999 → 文藝春秋, 2006 (文春文庫) 斎藤美奈子『モダンガール論 : 女の子には出世の道が二つある』マガジンハウス, 2000 → 『モダンガール論』文藝春秋, 2003 (文春文庫) 斎藤美奈子『文章読さん江』筑摩書房, 2002 → 筑摩書房, 2007 (ちくま文庫) 斎藤美奈子『文壇アイドル論』岩波書店, 2002 → 文藝春秋, 20

  • Hang Reviewers High / バタアシ金魚

    読まなければと思っていた「バタアシ金魚」を読んだ。あまりに辛い読み物だった。 前に書いたと思うが、このマンガが何を描いているかについて満足に語った文章は、ウェブをざっと見る限りほとんどない。関心空間のキーワード解説がかろうじて間違いのないことを書いているという有様だ。マンガ自体についてより映画について書かれた文章の方がまだ多いようである。「BSマンガ夜話」のこのマンガの回では、この物語について、まず「バカの話」と言い、また「スポ根」であるとして語った。そんなことは、僕にとってちょっとあんまりである。 まず「スポ根」についてから考えたい。このマンガが連載を開始したのは85年で、これはあだち充「タッチ」が連載終了する前年のことである。「タッチ」へ詳細に触れてしまうと「バタアシ金魚」から大きく逸脱してしまうのでここではごく簡単に述べるが、あの作品は「ナイン」から始まるあだち充のスポ根ものの変形が