何か誤解があるのではないか。それとも意識的なすりかえか。先月29日に、沖縄県宜野湾(ぎのわん)市で開かれた集会のことだ。沖縄戦で起きた住民の集団自決をめぐり、日本軍が強制したとの記述を削除するよう求めた検定意見の撤回を求め、11万人(主催者発表)が参加した。 ▼集会で採択された決議では、「集団自決に軍が関与したことは明らか」だと、こぶしが振り上げられている。文部科学省の検定意見は、軍の関与を否定しているわけではないのに。たとえば、検定前のある教科書にこんな記述があった。 ▼「日本軍は、県民を壕から追い出し、スパイ容疑で殺害し、日本軍のくばった手榴弾(しゅりゅうだん)で集団自害と殺しあいをさせ、800人以上の犠牲者を出した」。この後半部分が「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」と修正された。果たして「歴史の歪曲(わいきょく)」といえるのか。 ▼集団自決の軍命令説が、信憑(し
農村部に無尽蔵に近い人手があり、賃金は長期にわたって上がらないと言われていた中国。そんな中、労働経済学の権威である蔡所長は「余剰労働力は枯渇に近づいており、今後は賃金が上昇する」といち早く警告を発した。「ルイスの転換点」(2ページ最後の囲み参照)を迎える中国経済は、どんな変化を見せるのか。 蔡 ファン(以下 蔡) 1980年代から最近に至るまで、中国の農村部にはおよそ1億5000万~2億人の余剰労働力があると言われ続けてきました。ところが2004年、出稼ぎ労働者の多い広東省の珠江デルタ地域で「民工荒」と呼ばれる一般労働力の不足現象が起こりました。 この時、私はある疑問に突き当たりました。経済がこれほど急成長しているのに、余剰労働力はそんなに残っているのだろうかと。例えば、農村部の地元企業だけで1億8000万人を雇用しています。都市部への出稼ぎ労働者は1億3000万人に達しています。さらに、
はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
産経・赤旗を除く、毎日・日経・朝日・読売の4紙の社説を紹介する。 【毎日社説 1993年8月6日付】 ・歴史の教訓として生かそう 私たちの同胞の過去が明るみに出されることはつらいことである。 ましてそれが国家のかかわることであり、しかも人間の尊厳を著しく冒した行為であるならば、 なおさら目をつむりたい誘惑に駆られよう。 が、それは加害者のおごりというものである。 しかもそれが、私たちの心の奥底に潜む「差別」と連なっている懸念もなしとしないなら、 どんなに苦痛が伴おうとも、えぐり出して白日の下にさらさなければならない。 それは他のためではない。自分自身のためである。 憲法に従えば、日本は未来に「名誉ある地位」を求めている。 世界的な名言となったワイツゼッカー独大統領の「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目となる」を引くまでもなく、 過去を直視し清算できぬ者が、どうしてほかからの尊敬を未来に得
もう一つには、(おおよそ今日の日本において、彼の地と同じ状況になることはそうそうないであろうが)自分としてはこうした「暴挙」に体制が出てきた場合に、ブロガーにとってどのような抵抗方法が存在しうるかという、実践的なケースとして、注目を持って見ている面もある。 それは押さえた上で。 ミャンマーを巡る状況にどのような事情があっても、外国との情報遮断を「暴挙」と呼ぶことは適切だと私は考えており、総合的な事情と切り離しても批判されて然るべきだと考えているし、それをすべきであると考えている。 おおよそ政治を為すにあたり、絶対的な平和主義、絶対的な非暴力主義というのは、私はあり得ないと思っており、いかなる政権であっても根本的には暴力から逃れることは出来ないだろう。にも関わらず、一方で政権の、あるいは政策の「絶対悪」は、確かにあると考えており、今回の背景にある(かもしれない)、中国や欧米の諸勢力の思惑や事
ミャンマーの軍事政権は、ついに僧侶や一般市民の抵抗デモに対して発砲を行い、武力制圧に乗り出したが、現代における非常に象徴的な弾圧の形として、インターネット回線を遮断し、国内の状況を国際社会から遮断しようという、暴挙といってもいい振る舞いに出ている。ミャンマーにおける抵抗運動と情報システムの関連から、いくつかの整理を行ってみる。 デモなどの映像が海外に即時に発信され、国際社会のミャンマー非難を強める効果をもたらしている。軍政当局はこれに対し、邦人カメラマン、長井健司さんらが死亡した27日ごろから、ヤンゴン市内のインターネットカフェを強制閉鎖するなどし始めた。同国でのインターネットネット接続は厳しく統制され、通常でも不安定だが、さらに締め付けを厳しくしているもようだ。あるヤンゴン市民によると、28日にはインターネットが使用できない状態が続いた。 電信を担当している政府関係者はフランス通信(A
人間社会において個人の自由と社会の秩序は反比例*1するのだろうか、と考えてみると、そうじゃないだろうな、と私はなんとなく思う。下の図でいえば、青のカーブが自由と秩序が反比例の関係だ*2。社会の秩序がなくなればなくなるほど、人間が自由になるというモデル。クラッシックな無政府主義はこんなモデルを想定しているのかもしれない。でも実際の社会を考えてみると、無秩序な社会では人間はあまり自由ではない。適切な例ではないかもしれないが、米軍が侵略した結果秩序が低下したイラクを思えば、そこに住む市民は好かれ悪かれ秩序があった侵略前よりも移動の自由、思考の自由はそれを保障する最低限のシステムが劣化したために自由度は低下しているだろう。山賊夜盗の跋扈する世の中では普通の人間は家でじっと息をひそめる、というような状況である。 そんなわけで、自由と秩序の関係はおそらく上の赤のカーブがより現実に近い。秩序がなさすぎれ
レスのようだけど、話題はむしろモヒカンのようにシフトしているという関心で。参照エントリが短いので比較して引用部分は大きくなってしまうけど。 ⇒夏のひこうき雲 - 悪意ととる感性への敗北 真のモヒカン族になりきるなら活性化は可能だけど、それはたぶんとてもよくないことのような気がするし。 でもまあ客観的な意義は大きいようにも思える。ある種の予防にもなる。自分を押しとどめるのは、憎まれ役になることを回避しようという保身の気持ちであるようにも思える。よくわからないな。 私が文脈を外しているかもしれないけど、すでに一部では進行しているっぽいのだが、それなりに注目されているブロガーが別ハンドルでぶくまとかで扇動していたりしているみたいに、私なりとかが数名組んで、別匿名で、あるネットの活動を展開したりすると仮定する。冗談でいえば、finalventほのめかしなし、みたいな。その暴力性みたいなものはどんな
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