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ブックマーク / note.com/onoholiday (10)

  • 最も残酷なのは、「誰でも幸せになれる世界」に住む人々|小野ほりでい

    不幸や理不尽の存在を抹消することによってこの世を「肯定」しようとする試みはどれほど善意で取り繕っても暴力という質を外れない。この世に回避不可能な不幸や理不尽はなく、みな平等の可能性のもとに暮らしているという思い込みを公正世界信念などと呼んだりするが、なかでも自己責任論(すべての不幸には“原因”がある)はその最も単純な表現だろう。 「自由意志」には「責任」が伴っているという合理主義的な世界観は、ともすれば合理の存在し得ないところに合理を見出そうとする不合理に帰結する。つまり、「自由意志」に基づいて判断したから「責任」が生じるのではなく、「責任」を追及したい事件に対して遡及的に「自由意志」とか「判断の余地」が生じるのだ。世の中で「理不尽」な「不幸」があれば、必ずそこに駆けつけて「責任」や「自由意志」の存在を見出し、世界の合理性を保とうと試みる者が存在するが、これが自己責任論者の一般的な倫理で

    最も残酷なのは、「誰でも幸せになれる世界」に住む人々|小野ほりでい
  • 被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい

    皆さんは、自分の見ている前でいじめが起きているときに加害者と被害者のどちらに寄り添いたいと思いますか? 「当然、被害者だ」と答えたあなたは・・・たぶん、心の強い人です。世の中には、「加害者」と「被害者」が存在しているときに「加害者」のほうに加担することを選ぶ人が実は少なくありません。なぜそういうことになるのでしょうか? これには次のような理由があります。 △加害者と被害者、どっちに味方する? さて、世の中誰が当の「加害者」で「被害者」なのかを見定めることは簡単ではありませんが・・・ここでは、単純に「いじめ」の加害者と被害者がいたとしましょう。 このとき、それを目撃したわたしたちは単純に図のAとBのように、「加害者側」に立ってそれを笑い飛ばすか、それとも「被害者側」に立って寄り添うかという選択を迫られます。 このとき、「加害者側」に立とうとするひとたちの動機はシンプルです。それは・・・ 被

    被害者はなぜ”追撃”される? 冷笑系クラスタの仕組み|小野ほりでい
    kou-qana
    kou-qana 2021/03/26
    (この記事とは少しズレるけど)本当の被害者かどうかは関係なくて、「冷笑する人の話」と思う。批判するのは別に冷笑しなくてもできる。自分と同意見でも冷笑と思うこともある。トーンポリシングする気はないけど
  • リアリストはなぜ話が通じないのか?|小野ほりでい

    どんな人も、何かを特別に重要だと考えることによって生きる糧にしています。その多くは、社会で成功してお金を稼ぐこととか、子供を育てることとか、あるいは信仰的なものかもしれませんが、もっと個人的なものに対する愛好を糧に生きている人はオタクなどと呼ばれたりしますね。 いずれにせよ、その「信じているものがある」から生きていける、という主観的な部分を取り沙汰すれば、どんな人もオタク的であるという言い方もできるかもしれません。 一方で、特別に個人的なものを糧にして生きている人にとって避けられないのは、「自分が信じている」ものの価値を冷笑されたり、否定されるという経験です。特に、趣味を持っている人は、以下のような物言いをする人たちに遭遇したことがあるかもしれません。 このような物言いをする人たちは、自分のことをリアリスト(現実主義者)だと言ったり、思っていたりするようです。リアリストにとって、自明に存在

    リアリストはなぜ話が通じないのか?|小野ほりでい
    kou-qana
    kou-qana 2021/03/12
    自分の前提を疑わない人は自分をリアリストとは思ってなくて、普通の人だと純朴に思ってる場合もある。と書こうと思ったら、リアリストの定義の話してるコメが多かった。感想の向きが逆だ〜。(0312-1728記)
  • 【新型コロナウイルス】を軽視した2020年を振り返る|小野ほりでい

    新型コロナウイルスとともにあった2020年に私たちが知ったただひとつの事実は、よく言われるように、たとえ人類共通の危機にあっても人々は協調するどころか分裂し、仲違いするということだった。私たちの敗因は、ウイルスという見えないリスクへの認識を統一し、それに立ち向かうための共同の文化を形成できなかった点にある。 ウイルスのリスクは、まずその多寡の評価において分裂しており、続いてその[責任]の所在―――発生源である外国にあるのか、対策を怠る政府にあるのか、身勝手な市民にあるのか、あるいは[騒ぎ立てるマスコミ]にあるのか、といった具合に分岐する。 しかし、これらの「イデオロギー的な対立」は表層的なものであり、むしろこのリスクを「イデオロギー的に見る」こと自体がひとつの罠にはまっている。この前提を得るためにそもそもの「文化」の意義を振り返ってみたい。 自然には、人間のいかなる強制もあざ笑うようなさま

    【新型コロナウイルス】を軽視した2020年を振り返る|小野ほりでい
  • ”一発アウト”の文化 キャンセル・カルチャーに未来はあるか|小野ほりでい

    「あなたを応援していましたが、今回の発言には失望しました。これでもうファンをやめさせて頂きます。」 アメリカでは有名人や影響力のある発信者の言動をめぐって公の場に引きずり出し、罰したり恥じ入らせたりする文化がコールアウト・カルチャーと呼ばれるが、なかでも発信側の個人や企業に「深く失望」し、「あなたは用済みだ」と再起不能の烙印を押すような文化はキャンセル・カルチャーと呼ばれる。 キャンセル・カルチャーの支持者の視点では、この文化は権力者やマジョリティに対する「弱者のカウンター」であり、キャンセル・カルチャーの有効性を問い直すことはそれ自体が「強者への加担」だということになる。 しかし、実のところキャンセル・カルチャーという手法はイデオロギーをまたいで日常的に利用されている。たとえば有力者の差別・偏見に基づいた発言、ハラスメントや搾取を発端としたキャンセルはリベラル的な立場と結び付けられるが、

    ”一発アウト”の文化 キャンセル・カルチャーに未来はあるか|小野ほりでい
    kou-qana
    kou-qana 2020/12/19
    そういえば先日、アップデートという言葉が批判されていて、私も使ったことあるけど確かに上からの同調圧力的だったな、同調圧力を好む人に便利に圧力をかけるように使ってたかもなぁと反省した。泣かないけど…
  • 政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい

    cakesという媒体がこの2ヶ月で立て続けの炎上を経験している。3回目になる今回は、ざっくり言えば声優・文筆家のあさのますみさんが以前からcakesでの掲載に向けて準備していた友人の死にまつわる連載が、cakes1回目の炎上(DV被害を虚偽と決めつけた人生相談)、そして2回目の炎上ホームレス取材記事)を受けて「センシティブな内容だから」という理由で反故にされ、掲載を拒否されてしまったというものだ。(詳しくは人の記事を参照。) 言うまでもなく、この掲載拒否の動機は内容に関する倫理的な吟味によってではなく「炎上するかもしれないから、もう炎上したくないから」という消極的な理由によるもので、その判断が裏目に出てかえって炎上してしまった格好になる。 しかし、今回の件についてのcakes側の粗末な対応は、cakesが抱えている特別な問題ではなく、断言してもいいが、ほとんど全てのメディアで日常茶飯事

    政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい
    kou-qana
    kou-qana 2020/12/11
    完全な帰依を迫られる、最近の公立中学がどうのこうのの話題で感じたな〜。/メモ:領土化/はあとふるさんのアレは皮肉だったような…要確認/以前より論理を追いやすく書いてくれてる感じ
  • HSPブームと”カジュアル”心理学|小野ほりでい

    恐れていたHSPブームが来てしまいました。 メディアを信じ、自分がそうなのかもと思ってしまう人に罪はありません。しかし存在しない病名や耳障りのいいことだけ呟き安心させる専門家は罪です。。(´・_・`) HSPに当てはまる気がする背景に、何か別の病気がないかをきちんと考える必要があります。 — 藤野智哉@精神科医 (@tomoyafujino) September 20, 2020 HSP<Highly Sensitive Person,とても敏感な人>という精神的カテゴリが脚光を浴びつつあります。 Wikipediaによればその定義は「五感が鋭く、精密な中枢神経系を持ち、良い刺激にも、悪い刺激にも強く反応する感受性の強い人達(テッド・ゼフ)」とのことで、ざっくりと受け容れられているように「繊細/敏感な人」という意味になるでしょう。 しかし、「あなたは繊細な人ですか、それとも鈍感なほうですか

    HSPブームと”カジュアル”心理学|小野ほりでい
    kou-qana
    kou-qana 2020/10/30
    個性と症状、先天と後天、そして責を個人に帰すか社会に求めるか。
  • 憎悪は自分を苦しめますねって話|小野ほりでい

    現代は個性の時代です。どこもかしこも「ありのままの自分を受け入れよう」というメッセージで溢れかえっています。言われてそれができれば苦労はないのだが、と私たちは思います。実際には社会に受け入れられるのは「生産性のある」人間だけではないか、と。 「頑張らなくていいよ」と歌手が勝手に許してくれます。そうしたいのは山々だが、そうさせてくれないのは社会じゃないか、と私たちは思います。そう言うのは簡単かもしれないが、頑張らなかった責任を取らされるのは結局自分ではないか、と。そうです、誰になんと言われて行動を取ったとしても、最終的に責任を取るのは自分です。 「そうはいっても仕方ないのだから」という事情で、私たちは自分の願望ないし主体性を捻じ曲げ、しまいには他者の要請するままに自己を最適化してしまいます。何をそんなに頑張っているのか、と問われた私は「頑張るしかないからだ」と答えます。そうしたいと自分で感じ

    憎悪は自分を苦しめますねって話|小野ほりでい
    kou-qana
    kou-qana 2020/10/16
    差別の根っこには自己蔑視があり自己蔑視は自分で選んだ自覚のない蔑視の内面化から来る。だから差別者は自覚的に悪を行っていないので非難は効果がない…って話かな。
  • 「傷つかない心」の危うさ|小野ほりでい

    メンタリストDaiGo 4年で変わってしまったな。 他人に人生をコントロールされてしまっている…。 pic.twitter.com/xXnoHzGmxK — こがねぃ (@koganeaki25) July 24, 2020 先日、Twitterで上のような発言が流れてきた。かつて悪口や批判に対して「相手にしなければ影響はない」「気にするのは他人に人生をコントロールされることだ」と表明していたメンタリストDaiGoさんが誹謗中傷に対する徹底抗戦の構えを見せたという、言ってみれば180°の方向転換について指摘するものだ。 「心の強さ」という概念に関しては私たちはまだ知らない部分が多いらしく、一定の持論や自負のある人がその「強さ」の秘訣についてレクチャーを試みたあとに何らかの方向転換を迫られるという事態は存外よく起こる。たとえば「死ぬこと以外かすり傷」という勇ましいタイトルの著者である箕輪厚介

    「傷つかない心」の危うさ|小野ほりでい
    kou-qana
    kou-qana 2020/08/07
    はじめて読み通せた。ところどころ「そうかな?でもそうだとして読み進めよう」とか「…の場合が多い」と脳内補完したり係り結びが難しいとこあるから、真面目に読まないと頭に入ってこないんだなぁ…。
  • 「自分が我慢していることをお前も我慢しろ」という心理|小野ほりでい

    人間が備えている認知バイアスのうちもっとも凶悪なものは、自分の経験した苦労はそれがどれほど無意味なものであろうと有益だったと考えたがる傾向だろう。生が質的に不合理なものである以上、僕たちは不可避的に全く無意味な労苦や不幸に見舞われる―――しかもこれといった理由もなく。人は、そういった不合理が耐えがたいために、自分の経験した不幸や労苦には何らかの意味があったと正当化することで精神の平衡を保とうとするのだ。 たとえば、ある会社の新入社員は毎年全く根拠のない精神論的訓練で構成された研修で人格否定を受けるのが習わしになっているとしよう。罵倒されたり大声を出したり走り回ったりわけのわからない文言を復唱させられたりする。これらの経験はその時ばかりは耐えがたい屈辱、無意味な苦行に過ぎないが、時間を経るほどに記憶に対してはこの経験を正当化しなければならないという力がはたらく。すると、これらの苦痛の経験が

    「自分が我慢していることをお前も我慢しろ」という心理|小野ほりでい
    kou-qana
    kou-qana 2020/07/10
    似たもので「自己犠牲で生きる人は他者にも自己犠牲を強いる」てのがあるな〜、と思って読み始めて途中で脱落…。絵があってもなくても読み通すのが難しいな…
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