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ブックマーク / sportiva.shueisha.co.jp (33)

  • 高木三四郎が「ちょっと品がないな」と思っていた女子プロレス 愛川ゆず季との出会いで変化「この人だったら新しいものを作れるんじゃないか」

    webスポルティーバその他競技格闘技プロレス高木三四郎が「ちょっと品がないな」と思っていた女子プロレス 愛川ゆず季との出会いで変化「この人だったら新しいものを作れるんじゃないか」 サイバーファイト代表取締役社長 高木三四郎インタビュー 後編 (前編:「新幹線プロレス」の次は、渋谷のスクランブル交差点!?  実現までの裏側「動画や画像でのプレゼンから始めた」>>) サイトで連載している『今こそ女子プロレス』で東京女子プロレスの選手にインタビューをすると、必ずといっていいほどサイバーファイト高木三四郎社長の名前が出てくる。赤井沙希(DDT)、伊藤麻希、辰巳リカ、上福ゆき......数多くの人気選手を輩出してきた高木は、いかにしてスターの原石を見つけてきたのか。女子プロレスの魅力、今後のプロレス界の流れ、DDT両国国技館大会の見どころなどを語ってもらった。 東京女子プロレスを始めたきっかけや魅

    高木三四郎が「ちょっと品がないな」と思っていた女子プロレス 愛川ゆず季との出会いで変化「この人だったら新しいものを作れるんじゃないか」
    kowyoshi
    kowyoshi 2023/11/09
    ジュリアなんかもそうだよな>ルックスと若さに加えてもうひとつ必要だとしたら、カリスマ性ですかね
  • 「新幹線プロレス」の次は、渋谷のスクランブル交差点!?  高木三四郎が明かす実現までの裏側「動画や画像でのプレゼンから始めた」

    webスポルティーバその他競技格闘技プロレス「新幹線プロレス」の次は、渋谷のスクランブル交差点!?  高木三四郎が明かす実現までの裏側「動画や画像でのプレゼンから始めた」 サイバーファイト代表取締役社長 高木三四郎インタビュー 前編 9月18日、東京から名古屋に向かう新幹線のぞみ号(16両目)でプロレスの試合が行なわれた。その名も「新幹線プロレス」――。このニュースは日テレビ各局だけでなく、『ABC』や『BBC』など海外のメディアに大きく取り上げられ、世界中を賑わせた。 新幹線の車内で闘った高木三四郎(右)と鈴木みのる(写真提供/DDTプロレスリング)この記事に関連する写真を見る 仕掛け人は、サイバーファイト代表取締役社長であり、現役レスラーでもある高木三四郎。JR東海とJTBが展開している「貸切車両パッケージ」のニュースを見た高木は、すぐさま新幹線プロレスの企画を提案。「走行中に座席

    「新幹線プロレス」の次は、渋谷のスクランブル交差点!?  高木三四郎が明かす実現までの裏側「動画や画像でのプレゼンから始めた」
    kowyoshi
    kowyoshi 2023/11/09
    過去の経験が蓄積されてたんだなあ
  • 白川未奈が感じる日本文化の生きづらさ。レスラーにも奥ゆかしさを求められる?

    ■『最強レスラー数珠つなぎ』女子レスラー編 「闘魂Hカップグラドル」白川未奈 後編 前編から読む>> ◆白川未奈 厳選フォトギャラリー>> 「闘魂Hカップグラドル」として活躍し、2018年、プロレス好きが高じてプロレスデビューした白川未奈。前編では元祖"グラレスラー"愛川ゆず季への思い、巨乳をコンプレックスに感じていた過去、年齢で線引きされることへのもどかしさを語った。後編では、日特有のグラビアアイドル文化について持論を展開する。 2018年10月にグラビアアイドルからプロレスラーになった白川未奈(写真/「スターダム」提供)*** 「たぶん生まれ持ったものなんですけど、日文化はちょっと生きづらい気がしているんです」 ポジティブで天真爛漫な白川の口から「生きづらい」という言葉が発せられたことに、驚いた。女子プロレスの華やかさしか見ていなかった筆者が、女子レスラーの心の内側に興味を抱いた

    白川未奈が感じる日本文化の生きづらさ。レスラーにも奥ゆかしさを求められる?
  • 「全員に好かれるのはあきらめた」。コンプレックスを武器にグラレスラー白川未奈の決意

    ■『最強レスラー数珠つなぎ』女子レスラー編 「闘魂Hカップグラドル」白川未奈 前編 ◆白川未奈 厳選フォトギャラリー>> 女子プロレス団体「スターダム」で活躍する白川未奈 photo by Hayashi Yuba を出版することだけを夢見て生きてきた。2019年にようやく出版したが『最強レスラー数珠つなぎ』(イースト・プレス)だ。毎回インタビューの最後に、自分以外で最強だと思うレスラーを指名してもらい、次はそのレスラーにインタビューをする。テーマは「強さとはなにか?」。 夢が叶った。しかしその途端、筆が止まった。1年半ほど何も書けない状況が続き、見るに見かねた女性編集者が「note」での連載を提案してきた。しかしひと筋縄ではいかず、彼女と始めた往復書簡に「とっとと結婚して、"女の幸せ"とやらを掴んだほうがいいのかなあ」と書いた。(2021年1月14日/note『最強レスラー数珠つなぎ

    「全員に好かれるのはあきらめた」。コンプレックスを武器にグラレスラー白川未奈の決意
  • 【国際プロレス伝】「猪木、馬場より実力は上」と鉄人ルー・テーズも認めた

    宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiyaphoto by Nikkan sports/AFLO 【第7回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」 「金網デスマッチの鬼」と呼ばれたラッシャー木村は、オックス・ベーカー戦でノックアウト勝ちを飾るも、左足を複雑骨折して入院。後輩のアニマル浜口は木村の見舞いに何度も訪れ、それがキッカケとなって人生の伴侶と出会うことになった。一方で、国際プロレスはエース格のストロング小林の退団により、新たな時代へと突入していくことになる。 「国際プロレスとはなんだ?」前回コラムはこちら>>> 連載第1回から読む>> 国際プロレスのマットでも活躍した鉄人ルー・テーズ 国際プロレスのエース・ラッシャー木村(2) 1971年3月2日、ラッシャー木村はギブスを付けたまま、東京体育館で行なわれたザ・クエスチョンとの金網デスマッチに強行出場し

    【国際プロレス伝】「猪木、馬場より実力は上」と鉄人ルー・テーズも認めた
    kowyoshi
    kowyoshi 2017/04/17
    国際プロレスはガキの頃、プロレス大百科系でしか分からなくて…最初にテレビで見たのが例のはぐれ国際軍団だったんだよなあ…
  • センバツで神戸国際大付が目指す破壊的「プロレス野球」って何だ!?

    神戸国際大付のこれまでの戦いを思い出すと、バックにはいつも勝負へ向かう者の背中を押すようなパワフルなメロディが流れている。たとえば、それは『サンライズ』であり、『スパルタンX』などだ。プロレスファンならピンとくるであろう......そうスタン・ハンセンや三沢光晴が入場に使っていたテーマ曲だ。 プロレスをこよなく愛する神戸国際大付の青木尚龍監督 実は、神戸国際大付野球部の青木尚龍(あおき・よしろう)監督は大のプロレスファン。野球部OBの記憶を辿れば、校名が八代学院から神戸国際大付に変更となった1992年頃から、すでに『サンライズ』はスタンドから聞こえていたという。 「でも、ハンセンの『サンライズ』は5年ぐらい前からやってないんですよ」 その理由は、「ほかのチームがどんどんやるようになったから」だそうだ。そこへ若い中上雄介コーチが現状を教えてくれた。 「シートノックの7分間の演奏は、武藤敬司か

    センバツで神戸国際大付が目指す破壊的「プロレス野球」って何だ!?
    kowyoshi
    kowyoshi 2017/03/24
    鶴田ファンの親友が大きくうなずいてそうだ>「ホンマはもっと強いのに、その強さがなかなか出てこなくて。でも、いつかその強さが出てくると応援していたのが、鶴田さんでした」
  • ケニー・オメガが吠える「オカダ・カズチカはオレの80%だ」

    「自分へのフラッシュ音がほとんど聞こえてこない」――。ケニー・オメガはG1 CLIMAX直前の記者会見で言った。そうかもしれなかった。G1 CLIMAX、26年の歴史の中で、外国人選手が優勝したことは一度もない。しかし、ケニーは優勝した。外国人選手が新日プロレスのトップに立てることを、自ら証明したのだ。 カナダから単身、日にやってきたのが8年前。勉強熱心で、いまでは日語を流暢に話す。漢字の読み書きもできる。世界トップレベルの実力を持ちながら、ケニーはなぜ日にこだわるのか。軌跡を辿った。 外国人として初めてG1 CLIMAXを制したケニー・オメガ カナダのマニトバ州ウィニペグ出身。幼少の頃、父と祖父の影響でプロレスが好きになった。日という国は知っていたが、日になにがあるかはまだ知らなかった。ゴジラは当に生きていると思っていた。 日に行きたいと思ったのは、12、13歳のとき。好

    ケニー・オメガが吠える「オカダ・カズチカはオレの80%だ」
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/10/06
    いつの日か見てみたいね、東京ドームで飯伏幸太とケニー・オメガによるシングルを
  • 人気再燃中。エース宮原健斗が語る「全日本プロレス」の今

    のプロレス界には、メジャーと呼ばれる団体が2つある。ジャイアント馬場が創設した全日プロレスと、アントニオ猪木が創設した新日プロレス。いま、どちらに勢いがあるかと言えば、紛れもなく後者だ。現在のプロレスブームの中心は、兎にも角にも、"シンニチ"。全日プロレスはすっかり影をひそめてしまった。 しかし、じつはいま"ゼンニチ"が緩やかに上昇しつつある。半年前、「ガラガラ」と聞いていたのが、先月、平日の後楽園ホールが満員だった。その次の興行も満員に近かった。プロレスファンの間でも、「"ゼンニチ"がキテる」という声をちらほらと耳にする。人気の立役者は、エース・宮原健斗。強烈なヒザ蹴りと華麗なジャーマンで、会場を熱気の渦に巻き込む。三冠ヘビー級王座3度目の防衛を果たした宮原に、全日プロレスの今を聞いた。 歴代最年少で三冠ヘビー級王者になった宮原健斗 ―― 18歳で、佐々木健介さんが代表を務め

    人気再燃中。エース宮原健斗が語る「全日本プロレス」の今
    kowyoshi
    kowyoshi 2016/06/29
    今の全日本プロレスは芯は守りつつもフリーや他団体も対等に戦えるいい空気感の環境で、なんていうか大日本のそれにちょっと近いかも
  • 選手プロデュース弁当界のナンバー1は「のりもとんカレー」だ

    パ・リーグ主義で行こう! 「選手プロデュース弁当」徹底比較 第3回 西武・楽天編 前回、前々回に続いて、パ・リーグ各球団の「選手プロデュース弁当」比較の第3回目をお届けしたい。最終回は西武と楽天の2球団。両チームとも、質量ともにリーグ有数の弁当ラインナップを誇る。はたして、その内容は? 【西武】 独特のネーミングで、さまざまな「選手プロデュース弁当」を生み出しているのが西武ライオンズ。そのほとんどに当該選手のステッカーとカードがついていて、「その選手を応援しているんだ」という高揚感も満たされる。9月25日現在、8選手、全12種類もの弁当を誇り、他にも単体メニューが数多く並んでいる。 めずらしいのは炭谷銀仁朗選手。一人で「銀丼(1300円)」「銀ちゃんのチーズフォンデュ風たこやき(650円)」「ぎんやき(570円)」と3種類もプロデュースしているのだ。ちなみに、「銀丼」は特製のうま味ソースを

    選手プロデュース弁当界のナンバー1は「のりもとんカレー」だ
    kowyoshi
    kowyoshi 2015/10/02
    楽天と西武はスタグルに定評あるからなあ
  • 【プロレス】「男と男の約束をしてくれ」。元番記者が語る長州力の素顔

    ノンフィクション『真説・長州力 1951-2015』(田崎健太著)が刊行され、稀代のプロレスラーの半生が今再び注目を集めている。「革命戦士」と呼ばれた時代の寵児の素顔をもっともよく知る男――元『週刊ゴング』編集長・金沢克彦氏に、長州力の逸話を聞いた。 *** 私はファンの頃から長州力が好きだった。リングネームは名の吉田光雄、頭はパンチパーマで、レスラーとしてパッとしない時代。この人はすごく強いはずなのに、なぜ陽の目を見ないのかと子供心に思っていた。 長州力の名が発表されたのは、おそらくテレビの生中継だった。画面上に「長州力」の文字がバーンと出た瞬間に「え~!」と。なぜなら当時は、ジャンボ鶴田、ロッキー羽田とか横文字全盛。それなのに長州力はないだろうと。 1983年4月3日、ライバルの藤波辰巳に初勝利した長州力。選手としての絶頂期だ さらに、長州がマイクを持って挨拶を始めた途端、タイガー・

    【プロレス】「男と男の約束をしてくれ」。元番記者が語る長州力の素顔
    kowyoshi
    kowyoshi 2015/08/12
    これはきれいなGK
  • 【根本陸夫伝】広島を球団初のAクラスに導いた男|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

    陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実 連載第10回 試合前に大洋の別当薫監督(写真中央)と談笑する広島監督の根陸夫(写真左)。 証言者・衣笠祥雄(3) 1967年オフ、解任された長谷川良平監督のあとを継ぎ、広島の監督に就任した根陸夫。監督になってまず行なったのが戦力補強だった。特に根が球団に頼み込んでまで獲得したのが山内一弘だった。かつて首位打者、塁打王、打点王と数々のタイトルを獲得した山内だったが、この時すでに36歳。選手としてのピークは過ぎていた。しかし根の狙いは、広島の若手たちに山内の姿を見せることだった。その効果は結果となって表れ、入団4年目(当時)の衣笠祥雄は127試合に出場し、打率.276、21塁打、58打点の活躍を見せた。そしてチームも球団創設19年目にして初のAクラス入りを果たした。 若手の手となるプロ野球の成功者を獲得 広島の監督就任が決まった後、根

    【根本陸夫伝】広島を球団初のAクラスに導いた男|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva
    kowyoshi
    kowyoshi 2014/08/06
    今の西武はそういう面がないよなあ>西武の時も、ダイエー(現・ソフトバンク)の時も一緒。若い選手たちにプロ野球の世界で成功した人を見せましたから
  • 【根本陸夫伝】 41歳で広島初の外様監督に抜擢された男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball

    陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実 連載第9回証言者・衣笠祥雄(2) 1966年に近鉄を退団した根陸夫は、翌67年から広島のヘッドコーチに就任する。この年、広島は47勝83敗8分で最下位に終わると、長谷川良平監督は解任。その後任として根が監督の座に就いた。松田恒次オーナーから「企業としてのプロ野球球団を作ってほしい」と要請された根は、将来を見据えたチーム作りをはじめ、若手を積極的に起用した。その中のひとり、衣笠祥雄が当時を振り返った。 (前回の記事はこちら)何の説明もなく、突然のコンバート指令 1967年の6月、二軍でプレイしていた衣笠祥雄に対してヘッドコーチの根陸夫が言った。「明日からもうキャッチャーやらなくていいから、ファーストに行け!」 大型捕手として入団した衣笠だったが、根に口答えなどできるはずもなく、「はい」と言うしかなかった。「コンバートの理由なんてまったく

    【根本陸夫伝】 41歳で広島初の外様監督に抜擢された男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball
    kowyoshi
    kowyoshi 2014/08/06
    育てるなあ
  • 【根本陸夫伝】 若き日の衣笠祥雄にプロの心構えを説いた男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball

    陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実 連載第8回証言者・衣笠祥雄(1) 現役引退後、近鉄のスカウト、コーチとして活躍していた根陸夫だったが、1966年に退団。翌年から広島のコーチに就任することになる。当時の広島は一度も優勝経験がなく、松田恒次オーナーの「選手を育てられるコーチ」という要望に白羽の矢が立てられたのが根だった。根は厳しい指導で若手を中心に鍛え上げた。そしてその中のひとりに、後に広島の黄金期を支える衣笠祥雄がいた。衣笠が根との思い出を語った。 (前回の記事はこちら)初めて会った時にハートをつかまれた「いやもう、怖いだけです。怖い人ですよ、僕にとっては。まず目つきが鋭い方でしたし、雰囲気が”親分”という感じだったですからね。最初にお会いした時からハートをつかまれて、『ああ、この人には逆らえないな……』と思いました」 1967年、広島のコーチに就任した根陸夫の第一印

    【根本陸夫伝】 若き日の衣笠祥雄にプロの心構えを説いた男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball
    kowyoshi
    kowyoshi 2014/08/06
    分かるわ>『お前、プロ野球の選手だな?』って。『はい』って答えたら、『じゃあ、売り物はなんだ?』って言われて、その時『なんだろう……』って考え込んでしまった。いくら考えても答えを見つけられなかった
  • 【根本陸夫伝】 「清原には余計なことを言うな」をコーチに厳命した男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball

    陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実 連載第7回証言者・土井正博(3) 1981年に現役を引退した土井正博は、西武の管理部長だった根陸夫から「3年間、西武の野球を勉強して来い!」の言葉を受け、テレビ埼玉の解説者となった。その通り、3年間、西武の野球を見続けた土井は85年に西武の二軍打撃コーチに就任。86年から一軍の打撃コーチに昇格。そこで土井が指導を任されたのが、西武のゴールデン・ルーキー、清原和博だった。どう指導すればいいのか悩む土井に、根流の指導法を伝授。そしてゴールデン・ルーキーは、1年目にしてチームの4番へと上り詰めた。 (前回の記事はこちら)清原和博には絶対に余計なことを言うな!「根さんにまず言われたのは、『清原には絶対に余計なことを言うな。黙って見とけ』ということでした。たいていのコーチは、新人が入ってくるといろいろと教えたくなるんです。それで『これはアカン』と言

    【根本陸夫伝】 「清原には余計なことを言うな」をコーチに厳命した男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball
    kowyoshi
    kowyoshi 2014/08/06
    分かるわ>前から刺してくるヤツは、よくわかるヤツだ。(中略)逆に、後ろから来るヤツがいる。後ろに回られて、ブスっとやられたらそこでおしまいだぞ。野球界にはそういうヤツがいるんだから
  • 【根本陸夫伝】 指揮官として「感性の野球」を追求した男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball

    陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実 連載第6回証言者・土井正博(2) 1961年に当時スカウトだった根陸夫の誘いで高校を中退して近鉄に入団した土井正博。そして、その翌年から根はコーチとなり、土井の指導にあたった。「ゲーム前は胃袋を空っぽにするぐらいじゃないと、脳に鮮明なものが出てこない!」。根が、まだ若かった頃の土井に言ったときの言葉である。今から半世紀前の日球界に「脳」という言葉を使い、コンディショニング面も指導する人材がいた事実に驚かされる。土井は「それだけ先見のあった人」と言うが、根は1966年限りで近鉄を退団。奇しくも、土井が初めて4番に固定された年だった。翌67年、根は広島のコーチに就任。68年からは監督になった。リーグは違ったが、土井正博は広島に行くたびに必ず根のところに挨拶に行ったという。「広島に来ないか?」と誘われたこともあったが、土井は「最初にお世

    【根本陸夫伝】 指揮官として「感性の野球」を追求した男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball
    kowyoshi
    kowyoshi 2014/08/06
    ははは>作戦は下手でしたね(笑)。下手というか、ものすごく大雑把でした。『ミーティング? そんなもんはいらん。お前ら、感性で野球せえ!』という人
  • 【根本陸夫伝】 高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball

    陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実 連載第5回証言者・土井正博(1) 選手としての根陸夫は、近鉄での6年間のみ。しかも実働は4年で出場したのは186試合。成績も通算70安打、2塁打、23打点、打率.189しか残していない。2年目の1953年こそ主力捕手となったが、プレイヤーとしての根は記録にも記憶にも残らないような存在だった。それでも気配りが行き届き、日大三中(現・日大三高)、法政大学でもバッテリーを組んだ関根潤三を筆頭に、投手を気分良く投げさせる捕手として評判だった。また、抜群の記憶力は投手陣にも首脳陣にも頼りにされ、一軍出場のなかった1955~56年は、プロ野球経験のない芥田武夫監督をサポート。主に根が投手のローテーションを決めていたという。1957年に31歳で現役を引退したあとも、スカウト、二軍マネージャーとして球団に残った。実際、スカウトとしては1961年にパ・リ

    【根本陸夫伝】 高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball
    kowyoshi
    kowyoshi 2014/08/06
    土井正博を獲得したのも根本さんだったとは
  • 【根本陸夫伝】 15年先のチーム構成まで考えていた男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball

    陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実 連載第4回証言者・森繁和(4) 1981年のシーズンが終わると、根陸夫は監督を退任し、管理部長専任となった。そして次期監督として根が指名したのが広岡達郎だった。広岡が監督に就任した1年目の82年、西武となって初のリーグ優勝を果たすと、日シリーズで中日を下し日一を達成。翌83年にはリーグ連覇を成し遂げ、日シリーズでは巨人を4勝3敗で下し、西武黄金時代が幕を開けた。(前回の記事はこちら)何もないところを一から作り上げていくのが好きだった「監督を広岡さんに譲って、管理部長、実質GMになった根さんは、『現場に口は出さん。でも、与えられた選手で戦え』という方針でした。その上で、『何年後かにはこの選手を一人前に育てろ。そうしたら、そのポジションは10年間触らない。他のポジションの選手を優先的に獲る』と」 他のポジションの選手を優先的に獲りにいく

    【根本陸夫伝】 15年先のチーム構成まで考えていた男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball
    kowyoshi
    kowyoshi 2014/08/06
    BBM在籍当時の杉山さん(週プロ初代編集長)に似ているかも>地盤ができていないところに行って、一から作り上げていくっていうのが好きなんですよ
  • 【根本陸夫伝】 落合博満に、のちの参謀となる森繁和を推薦した男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball

    陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実 連載第3回 証言者・森繁和(3) 森繁和が根陸夫を語る上で忘れられない思い出がある。それは1986年に渡米し、右ヒジの手術を行なった時ことだ。森は、1982年のシーズン途中からリリーフに転向し、翌83年に34セーブを上げて最優秀救援投手のタイトルを獲得。西武の2年連続日一に貢献した。しかし、その後は右ヒジの故障に苦しみ、思うような結果を出せずにいた。手術を希望するが、当時の日に執刀してくれる医者はおらず途方に暮れていると、根は森に渡米して手術することを勧めた。その時に森は、根の先見の明の確かさに驚きを隠せなかった。(前回の記事はこちら)オレは根さんに実験台にされたのかもしれない「今でこそ、日国内でも野球選手が肩やヒジを手術したり、リハビリしたりすることは珍しくありませんが、30年前の日球界は、スポーツ医学の面でアメリカに相当な遅

    【根本陸夫伝】 落合博満に、のちの参謀となる森繁和を推薦した男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball
    kowyoshi
    kowyoshi 2014/08/06
    根本さんの手のひらで踊らされている感……
  • 【根本陸夫伝】 裏技を駆使して一流選手を次々と入団させた男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball

    陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実 連載第2回証言者・森繁和(2) 根陸夫が新生・西武ライオンズの監督となった1年目の1979年は45勝73敗12分。当時のパ・リーグは前期、後期の2シーズン制で前期6位、後期5位、通年では最下位に終わる。1980年は前期6位、後期は一時的に優勝も見えた4位で、通年4位。1981年は前期2位、後期5位、通年では再び4位となった。その間、ドラフトでは内野手の石毛宏典、投手の杉正をはじめ、社会人から即戦力選手を獲得し、ドラフト外で後の主砲となる秋山幸二が入団。1981年はスティーブ、テリーの両外国人が田淵幸一とともに打線の中軸を担い、投手陣では森繁和が14勝を挙げてチームの勝ち頭に。徐々に補強の効果が出始めていた。(前回の記事はこちら)長嶋茂雄も王貞治も、これから口説き落とす「西武ライオンズ創設3年目の前期に優勝争いして、根さんはそろそろこのメン

    【根本陸夫伝】 裏技を駆使して一流選手を次々と入団させた男|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|Baseball
    kowyoshi
    kowyoshi 2014/08/06
    今の西武はどうだろう>持ち場をぐるぐる回しながらコーチ、スカウト、両方できて、フロントとしても働ける人材を育て上げていく。
  • 【根本陸夫伝】新生・西武ライオンズを関東に根付かせた大胆な広報戦略|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

    高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki益田佑一●写真 photo by Masuda Yuichi 根陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実 連載第1回 1954年千葉県生まれ。駒大高、駒沢大、住友金属を経て、78年ドラフト1位で西武に入団。83年に34セーブを挙げて最優秀救援投手となるなど、西武の黄金期に活躍した。89年から西武の投手に。その後、日ハム、横浜、中日でコーチを務めた。 証言者・森繁和(1) (プロローグをはこちら) 2004年から中日のコーチを務め、参謀として8年間、落合博満監督を支え続けた森繁和。チームはAクラスの座を守り続けた中で、4度のリーグ優勝、1度の日一を達成し、指導者として確固たる実績が作られた。森は2011年限りで落合監督とともに退団。野球評論家となって刊行した二冊の著書には、「根陸夫」の名が何度も登場している。1999年

    【根本陸夫伝】新生・西武ライオンズを関東に根付かせた大胆な広報戦略|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva
    kowyoshi
    kowyoshi 2014/08/06
    根本さんの迷エピソードw