建長寺 歴史 建長寺は執権北条時頼が宋から来日した蘭渓道隆(一二一三~七八)を開山として建長五年(一二五三)に開かれた禅寺で、正式名称を巨福山建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位、百以上ある鎌倉の寺院の筆頭とされる、最も寺格の高い寺院である。 「鎌倉五山」とは中国の制度をまねて鎌倉末期に始められた禅宗寺院の寺格制度で、建長寺が五岳之首(五山一位)となったのは延慶元年(一三〇八)。順位の入れ替えが繰り返されつつ、一三八六年以降現在まで、一位「建長寺」二位「円覚寺」三位「寿福寺」四位「浄智寺」五位「浄妙寺」となっている。 鎌倉時代初期の建長寺一帯は地獄谷と呼ばれた処刑場であったという。刑死者を弔うための伽羅陀山心平寺という寺院があったが慶長元年(一二四九)までには廃寺となり、地蔵堂だけが残っていたという。その地蔵堂は小袋(巨福呂)坂に移設され、現在の巨福呂坂新道完成前まで円応寺の向かいにあった